第17話
ナマハゲの左腕を枯れ木が絡め取った。引き剥がそうとするが同じように他の枯れ木が左腕だけを重点的に締め上げる。ナマハゲは体が浮かび上がらないようにするだけで精一杯だ。脇腹の痛みが左腕の骨まで伝わっているような感覚が襲う。それなのにナマハゲの声は低く、落ち着いたものだった。
「今から腕のコイツをブッちぎって、ナモミツキをがっちめがす」
「そんなこと……」
「そったこと! おめがその気になれば簡単な事だ!」
その口調はどこか楽観的な響きを伴っていた。吹雪の雪原でマッチの火を灯したような温かみがあった。その言葉にすがるようにマツリは震える息をどうにか落ち着かせようとしている。
「マツリ、聞け。顕界を守れるのは顕界の存在だけだ。おらたちは力を貸してやれるだけにすぎねぇ。おめの体を立ち上がらせて、立ち向かえるだけの力を貸してやれるだけなんだど」
もしもナマハゲが宿っていなければ、マツリの顔はとっくに涙と鼻水にまみれていただろう。膝は折れて、うつむいて、迫り来るナモミツキに轢き殺されるだけだっただろう。だが、片腕を封じられ、腹に穴が開いても、今もなお両足を踏ん張っている。
「体はおらが動かす。だから心はマツリが動かすなだ」
マツリはツバを飲み、肺の中の空気をゆっくりと全て吐き出した。その息は震えて、吸い込む空気も淀んでいたが、僅かな活力が戻る。
「守って、くれるんですよね」
「バカけぇ、最初からそういってるべしゃ」
「それじゃあ、逃げなくても死にはしないんだ。はは……」
「それはマツリ次第だべな」
「あー! もう!」
ナマハゲの左腕に力がこもる。枯れ木はそれに対抗するが、腕がそれに引っ張られる事はなかった。それどころかあまりに強い負荷に耐え切れず、次第に裂けていく。
「オオオオオ!」
その咆哮はナマハゲのものか、それともマツリのものだったのか。それはわからない。だがその声と共にナマハゲは左腕を大きく振りぬいて枯れ木の拘束を引きちぎった。それを見たナモミツキはぴたりと歩みを止める。
「まだ……まだ! オレに逆らいやがるのか!」
ナモミツキの奥から手人間が複数飛び出した。拳の形をとって様々な角度からナマハゲを狙う。
「決めるど! マツリ!」
「ハイ!」
ナマハゲは右脚に全ての体重を乗せて左脚を高く上げた。それをナモミツキの方向へと振り下ろし、強く床を叩く。その衝撃が空気を揺らし、熱風となって迫り来る手人間の軌道を逸らした。そしてナモミツキまで続く真っ直ぐなラインが現れる。熱風と共にナマハゲが駆けた。
ナモミツキがでたらめに枯れ木を振ってナマハゲの突進を妨害しようとする。叩き、脚をかけ、首を絞めても、ナマハゲの勢いが衰える事はなかった。全てを弾き、引き千切り、踏み越えて、一気にナモミツキの本体に迫る。
「止まれェ!」
ナマハゲの行く手を二人の手人間が遮る。ナモミツキの頭部に最も近いところから生えた、そして最も太い枯れ木の腕に刺されたそれは他のどの手人間よりも人間らしさを保っているように見えた。変形もしておらず、恐怖に満ちた顔で「たすけて!」「やめてくれ!」とナマハゲに訴えかける。彼はやや距離を残した地点で脚を止めた。手人間の奥に隠れたナモミツキがその二人を互いにたたきつけて叫び声をあげさせると、下卑た高笑いをあげた。
「お前ぇ……コイツらを殺すのかぁ……? 千切るかぁ……? 踏みつけるのかぁ……? 無理だよなァ! お前には出来ねえよなァ!」
ナモミツキの言うとおりだった。ナマハゲは人間を殺す事を避けている。小人間や手人間になってしまったとはいえ、それを手にかけることは決してしない。それゆえにこの盾は牽制として十分に意味のあるものだった。
「甘いんだよォ! その甘さでお前はァ……」再び全身から紫の煙が吹き出す。「シヌゥッ!」
ナマハゲの周囲に無数の枯れ木の腕が漂い、静かにゆっくりと包囲していく。ナモミツキは再び手人間同士を叩きつけて叫ばせた。
「あめのはおめだ」
「あ? アメノ……?」
「マツリ!」
「行けます!」
ナマハゲは再び駆け出した。ナモミツキは反射的に身を守ろうと、手人間を彼の目の前に差し出して動きを止めようとする。そこへナマハゲの手が伸びた。手人間の腹を突き抜けている枯れ木の腕を掴んだのだ。それは直接ナモミツキの頭部へと繋がっている。
「ハイシター!」
「ハイシター!」
そのまま強く引き込む。ナモミツキの頭部は床に叩きつけられて跳ね上がり、枯れ木の腕は千切れ飛んだ。ナマハゲはすぐさま右手を振りかぶる。そして叫んだ。
「ガッチメガス!」
「ガッチメガス!」
燃え上がる拳が唸りを上げて、ナモミツキに刺さった後山を直撃した。ムカデの体はグシャグシャにひしゃげながら紫の煙を突き抜け、廊下の端まで一息に吹き飛んでいく。そして壁に叩きつけられると体が煮こごりのように崩れだした。フロア中に張り巡らされていた枯れ木の腕もグズグズに崩壊していく。
「やった……?」
「おお、やったど。おめがやったんだ」
「いやいや、私はただ……」
