第35話
右手が焼けるように熱い。マツリは壁に手を当てて体を支えながら救護室から離れると、左耳の裏を押し込んだ。オニ部隊から借りていた通信用パッチが無いことに気が付く。右耳にも無い。
「どうりで静かなはず……」
だが静けさの理由はそれだけでは無いようだ。救護室からも、スタジアムからも、バックヤードからも、なんの音も聞こえてこない。かなり弱くなった雨音を妙に強く感じていた。
右手と脇腹の痛みに耐え、うまく動かない体を前へ前へと進めていく。徐々に煤けた匂いが強まってきた。地下駐車場への階段に近づいているのだ。通路の突き当たりに辿り着き、その角を曲がった時だった。異様な光景が有無を言わさず彼女の脳裏に焼きついた。思わず壁から手を離してしまい、尻餅をつく。
そこにあったのは頭部が白い玉に挿げ変わった多くの人たちだ。あるものは床に倒れ、あるものは壁を背にするように座り込み、あるものは立ったまま、何をするでもなくただそこにいる。救護室の女と同じだ。
なるべく音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、そろそろと繭人間の間を進んでいく。よく見れば繭の透明度にはブレがあり、殆ど透けない時もあればくもりガラスのように僅かに透けて中の顔が少しだけ見える時もある。どれも目を開けていて、瞬きもしている。どこか満たされたような表情にさえ見える。だが体は動く気配が無い。
さらにゆっくりと脚を運ぶ。足裏に汗をかいていることをはっきりと感じた。つばを飲み込み、何も起こらないようにと口の中だけで呟きながら駐車場を目指す。
「なるほど、きみがナマハゲの」
目の前の繭人間が声を発した。体は動いていない。明後日の方を向きながら、声だけをマツリに向ける。体をビクリとさせながらもギリギリのところで悲鳴を上げることを我慢した。
「余計な事をしてくれたよね」
背後の繭人間だ。素早く振り返って距離をとる。足がもたついて背中を壁に打ち付けてしまい、小さく声を漏らした。
「彼がおとなしくしておいてくれたら、立ちふさがる壁はずっと低いものだっただろうに」
壁にもたれかかる男。壁を突き放すようにして距離を取る。
「糸は静かに育てたかったんだよ。それなのに暴動が起こったせいで来訪神や方相氏に未熟なまま祓われてしまった」
床に倒れている女。飛び退いてバランスを崩した体をなんとか立たせる。
「それでも私は乗り越えた。私を阻むものはもういない。それは彼らも同じこと。誰もが自分自身の繭に閉じこもり、幸せに私の糸を育て続ける」
誰でもない。繭人間の中から糸が飛び出し、中空を漂う糸が集まって玉になっていく。そこから首が生え、胴が生え、手足が伸びて子供のような形を作った。鼻が千切れそうなほどの悪臭。
「そして君もだ、ナマハゲの女」
繭の子供が大きな目をぐるりとさせてマツリを見上げて両手を差し出した。腕が解け、何本もの糸が彼女に向かって漂ってくる。地下駐車場への階段へ続く扉はすぐそこだ。がむしゃらに駆け出してそれを目指す。しかし糸は速度を増し、マツリを包み込むようにして行く手を阻んだ。床を転がるようにして回避。四つん這いになりながら前へ、前へ。だが糸はさらに数を増し、布のようになって行く手に立ち塞がる。それでもあとはドアノブに右手を伸ばすだけだ。
マツリは糸ごとドアノブを握り込む。それを回すとドアが開いた。だが、そこまでだ。彼女を大量の糸が包み込む。強い力でドアから引き剥がされるのを精一杯足に力を込めて防ごうとする。顔全体に糸が密着して息ができない。言葉にならない叫びがくぐもって漏れ出す。ドアノブにかかった指が一本、また一本と外れていく。
その時だ。燃えるような右手の痛みがさらに増した。いや、そうではない。燃えている。ほんの短い時間ではあったが右手が燃え上がって糸を燃やしている。その炎は糸を伝わり、マツリを捕らえていた糸を引き裂いた。糸の子供が苦悶の声をあげる。
同時にマツリの全身に悪寒が走る。まるで体中の熱が炎となって外に出てしまったかのようだ。だがそんな異変など気にしている場合ではない。糸の拘束が解けたその瞬間に扉の奥へと飛び込み、勢いよく閉めた。脇目も振らずに階段を駆け降りていく。
糸の子供は扉に向かって糸を伸ばす。その隙間から糸を差し込んでマツリを追うことは容易い。しかしそうはしなかった。扉から熱を感じたのだ。
「小賢しい……」
糸を集めて体を作り直す。冷たい視線で繭人間たちを見渡し、口角を歪めた。
「さぁみんな、集まれ。夢の続きを見続けるんだ。優しい繭の中で。私のために」
繭人間たちがぞろぞろと歩いていく。男も女も、警備員もスタッフも看護師も、目指す先はスタジアムの観客席だ。既に多くの繭人間が席につき、座りきれない者がコンコースにまで溢れている。多くの白い玉が密集するその様子は産み付けられた虫の卵のようだ。糸の子供はスタジアムの屋根からそれを愛おしそうに眺め、くつくつと笑っていた。
マツリは再び地下駐車場へやってきた。あたり一面が煤けていて、爆発を生き延びた非常灯のわずかな明かりしかない。その光景を見ただけで彼女の胸が強く締め付けられる。それを堪えて携帯電話のライトを起動し、闇の中で目当てのものを探す。探すべき場所は分かっている。自分の腕を切りつけた地点だ。消化液をかけられた車の残骸の間を注意深く進んでいく。
