第33話


 灘儀は苦悩していた。隊の統率が取れていないのだ。ある者はナモミツキに向かって駆け出し、ある者は一般人の前からがんとして動かない。灘儀の提案も馬の耳に念仏だ。もはや集団としての戦力ではなく、複数の個が動いているだけに過ぎなかった。灘儀は全体を守るべく立ち回るものの、それも限界だ。しかしそこへ助け舟が出された。


《こちら本部。梅屋隊、陣形を保て》


 全体を監視している本部からの連絡だ。それはあくまでも部外者にすぎない灘儀が口を出すよりもずっと影響力が強い。今まではどうしても正面口に注意を払わなければならなかったのだろう。ようやくこちらの異常に気づいたのだ。だがそれさえも事態を好転させることはなかった。


「お前に何がわかる! 現場は違うんだよ!」

「ここにいる人を守れるのは俺だけだ!」

《何を言っている……いや、お前たち反応が出ているぞ! レッドだ! 梅屋隊レッド!》


 隊員のひとりがナモミツキを警棒で叩き伏せる。そして振り向き、他の隊員を視界に捉えた。


「お前か。お前も……お前も! レッドか!」


 また他の隊員も口々に声を上げる。


「ちくしょう! お前らがレッドだなんて!」

「お前らレッドじゃねぇか! 隊の恥さらしめ!」


 そして各々が銃を取り出す。すぐさまビーンバッグ弾が発射され、数人のバイザーが破壊された。


「やめろ!」


 灘儀は叫ぶ。しかし誰も聞く耳を持たない。オニ部隊は同士討ちを始め、何発ものビーンバッグ弾が飛び交い、瞬く間に半数が気絶した。いかに力のある方相氏といえど銃器には太刀打ちできず、観客席に飛び込んで身を隠した。すぐ隣に気絶した隊員が転がっている。バイザーが割れ、その破片が顔を傷つけている。


「これは……!」


 仮面を上げ、隊員の顔を見た灘儀は気づく。その目元に細い糸が何重にも巻き付けられている。ここで暴れていたナモミツキの顔に巻きついていたものと同じものに見える。そっと手を伸ばして指先で触れる。明確な悪意を感じた。


「これがナマハゲ様のおっしゃっていた糸か。人をナモミツキへと落とし、操る糸……触れるまで気配を感じなかった」


 灘儀は巻きついた糸をむんずと掴んで引き剥がす。思ったよりも脆く、ブチブチと千切れて紫の煙が漂った。糸の片方は隊員の胸元へと繋がっており、もう片方は中空へと伸びていることは見えたものの先端は目視できない。その先にこの糸の主、疫神がいるのだろうと推測して息を呑む。


「オニ部隊のみなさん聞いてください! バイザーの下に糸が――」


 頭上に殺気。反射的に飛び退くとビーンバッグ弾が体を掠めた。隊員のひとりが灘儀に銃口を向けている。距離が近い。ポンプアクションの隙をついて素早く槍を振って銃を叩き、返す動きで刃の腹を使い右肩を強打した。スパークするような音と共に紫の煙が噴き出し、銃を落とす。

 その時、彼の脇腹に強い衝撃が走った。ビーンバッグ弾が直撃。一瞬息が止まる。背後から他の隊員が彼を撃ったのだ。今度は槍よりもやや遠い距離だ。瞬間的に頭に血が上り、目を爛々と光らせる。


「キサマ! いい気になるなよ!」


 灘儀は槍の先端を銃口へ向けて突進する。痛みなど、怒りの前では些細な問題だった。さらにビーンバッグ弾が発射される。それは槍に僅かに触れて軌道が逸れ、灘儀の頬を掠める。ポンピング。そこへ槍が襲い掛かる。右肩に深々と突き刺さった。噴き出したのは赤黒い血だ。


「何がオニ部隊だ! 俺がいなければとうに全滅していたくせに!」


 灘儀は槍を引き抜き、大きく回して刃を走らせる。軌道上には首。白い歯が覗く。だが刃が首を捉える事はなかった。何か大きな質量のものが彼の背中に衝突して突き飛ばされたのだ。


「タツ」


 それはパーントゥだった。灘儀の名を呼び、土俵入りのように彼と隊員に泥を浴びせかける。そして灘儀を抱き起こして彼の目元に手をやった。


「ついてるぞ。糸」


 そう言って目元から糸を引き千切る。灘儀は苦しそうなうめき声を上げて目を開けた。パーントゥが手にした糸が目に入る。


「クロ……それが、僕に?」

「そうだ」

「全く見えなかった……いつからあったんだ?」

「知らん」

「バックヤードにいたときは無かったってことか。ここに来てから、巻きつけられたのか」

「大丈夫なのか」

「すまない。大丈夫だ。彼にはすまないことを……」


 灘儀は隊員が携行している止血パッチを取り出して肩に貼り付ける。そうしているうちに彼の胸元から糸がするすると伸びて宙を漂い始めた。すぐさまパーントゥがそれを引き抜いて千切る。しかし糸が出ているのはその隊員だけではなかった。周囲の隊員やナモミツキからも糸が浮かび上がり、同じ方向へ向けて飛んでいく。その様子を見た灘儀が立ち上がり、脇腹を押さえながら声をあげた。


