第34話
ソファで飛び起きたジュンが充電したままのスマートフォンを掴みあげると、いまだに様々なミュージシャンの特別編集映像を流してお茶を濁していた。トーキョー・クリスマス・ビートは再開していないようだ。時計を見ると4時を回っている。これだけ時間が押してしまうと出演をキャンセルする人も出てくるだろう。だがジュンは自分の出番を誰にも譲る気は無かった。
ジャージ姿のままレッスンルームを出ると、よく冷えた夜の空気と濡れたアスファルトの匂いが階下から昇ってきた。古い階段の先にある道路の様子を覗き込む。雨足はかなり弱まっているようだ。
「コウヘイくーん! いるー?」
「どうしたー?」
レッスンルームの中へ向けて呼びかけると上の階から声がした。軋む階段を駆け上がって扉を開く。事務室を思わせる無機質な部屋で牧村が開いたノートパソコンをそっちのけでテレビを見ていた。
「そろそろ行こうよ。天気良くなってきたよ」
「あぁ、それなんだけど」
牧村がテレビを指差す。暗がりの中に浮かぶ宇宙船が映し出され、ナレーターがなにやらがなり立てている。テロップを読んだジュンがそのまま口に出した。
「アカツキスタジアムで爆発事故か?」
「そう。もしかしたらイベント中止になるかも」
「えー!」腹式呼吸から繰り出される大音量が牧村の鼓膜を激震させる。「ダメだよそんなの!」
「ダメだって言ってもダメなもんはダメだろ。確認取ろうとしてるんだけど連絡取れなくてさ」
「じゃあ今すぐ行って確認しよ!」
「いや危ないだろ、ジュンを行かせられな――」
「行くったら行くー!」
牧村の鼓膜が危ない。それに心臓もだ。こうなってしまえば彼女を止める術など無いことは重々承知しているの。しかし何があろうと彼女の身に危険が降りかかることだけは避けなければならない。
「わかった、わかったから」
「よっしゃ! すぐ車出して!」
「わかったからこれだけは約束してくれ」
「いいよ! なんでも約束しちゃう!」
両手で二つのオッケーマークを作り、アイドルらしい明るさで調子のいい返事をした。牧野は額に手を当ててため息混じりに言う。
「じゃあ、何があっても俺の元を離れるなよ」
「なにそれ、プロポーズ?」
「あのなぁ……」
「わかったから! 車を出す! すぐに動く!」
「出すからヨダレくらい拭け! 服も着替える!」
「ぎゃっ!」
ジュンが手早く身支度をしているうちに牧村が軽自動車を階段下につけ、飛び乗ってくる彼女を待ち受ける。細い路地を抜けてバイパスに出るが、この時間は首都東京とはいえ車も人も少ない。ジュンはそんな非日常を感じる街並みを眺めながらも手元の携帯電話に何度も目を落とし、マツリとタマキからの返信を待っていた。
「ほんとに連絡つかないね。既読にもならない」
「スタジアム周辺に居ない人とは連絡がついてるから、二人はまだあそこにいるのかも」
「記者だもんね。ほんとに事故とか起こってるなら離れられるわけないか」
窓を雨粒が走り、その奥を暗い都市が流れていく。しかし遠くにアカツキスタジアムの明かりが見えてくるあたりから急に流れが止まった。多くのメディアと交通規制によってこの時間にも関わらず大渋滞が発生していたのだ。
「どうしよ、これ」
「ジュンの出番には間に合うさ」
「んー……」
ジュンは足をそわそわとさせて外を眺めている。牧村には彼女が何を言いたいのか手に取るようにわかった。バイパスを外れて脇道に入り、最寄りの駐車場に車を停めた。
「それじゃ、行きますか」
「おおっ! わかってるじゃーん!」
「さすがにね」
ジュンはすぐさま車から飛び降りて足の筋を伸ばす。それから軽く腿上げをして衣装を詰め込んだドラムバッグをたすきがけにした。
