第29話


 ナマハゲは悠然と封じられた出入り口へと向かっていく。彼に触れないようにしているのか、波打つ床は彼を避けるように距離をとっている。


「おらたちは『速い』鎌だと思ってあったのに、おめが『見えない』鎌だって口走ってくれたからタネが分かったなだ。要は空気の鎌だべしゃ、そら弱々しい攻撃しかできねべな。速いならもっとつええ」


 ナモミツキは絶句する。自分のミスを認めたくない。下だと思っていたやつに上回られたことを認めたくない。


「だが! 対処できないのは同じだ! 俺の居場所だって分からねぇ! 分かるはずがねぇ!」

「ここまで来て本当にそう思えるなら、おめでてぇ奴だごと」

「黙れェ!」


 無数の空気の鎌が襲いかかる。狙いを定めてなどいない。変化させた体が霧散して減ってしまうことも考えていない。ただただ大量の空気を鎌に変化させ、今ここでナマハゲを切り刻むことしか考えていない。それは一定の成果を出していた。背中、腕、膝、仮面にまでも、みるみるうちに傷がついていく。

 だがそれは最初だけだった。ナモミツキは空気の鎌を振るい続けるが、それがナマハゲに届かなくなったのだ。その理由はひと目でわかるごくごく単純なものだったのだが、彼は目を疑った。


「気合い入れてけよマツリ! おめの心がおらを動かすんだからな!」

「気合いしか! 無いっす! アイツをがっちめがしてやりましょうよ!」

「お前……狂ってやがるのか……?」


 ナマハゲは炎を纏っていた。腕に、足に、頭にまで、全身が炎に包まれている。自ら発した炎ではあるが、それは明らかに度が過ぎたものだ。激しく、眩いほどの大きな炎が彼自身をも蝕んでいく。マツリは歯を食いしばって意識をつなぎとめていた。

 しかしこれによって空気は激しく揺らぎ、燃やされていく。空気で鎌を形成することができず、そもそも空気自体が減っていっているのだ。一方で室温は急上昇。ナマハゲの近くの車に火がつき、続々と爆発し始める。照明が壊れて炎のあかりが空間を支配していく。その中をナマハゲが征く。


「何してやがんだテメェーッ!」

「わい、何を慌ててらんだ? 駐車場の中にいるんだな?」


 さらに車が爆発。空気は明らかに薄くなり、ナマハゲの息遣いも荒くなる。しかしナモミツキも冷静ではいられない。ナマハゲの炎に焼かれた煮こごりが発生させる紫の煙が爆発の黒煙と混ざり合っていく。


「来るんじゃねぇよ! 止まれ!」

「本当に素直な奴だごと」


 ナモミツキの頭にあるのはもはや逃走することだけだった。自ら作り出した出入り口の壁に指令を出してナモミツキの体に戻し、逃走経路を確保しようとする。だがそうはならない。まるで体の一部が麻痺しているかのように壁が言うことを聞かない。その壁は突き刺さったナガサによって祓われており、もはやただのコンクリートの塊でしかなかった。


「悪い子、今行くがらな」


 壁からナガサが抜き取られた。刀身が赤と黒でゆらめく。車が爆発するとさらに強くゆれた。そして響くナマハゲの咆哮。


「オォーオオォ! オォーオオォ!」


 ナモミツキは言葉を発しなくなった。ただただ息を潜めている。その声がなるべく遠くへ行くことを祈り、近くへ来ないことを祈るしかない。だが、誰に向けて? 神様? 今まさにその神が、爆炎と共に迫っているというのに?


 もはやナモミツキの心には何もなかった。隠れていた車のトランクが開かれ、すすけた仮面が覗いた。纏っていた炎が消え、全身からぶすぶすと煙を立てている。


「ナマハゲ、来たど」


 分厚い煮こごりにまみれた男の中に生まれた小さな恐怖が渦を巻き、押し寄せ、彼の体を埋め尽くした。俺の負けだ、許してくれ、そんな言葉が意思とは関係なく口を突く。駐車場に張り巡らされたナモミツキの薄い体も、彼自身が隠れていたニセモノの車も、徐々に溶け出していく。立ち上る紫の煙のせいなのか、ひどく視界がわるい。


「ハハ……」


 ナマハゲは乾いた笑いを漏らしながら煮こごりの中に手を突っ込むと、男の頭を鷲づかみにして引きずり出し、そのまま吊り上げた。もはや言葉にならない言葉を男が発するたび、同じように笑いを漏らす。


「マツリ?」

「いいザマですよね」


 ナガサを握りこんだ厳しい右の拳が男の腹にめり込んだ。男はドロドロになった車に叩き込まれて再び煮こごりにまみれ、その泥沼の中でもんどりうった。紫の煙は立っていない。祓いの力が込められていないのだ。


「なにしてらんだ!」

「報いですよ。ナマハゲさんも牧村さんにやってたじゃないですか。元はといえばコイツが悪いんですから、痛みを味わってもらわないと」


 マツリはさも当然といったように笑い混じりで話した。素早くナガサを振るい、男の背中を浅く切った。痛みで身をのけぞらせると今度は腹を切り、許しを請うように突き出した右の掌を切った。