「クロ、さっきの糸玉どうした?」

「拘束した」

「糸はそこに向かって飛んでいるようだ。糸を集めて何かしようとしてるんだ」

「何か?」


 そこへ通信が入る。各所にあったナモミツキの反応が一斉に消えていっているというものだった。正面からも、東からも、灘儀と宮古がいる場所からも、さらにはバックヤードからも次々と消えていっているのだそうだ。


「オニ部隊がやったのですか?」

《そのはずですが……対応していた隊員の多くが気を失ってしまっていて確認が取れないんです》

「鹿又さんは?」

《鹿又だ。私は無事だ。しかし隊員たちは多くがナモミツキと共に倒れてしまった》

「ナモミツキと同時に?」

《そうだ、糸が切れたようにな》

「糸が……」

「鹿又。糸が飛んでないか?」

《宮古くんか。糸とは、ナマハゲが言っていたものか? そういったものは見えないが》


 灘儀と宮古は顔を見合わせる。それぞれの背後には今まさに飛び去っていく糸が見えていた。彼らのような者にしか見えない糸なのかもしれない。無言のうちにそれを感じ取った。


「鹿又さん、私たちは糸を発見しました。これから少し調べてみます」

《大丈夫なのか? 危険なものなのだろう?》

「恐らく私たちにしか出来ないことですので。鹿又さんは倒れた人たちに対処してください」

《そうか。頼んだぞ》


 鹿又の声は普段と比べて張りが無いようだった。灘儀はそれに気づいていたが、今はどのような状況だとしても動いてもらうしかない。通信を切り、目を閉じてそのことを飲み込み、宮古に向き直った。


「糸の玉を調べなければ」

「あれは何なんだ」

「わからない。だがあの糸は間違いなく疫神によるものだ。やはり糸玉は破壊するべきかも……」

「わかった」

「待て!」駆け出そうとするパーントゥを呼び止める。「僕も行く」

「よし」


 言うや否やパーントゥは灘儀を米俵よろしく担ぎ上げた。深刻さで塗り固められていた彼の顔が破れる。


「バカ! 自分で歩くって!」

「それじゃ遅い」


 泥流が観客席を突き進む。灘儀は後から流れゆく景色のなか、顔にはねる大量の泥を浴びながらも懸命に槍を握っていた。たまらず仮面を降ろして顔を守る。そうして顔が隠れると、このような状況にもかかわらず、宮古に担がれては今ばれている自分が滑稽に思えて心がほころんだ。


 あっという間に西口へ到着。パーントゥは泥の上を滑るように停止して灘儀を下ろす。そこには依然として多くの人が倒れたままで、蔓の網によって拘束された糸の玉がぶら下がっていた。捕らえられているといっても玉は窮屈そうに回転を続けており、それには何か意図があるように感じられた。


「これか。まさに糸の玉だな。見ろ、四方八方から糸が集まってきてるぞ」

「玉、大きくなってる」

「そうだろう。だけどこの行動がよくわからない。糸は疫神が疫霊を使って人間に埋め込んだんだろうが、そうしてから回収する理由はなんだ? 結局集めるつもりなら人間を経由せずにそうすればいいと思わないか?」


 灘儀は糸玉に吸い寄せられるように飛んでくる糸と、それを巻き取っている様子をまじまじと観察しながら宮古に話しかけた。

 この玉を使って疫神は何をしたいのだろうか。ナモミツキを増やして隠禍孔を開けたいのであれば糸は人間に入れたままでいいはずなのだ。その糸をわざわざ人間から出して一箇所に固める理由がどうしても理解できない。


「必要だからだろ」

「そりゃそうなんだろうけど……」


 そうして2人で糸玉を見ながら考えを巡らせた。こうして糸が巻き取られることでナモミツキだった人が元に戻っていくならこのまま回しておくのもいいのかもしれない。だが宮古の言うように、これは必要だからやっていることなのだろう。それならば疫神の思惑通りにさせるわけにはいかない。やはり破壊するべきか。