「遅れないでよ、コウヘイくん!」
「いやちょっと……」
軽快に走り出したジュンを牧村が追いかける。傘くらいさせ、走らなくても間に合う、離れるなって言っただろ、そんな言葉を聞いてか聞かずか彼が見失わない程度の距離を保っている。細い雨が多くのヘッドライトに照らされている道をジュンが跳ねる。大物になるよ。早くも血の味を感じながら牧村はつぶやいた。
マツリは腕の痛みで目を覚まして体を起こした。救護室はひどく静かだ。いや、スタジアム全体が静まり返っているのだ。時計を見ると4時半を過ぎたところだ。
「柴灯さん!」
近くにいた看護師が駆け寄ってくる。ずっと働き詰めなのだろうか、その顔にも衣服にも疲労の色が見えた。看護師はもう一人いるようだが、部屋の隅の椅子で眠っているようだ。
「ダメですよ、動いたら。まだ安静に」
「はい……」
再び腕に痛みが走り、そちらへ目をやる。シャツの左袖が大きく裂けて捲り上げられ、綺麗に包帯が巻かれている。そこで初めて腕時計と藁の組み紐が無くなっていることに気がついた。
「私、腕に何か着けてませんでしたか?」
「あー、分かりませんが、外したものがあればそこのカゴに入ってますよ」
看護師が簡易ベッドの横を指した。中を確認してみたものの、携帯電話の他には何も入っていない。周囲を見回してみた。どこにもナマハゲの姿はなく、それらしい気配も感じない。思い切って鼻から息を吸ってみると、消毒液のような匂いがするばかりだった。
「すみません、トイレ行ってきていいですか?」
「それなら尿瓶があるので、私がやりますよ」
「いえいえ! ほんと、大丈夫なので!」
マツリはベッドから降りて両足で立って見せる。
「ほら、ね?」
「あー……」
看護師にはお見通しだ。ベッドに腰のあたりを押し付けて体を支えていることが。彼女はマツリから視線を切り、テーブルの上からクリップボードをピックアップした。カルテだろうか。ボールペンをカチリとノックする。
「お前のために言ってるんでしょ……」
「え?」
「どうして言ったとおりに出来ないのよ!」
看護師が振り返った。ペンを振りかぶってマツリに振り下ろす。とっさに出てしまった左腕に突き刺さった。悲鳴を上げるマツリを看護師は凄まじい力でベッドに押し倒し、再びペンを振り上げる。
「痛いでしょ! もっと痛みがないと分からないの!」
「やめろ!」
そこでマツリは見た。看護師の顔が霞んでいる。細い半透明の糸が何重にも頭部に巻きつき、まるで繭のようになっている。救護室に運び込まれるときに一瞬だけ同じようなものを見た。ナマハゲが言う「糸」によるもの、疫神の力によるものであることは疑いようが無い。胸が詰まるのを感じた。だが体を固めてはいけない。
マツリは看護師に抱きつくようにして密着し、自分ごとベッドから転がり落ちた。右肩を打ち付けながらも看護師を下にする形でマウントを取る。
「ナハマゲさん!」
手を叩く。乾いた音は響くことなく宙に消えた。その一回でマツリは悟る。ここにナマハゲはいない。左の脇腹に冷たい痛みが走った。ペンが深々と刺さっている。倒れこんだマツリに看護師が覆いかぶさる。マツリに何かを考える余裕など残っていない。ただただ腕を振り回し、看護師の顔を押して本能のままに抵抗するだけだ。
「安静にッ! しろォ!」
だがそうして看護師の顔に触れた時だ。瞬間的に手のひらが熱くなる感覚。看護師が顔を押さえ、金属質の悲鳴を上げて崩れ落ちた。その隙にマツリは看護師の下から這い出し、戸惑いを振り切って救護室の外へと駆け出した。
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