TCB

第23話


 午前6時の少し前。開演まで12時間。真冬の太陽はぎりぎりのところで顔を出しておらず、薄明の空が広がっている。


 アカツキスタジアムはオフィスビル街と緑あふれる大きな神社とを繋ぐように鎮座している。地上階には関係者通用口や地下駐車場の入り口といったものしかなく、一般客の入場口は客席の最も高い階と同じ高さにある。そこから外に出ればまるで広大な公園のようなコンコースがスタジアムをぐるりと一周しており、この日は特別に屋台やグルメトラックが出店してお祭りの雰囲気を演出していた。コンコースからは広くてひたすらに長いスロープが四方に伸びて既存の歩道と繋がり、その姿はさながら巨大なアメーバのようだ。


 そのアメーバの脚にはすでに長蛇の列ができていた。スタジアム周辺にはオニ部隊をまじえた警察の目が光っているためなのか行列は整然としているものの、それでも普段では考えられないほどの賑わいがあった。その列は今なお刻一刻と伸びており、早い段階で入場させなければ捌ききれなくなるだろう。


 しかし、今はそうするわけにはいかない。切りそろえられた髪の青年がスタジアム内を周っているのだ。その隣には背が高く屈強な男。灘儀と宮古だ。二人ともカジュアルな格好で小さなカバンを背負っている。

 灘儀は時々立ち止まると柱や壁に向かって何やらもごもごと呟きながら指先を動かし、それから札を貼ると、宮古はその上にポスターを貼ってカモフラージュした。それをスタジアム全体に施すのはなかなかの重労働だったらしく、最後の札を貼り終えた灘儀は大きく息を吐いて伸びをした。


「これでよし。クロ、お疲れ」

「おい」


 宮古は灘儀と違ってケロリとしている。余ったポスターを小脇に抱えて入場口の方を指した。ひょろくてクタクタでボサボサの人間が早足で近づいてくる。


「おはようございます、柴灯さん」

「おざます! すみません、遅れましたか?」

「いえいえ、丁度いいタイミングでしたよ」


 灘儀は柔和な顔で愛想良く対応した。宮古は相変わらずの鉄仮面で言葉を発さない。


「それよりも柴灯さん、随分お疲れのようですね」

「あれ、分かりますか」素早く手櫛で髪を梳き、服をぽんぽんと叩く。「おかげさまで仕事が忙しくなっちゃいまして……」

「あぁ道理で、凄い反響でしたからね。あれからナモミツキが出現していないがせめてもの救いといったところでしょうか」

「いや、ほんっとに」唸るように言った。「それで、話しておきたい事って何ですか?」

「そうでした。今日のことで少し」柔らかな雰囲気が引き締まる。「これをご覧ください」


 柱の前まで歩いていくと、貼ったばかりのポスターをめくりあげた。複雑な文様が描かれた札が姿を現す。


「これは?」

「有り体に言えば、護符による結界です」

「出た、陰陽師。今度取材させてくださいよ」

「これによって顕界の外の存在は本能的にここを避けます」マツリの要望を無視して続けている。「しかし日中は人間が主導している事もあって殆ど効きません。なんだか違和感があるな、イヤな感じがするな、と思うくらいでしょう」

「でも昼間はオニ部隊がナモミツキを確保してくれるんですよね?」

「ええ、ですからこの結界に決めました。違和感を感じた挙動でさえ彼らは捉えるでしょう。問題は夜のことです」


 灘儀は振り返ってスタジアムを見渡した。陸上のトラックまで迫り出した可動式の客席によってステージが近くに見える。巨大なスピーカーといくつかのスクリーンが設置され、開放された屋根からは刻々と青みがかっていく空が見えた。


「結界によってナモミツキがここに入ることは難しい。仮に入ったとしても力を発揮しきれないはずです。しかしそれは来訪神も同じことなのです」

「あーなるほど。狭間の存在、ですからね」

「その通り。これから結界を起動させますので、それ以降は間違ってもスタジアム内には立ち入らないようにしてください。とくにナマハゲ様を降ろしているときには」

「もし入ってしまったら?」

「ご存知でしょう? ナモミツキは人間が主導しているときもその力の一端を行使する事があります。精神も影響を受けて好戦的になる者も多くいるはずです」


 マツリの組んだ腕に力が入る。灘儀の言葉にも張り詰めたものを感じていた。力が抜けているのは宮古だけだ。


「一方で柴灯さんは来訪神を降ろしていてもその力は封じられます。それどころか力の反発によって来訪神との繋がりが切れることで苦痛や脱力感に襲われるかもしれません。その状態でナモミツキと対峙することになれば……」