「アーッハッハ! いいぞ! 恐怖はナモミを減らすんだ!」

「やめれ! お前のはただの憂さ晴らしでねが!」

「アタシがやりたいっつってんだ!」


 マツリの声が響き、ナマハゲの諫める声は届かなくなった。胸倉を掴んで男を引き起こし、顎へナガサを当てる。ナマハゲはそれを止めようとするが、体の自由が全く利かない。しかもまるで暗闇に押し込められているかのように殆ど何も見えなくなっていた。マツリの声もどこか遠くから聞こえているかのように感じている。


「人のことを好き勝手切り刻んでおいて、自分はそうならないとでも思ってたの?」


 男を突き放してナガサを振るう。1度、2度と切りつけると男は再び倒れこんだ。狂ったように悲鳴を上げ続けている。マツリはしゃがみ込んで威圧的に話しかける。


「アタシを切ってくれた分を返してやるだけだよ。ほら立て。次に倒れたらつま先から輪切りにしていくからな」


 よろよろと立ち上がる男を眺める。膝が大いに笑っている。その膝を切り、腕を切り、頬を切って額に刃を触れさせた。徐々に力を込めていくと頭部を両断するように血が流れ出す。


「よぉし! 倒れるんじゃないぞ! 反撃してもいいぞ! 避けてもいいぞ! アタシの刃は見えるんだからな!」


 仮面の反響なのか、金属質な笑い声と共にナガサを引く。顔面にまっすぐな赤い線が引かれた。男は悶絶して倒れそうになる体をどうにか持ち直し、腕から小さな鎌がついた黒い触手を伸ばしてマツリに突き刺した。人間の体自体がナモミツキに変化しつつあるのだ。


「1回追加ァ!」


 マツリは触手ごと男を袈裟切りにした。男は絶叫し、さらに腕から、肩から、指から触手を伸ばしてマツリを突き刺す。


「3回追加ァ!」


 腹と両足の大腿を切った。喉をガラガラと鳴らしながら男はついに倒れこむ。全身から小さな鎌がついた触手が伸びているものの、それを振るう力さえ無いようだ。


「あーあ。じゃあ約束だから、輪切りね」


 躊躇無くナガサを振り下ろす。しかし彼女の左腕が右腕を掴んで食い止めた。ナマハゲがどれだけ力を込めても動かせたのはその腕だけだった。


「なにしてんすかナマハゲさん。邪魔なんすけど」

「もういいべ……やめれ、おめのためにならね」


 マツリはしばらく黙りこくり、それから呆れたように大きく息を吐いた。そして突然自分自身の左腕を縦に切り裂いた。手のひらから手首、前腕にかけて血が噴き出す。左腕は痙攣するように宙を彷徨い、それでも仮面を鷲掴みにして視界を塞ぐ。

 その時だ。指先に何かが引っかかる感触があった。それはほんの微かなもので、すぐに腕を振り払われてしまったためにしっかりと確認することができなかった。


「せっかく気分よくやってんだからさぁ、ほっといてくれます?」

「やめろ……! それをしたらお前は……!」


 ナマハゲはすがりつくように胸元を掴んでどうにかマツリを止めようとする。再び指先に何かが触れた。ゴワゴワしていて、良く無い気配を感じる。そして、極めて細い。


「はーもう、萎えちゃったよ。痛いしさ」


 マツリは男の腹を小気味よくつつくように何度も刺していた。ナマハゲはその細い何かを血液でぬめる親指と人差し指の根元でどうにか掴む。痺れるような悪意が伝わってくる。


「景気づけに首でも行っとこか。そうだ、素手でアタマ潰すのはどう? トマトみたいに。ふふ」


 細い何かをありったけの力で引っ張る。ほんの少しだけ抜けるような感覚があり、マツリが「うっ」と短い声を漏らした。冷たい仮面が左手を向く。


「何してんだお前」


 ナマハゲはさらに力を込めて何度も引っ張る。その度にマツリがえづくように声を漏らす。強く引けば引くほどえづきも強くなり、彼女の体から力が抜けていった。それに抗うように絶叫する。


「いい加減にしろ!」

「目を覚ませ! マツリ!」


 ナガサを逆手に持ち替えて自身の左腕を狙う。ナマハゲは痛みをこらえ、渾身の力で左腕を外へ振る。するとマツリの胸の中心から何かが勢いよく引き抜かれた。霧がいっぺんに晴れるように視界が回復し、マツリの目を通してはっきりとわかる。引っ張り出したのは糸だ。煮こごりを纏ってテラテラと薄気味悪く輝いている。胸から出ているそれは目元にも多く絡みついていた。

 マツリの胸からは濃い紫の煙とともに数本の糸が飛び出し続ける。まるで心臓が、いや、全身に張り巡らされた血管が一度に引き抜かれたかのような感覚を覚えたマツリの意識が明滅し、ナマハゲに体のコントロールが戻った。

 すぐさまナガサを走らせて飛び出した糸を払う。小さな断面からおびただしい量の紫煙が溢れ出して爆炎をも覆い隠していく。最後の力でナモミツキの男に刃を当てると、そこかしこで大量の煮こごりが落ちるような湿った音がして、しばらくするとそれも収まり、濃厚な煙がうずまく空間だけが残った。

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