そうして目的の地点に近づくと、ライトの中に何か動く影を見つけた。廃車の側でもぞもぞと動いているそれは間違いなく人間だ。マツリに見えているのはその尻と足くらいだったが、彼女にはそれだけ見えれば十分だった。
「タマキ?」
車の下を探っていた影は頭をぶつけたのか、あいた、と声を上げて顔をマツリに向けた。
「マツリちゃん! え、大丈夫なの? 寝てなくて」
タマキは体中が煤だらけだった。自分でそれに気づいたのか、駆け寄ってマツリの腕に触れようとしたが、直前に手を引いた。その手には細い紐が握られている。
「あんた、それ……」
「あ、うん。探してたの」
「アタシも。でもなんであんたが?」
「いつも着けてたじゃん。お守りとか?」
「うん、そんなとこ」
「そっか。でも時計の方は見つからなくて……」
タマキの小さな手を差し出した。切断された藁の組み紐は煤が払われて青々としている。マツリがそれをつまみ上げると、じんわりとした暖かさが指先に伝わった。
「時計なんかいいのよ。ごめん、そんなに汚れて」
「ごめんじゃないでしょ?」
腕を組んでタマキが諫める。その様子を見てマツリは小さく吹き出した。
「あんがと」
「いいのよー」
「ありがたついでにさ、それ結んでくれない?」
「おっけおっけ」
タマキは服に手を擦り付けてから組み紐を受け取った。差し出された左腕に巻かれた包帯は乱れて血が滲んでいる。だからこそ、タマキはより一層丁寧に紐を結ぼうと思った。二度と外れないように。マツリを守ってくれるようにと祈りを込めて。
「はい、できましたー」
「ん、サンキュ」
マツリは手首に結ばれた組み紐を改めてまじまじと見た。新年になると祖父母が餅や野菜と一緒に必ず送ってきてくれる、縁起のいい藁で編まれた紐。小さな頃からそれを身につけるのが習慣になっていて、いつも彼女の左手首にあった地味で細い紐。今はナマハゲが宿る紐であり、タマキが結んでくれた紐。冷え切っていた彼女の体に熱が巡る。少しだけ目を閉じて、ゆっくりと開いた。
「タマキさ」
「なに?」
「アタシこれから変なこと言ったりすると思うんだけど、そこに居てくれる?」
「まるでいつもは変じゃないみたいな」
「ちょっと!」
タマキがからからと笑った。それを見たマツリは胸につっかえていた息を吐き出して同じように笑う。
「大丈夫。ここにいるから」
それを聞いて、もう一度深呼吸をして手首の組み紐に目をやった。
「ナマハゲさん、いますか?」
「ホントに変なこと言ってる」
「いいから!」
「はーい」
タマキが口に手を当てた。ナマハゲから返事が返ってこない。改めて声をかけてみる。
「ナマハゲさん?」
『……マツリか』
「あ! よかった……無事ですか? 姿が見えませんけど」
『この藁に逃げ込めたからな。だども、万全ではね。おめにおらの力を残すために大分無茶をした』
マツリはぼんやりと察してはいたが、看護師を悶絶させたり、糸を焼いたりした力はナマハゲが彼女の体に残した力だったのだ。そしてその力を全て使い切ってしまったことは悪寒を感じたときに実感としてあった。
「ごめんなさい、おかげで助かりました」
『なんもだ』
「でも、もう一回だけ力を貸してくれませんか。糸を使うやつ……多分、疫神を見つけたんです」
ナマハゲはしばし黙り込んだ。マツリが真剣な目で組み紐を見つめる様子をタマキが困惑した様子で見ていた。
『おらの力だば、疫神に勝てるとは限らねど。今の状態だば尚更だ』
「それでもです」
『おらは本当に力を貸す程度しか出来ねんだど。今までよりもマツリが自分で動かねばね』
「はい」
『怪我も、痛みも、ほとんど肩代わり出来ねど』
「構いません」
『それに……』
「ナマハゲさん」
マツリは分かっていた。ナマハゲは力を貸すために、疫神に立ち向かうために、この細い藁の組み紐に憑いてマツリを待っていたのだ。そうでなければ狭間に帰ることだって出来たのだから。それでもマツリにこれ以上負担をかけることに迷いがあるのだ。糸によって再び自分自身を傷つけてしまうことにならないかと思っているのだ。
「やりますよ。アタシ」
それならば。今度は自分が支えるのだ。ナマハゲと言葉を交わすうちにそんな勇気が湧いてきた。心の底からふつふつと湧き上がる熱が彼にも伝わる。
『……えふりこぎ』
「なんですって?」
『なんでもね。それよりいいんだが? おらと話してるところ見られてらど』
「ああ……」マツリはタマキと目を合わせる。「いいんです。全部知っておいて欲しいから」
『んだが。それなら行くど。はえぐ体に入らねば保たね。手を叩け』
「はい……!」
背筋を伸ばし、ふっと息を吐く。苦難に立ち向かう力を願って、一度。人々の無事を祈って、もう一度。高らかに手を叩く。
「タマキ!」
「はいっ!」
「ありがとうッ!」
「え?」
タマキにはハッキリと見て取れた。マツリの全身から立ち上る闘気が。その瞳の奥でゆらめく炎が。もう一度手が叩かれ、マツリの体が真っ白な炎に包まれた。暗闇の全てを飲み込むような炎が渦巻き、強い熱風がタマキにも届く。それでもタマキは目を逸らせなかった。光り輝く炎から目が離せなかった。そして炎の中から姿を現す。マツリではない。しかし確実に彼女の魂を感じさせるそれは、静寂の終わりを告げる咆哮を放った。
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