「オッケー、オッケーです」


 これ以上聞きたくないというように腕を振って言葉を遮った。灘儀は振り返ってマツリの目を見て話す。


「夜を凌ぐにはナマハゲ様の力は不可欠でしょう。そんなことで失うわけにはいかない。万が一スタジアム内でナモミツキが覚醒した場合は私とオニ部隊とで対処しますので、外のものの対処をお願いします」

「でも最近あんまりナモミツキ出てませんし、ほんとに出るんですかね?」

「急に出なくなったことの方がおかしいのです。最悪を想定しましょう」


 口調は柔らかなままだったが、油断を咎めるような鋭さがこもっていた。


「人が集まればトラブルのタネは増え、ナモミがたまり、疫霊が付け入る隙となりえます。普段よりも出現する可能性は高くなるでしょう。逆に言えばこれだけ条件が揃ってもナモミツキが出ず、禍孔も出現しないのであればそれでよしですが」

「あー、ですよね。了解っす」

「それではもうひとつ……」


 灘儀がポケットから小さなプラスチックケースを取り出した。中から取り出したのは磁気パッチのようなシールだ。それが二つ乗ったシートをマツリに手渡す。


「あ、助かります。すごく肩が凝ってて」

「残念ながら肩こりには効きませんよ」灘儀の顔が少しだけほころんだように見えた。「それを耳の裏あたりに貼ってください」

「耳ですか?」


 髪を避け、言われた通りの位置に貼り付けた。言われてみれば磁気パッチよりも厚みがあるように感じる。さらにそれの中央を押し込むように言われてその通りにした。見れば灘儀も同じようにしている。


「通信テスト」

「おお! 聞こえる!」

「良さそうですね。鹿又さん、どうですか?」

《良好だ。こちらはどうだろうか》

「あ、オニ部隊の! ご無沙汰してます、柴灯です!」

《ご無沙汰しています、鹿又です。問題なさそうですね。今日は一日これで通信を行います。灘儀くんと宮古くん、それに私とほか数人の部下に繋がります。もう一度押し込めば機能を一時停止できますが、右耳の方は常時機能させておいてください。受信用です》

「はい! 了解です!」

《小さな声でも拾うので大丈夫ですよ》

「あ、了解……」

《通信可能範囲はスタジアム周辺に限られます。日中は休まれても結構ですが、あまり離れすぎないように注意してください》

「わかりました」


 声量に配慮しながら返答した。この通信装置が実現可能になったことは知っていたが現物を見るのは初めてで、ましてや使うことになるとは思ってもみなかった。オニ部隊が扱うテクノロジーに興味が湧き、これを機にどうにか密着できないものかと考えを巡らせる。


「鹿又さん、ナモミツキの様子はどうですか?」灘儀が尋ねた。

《今朝きみが祓ってくれた一人のみだ。それ以降は現れていない》

「今朝出たんですか?」

「ええ、力を顕現させる前でしたが。いい予行演習になりましたよ、彼らのシステムもうまく機能しているようです」

「思ってたんですけど、いきなり誰かを確保したら騒ぎになりませんか?」

《必ずしも武装した隊員が対処するわけではない。その点には配慮している。情報に関してもだ》

「情報統制もしている、とか?」


 少しの間が空いた。


《通信障害や、SNSの不具合といったものは常日頃より起こり得ることだろう》

「こわ」

《私からは以上だ。適宜連絡する》

「こちらも以上です。それでは結界を起こしますので外に出てくれますか」

「あ、はい。じゃあまた。宮古さんもよろしくお願いします」

「ん」


 宮古の返事はよく聞こえなかったが右手を軽くあげていたのは見えた。来訪神はナマハゲと彼のパーントゥしか居ないというのにあの調子で大丈夫なのだろうか。そんな不安が片手にありながらも、しかしもう片方の手にはあの落ち着きに頼もしさも感じていた。マツリは何枚か写真を撮り、一旦スタジアムを後にする。


 外に出ると太陽が顔を出したことであらゆる影が長く伸び、同時に長いスロープの先にある待機列も明らかに伸びていた。それと比例するように強まったナモミの気配がマツリの鼻を突くが、ナモミツキが出現した時ほどの強力なものは無い。一方で再び左手首の藁紐に戻ったナマハゲが出てくる気配も無い。


 この静寂は今日も続くんじゃないか。よく晴れた冬の空の下にいるとついついそう思ってしまう。しかし灘儀の言うように今日は何かが起こるのだろう。吐き出した白い息を太陽が赤く染めた。

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