「悩んでいるね」


 灘儀と宮古は同時に戦闘態勢をとった。糸玉からくぐもった高い声がした。


「ハハ! そう警戒しないで」


 糸玉の回転が緩やかになり、そして止まった。蔓の網の中から何本もの糸がだらりと垂れている。玉を横切るように切れ込みが入り、口のようにパクパクと動き出す。


「きみたち、やるじゃないか。帰ってこない糸があるのはきみたちの仕業だね?」

「何者だ」


 宮古が腕を振るって泥をかける。糸玉は高速回転してそれを弾き、再び止まると口を動かす。


「しかしきみたちにも糸は入ったはずなんだけどなぁ。ま、全てが思い通りには行かないということか」

「疫神ですね、あなた」

「どうもこの世界は、思った以上に動きにくい。でも大切なのは挑戦する心だ。フロンティア精神ってやつさ」

「答えろ!」

「挑戦には障害がつき物。それを乗り越えるためにはもっと力が必要だ」


 糸玉は二人の言葉にはまるで耳を貸さず、口のような切れ込みを軽快に動かして話し続けている。そして再びゆっくりと回転を始めた。


「気づいているだろう? こうして糸を集める事で、きみたちがナモミツキと呼ぶものは元の人間に戻る。私はもっと糸を集めたい。両者の利害は一致しているんだ」

「クロ、やはり好きにさせられない。こいつを祓う。フォローしてくれ」

「おう」


 灘儀は数枚の護符を取り出し、糸玉の周囲に撒いてなにやら呟く。バチバチと電気が弾けるような音と共に糸玉の回転がいびつになった。


「ハハハ! これが壁だ! 私の挑戦に横たわる障害だ!」

「お前の挑戦とやらはここで終わる!」


 灘儀の槍が糸玉に突き刺さる。回転はピタリと止まり、巻かれていた糸がぷつぷつと切れる。紫の煙が蒸気のように噴き出し、一気に視界を奪う。


「どうなった!」

「タツ、動いてる」


 煙の中から何本もの糸が四方八方へ向けて飛び出した。灘儀とパーントゥは反射的に身をかわして距離をとる。周囲は一瞬のうちに糸が張り巡らされた。


「さぁ壁よ! 私を止めてみろ!」

「忘れてるのか?」煙の中からパーントゥに向けて蔓が飛んできた。「網の中にいること」


 蔓を掴んで力強く引っ張ると、煙の中から網に囚われたままの糸玉が飛び出してきた。そのまま地面に叩きつけ、その反動で壁へと叩きつける。その隙に灘儀が張り巡らされた糸をなぎ払った。


「クロ、頼む!」

「おう」


 壁で弾んだ糸玉に向けてパーントゥが飛ぶ。そのままボレーを当て、再び壁へと叩きつけた。泥にまみれた玉はぐにゃりと歪み、切込みから煙を吐き出す。そこへさらに灘儀の追撃だ。深々と槍を突き刺し、玉を磔にする。さらなる煙が吐き出された。


「効いてる」

「よし、決めるぞ!」


 灘儀は護符を取り出し、最大の力で糸玉を祓うべく九字を切る。煙が晴れていく。糸玉を串刺しにしている槍が見え始め、それに向けて護符を飛ばそうとしたその時だ。槍の先が見えた。磔にされていたのは、オニ部隊の隊員だ。


「なぜ……方相氏……」


 隊員は肩を貫かれ、浅い息で訴えた。灘儀の手が止まる。その隊員はついさっき正気を失ったときに刺してしまった隊員に相違なかった。


「どうして君が……!」

「これを抜いてください、方相氏……苦しい……」


 灘儀は自分自身を諌めた。こんなものに惑わされるんじゃない。ありえないことが起こっている。疫神の術に違いないのだ。改めて護符を振りかぶると、両方の肩に誰かの手が乗った。


「彼に悪いと思わないのかい?」


 怪異を感じるものではない。いたって普通の人間の声だ。


「あれは違う。幻覚だ」


 自分に言い聞かせるように呟く。


「そうやってまた彼を苦しめるの?」

「オニ部隊のこと、よく思ってないんでしょ?」

「まずは謝ろうよ」

「理由はどうあれ傷つけた事に変わりは無いじゃないか」


 灘儀を責める声がとめどなく聞こえてくる。これも幻覚なのか。そのはずだ。


「きみは誰を守れたの?」

「オニ部隊、みんな倒れちゃったよ」

「観客も大勢倒れてる」

「君じゃ力不足だったのかもね」

「そのせいでみんなやられちゃった」


 たまらず振り返る。倒れていた観客が立ち上がり、灘儀を責めている。


「幻覚だ! こんなもの! クロ!」

「どうして彼が来てくれると思うの?」

「それこそ君の幻覚だよ」

「彼は君よりも優れているのに」

「君がちゃんとしていれば彼は……」


 灘儀の目が大きく開かれた。人だかりの中に糸の玉があった。いや、玉ではない。あれは繭だ。大きな人間に糸を巻きつけて作った繭だ。それでも見間違えるはずは無い。その繭には宮古が入っている。


「クロ!」


 人だかりを掻き分けて繭を目指す。しかし、どれだけ進んでも繭の下へはたどり着かない。掻き分けた人間からは絶え間なく灘儀に声が浴びせられる。


「先代までは優秀だったのに」

「灘儀家の失敗作だ」

「クロにはもっと立派な友達ができたはずなのに」

「君が変な道に引きずり込まなければさ」


 聞き流そうとした。今はそれどころではない。だがそれはできなかった。まるで自分の心臓から響いてくるような非難の声はそのまま彼の心臓を締め付ける。何か冷たいものに包まれるような感覚がすると、どこからか、ハハハと、くぐもった甲高い笑い声が聞こえていた。


 雨はいつの間にか弱まり、しとしととスタジアムを濡らしている。その雨音よりも大きな音はスタジアムのどこにも無かった。

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