マツリが急に黙り込んだ。ナマハゲが呼びかけても返事がない。それどころか、体がほとんど動かなくなってしまっていた。マツリの意識が飛んでしまったのだ。こうなってしまってはナマハゲにも打つ手がなかった。変身を解いて生身のマツリをこんなところに転がしておくわけにもいかない。彼自身の疲れもあり、その場にのっそりと座り込んでマツリの回復を待つ。
「こえがったびょん。まんつねまれ」
誰に聞かれるわけでもないねぎらいの言葉は宙に溶けた。片膝を立て、そこに頭を預け、体を休める。先程までの騒がしさは嘘のように消え去り、静寂の音がするほどに静かだった。ナマハゲはその静けさを壊してしまわないように気をつけてゆるやかな呼吸をする。
「……あいー、やっかねじゃ」
澄んだ静寂がわずかに濁る。視界の遥か先。廊下の奥からブツブツと粘液が泡立つような音がした。何かを引きずるような音がして、潰れたカエルのような声がした。そして明滅する照明がドロドロの細長い体が立ち上がるのを照らし出した。体内に取り込まれた後山が透けて見えている。
「オマエもオレを……ナぐった……クそやロウが……」
半透明の黒いムカデの視線がナマハゲを突き刺す。声はムカデの頭に腰まで浸かった後山が発しているようだ。もはや枯れ木の腕も、手人間も、小人間もいない。だが体を起き上がらせることにさえ苦労しているナマハゲにとっては十分な脅威だ。
「マツリ」
呼びかけてみたが反応がない。力任せに両足で立ち上がるものの、それ以上のことは出来そうになかった。遠くから金切り声のような叫びが聞こえ、ナモミツキが蛇のような動きで猛然と迫る。ナマハゲは未だ腕を上げることさえ出来ていない。踵を返して逃げるなどとても出来そうにない。奥歯を噛み締めることさえできないのだから。可能な限り足を踏ん張って衝突に備える。
「情けない、情けない……」
背後から声がした。柔和な男の声だ。コツン、コツンと硬いものが床を叩く音もする。その直後、ナマハゲの横を目にも止まらぬ速さで背後から駆け抜けたものがあった。何か液体のようなそれは水面近くを泳ぐカジキのように水しぶきを上げ、あとには腐葉土のような匂いを残している。
あっという間にナモミツキの目前へ迫ると人の形になって飛び上がり、周囲を跳びまわりながら泥のようなものを何度も浴びせかけた。途端にナモミツキが絶叫し、のた打ち回る。煮こごりのような体からは煙が上がり、ジュウジュウと音を立てていた。それでも依然として前進は止まらない。
再びナマハゲの横を通るものがあった。高下駄が床を叩き、狩衣が翻る。それはナマハゲの目前で止まり、ナモミツキに立ちはだかった。
「
刈り上げられたうなじと切りそろえられた髪が揺れている。顔は見えないが背中越しにも仮面を着用しているのがわかった。手には鳥の足のような三つの刃がついた槍に似た得物を持っている。刃は中央が最も大きく、その両側に中くらいのものと小さなものがついている。槍にしては柄が随分と細いようだ。反対の手には儀式用とおぼしき四角い手盾が構えられている。
暴れ狂うナモミツキが迫る。浴びた泥がよほど堪えているのか、壁や天井に幾度も体をぶつけながら突き進んでいる。男は手にした槍を片手で構えた。
「祓え給え」
一歩踏み込み、暴れるムカデの頭部を正確に一閃。高電圧が弾けるような音がして、同時にナモミツキの体も弾け飛ぶ。猛り狂っていたムカデは動きを止め、崩れるように床に倒れ込んだ。結合が緩くなった煮こごりは徐々に液状になり、紫の煙となって蒸発していく。
「
口の中だけに響くように唱え、高下駄で崩れた煮こごりの中を分け入っていく。そして倒れている後山のもとへたどり着くと槍を逆手に持ち替えた。
「清め給え」
振り下ろす。後山は絶叫して激しく痙攣。刺された痛みからではない。刃は皮一枚のところで止まっている。紫の煙が激しく吹き出していたが、少しずつ収まっていき、やがて痙攣と共に沈静化した。
男は長く息を吐いた。後山から槍を離し、ナマハゲの方を振り返る。顔の仮面は白く、額に小さな角があり、そして黄金の四つ眼であった。深々と頭を下げて口を開く。
「お手数をおかけしました、神鬼の来訪神」
「なんもだ。あどその呼び方やめれ」
「承りました」
「おらのこどはナマハゲでいい。助かったど、方相氏」
「僥倖の極み」
方相氏は微動だにせず、いまだに頭を上げない。そうしているうちに彼の後方からぺたぺたという足音と共に何者かが近づいてきた。薄明かりに照らされたそれは全身が泥に塗れており、蔓で出来た服を纏い、そして泥の仮面であった。方相氏はそれに気づくと向き直ってそちらへ頭を下げた。
「
そこまで言って肩を震わせ、言葉に詰まった。聖泥の来訪神は短く声を出して小さく頷き、彼の肩に手をかけた。ふと、ナマハゲの体が軽くなる。
「あれ……」
「目ぇ覚めたか」
「え、寝てましたか? 私」
「なんも、いいんだ。コイツらが始末つけてけだからな」
マツリはそこで初めて黄金の四つ眼の男と泥まみれの来訪神を目にした。全身がこわばる。その緊張をよそに男がゆったりと話し始めた。
「神鬼……いえ、ナマハゲ様の依り代。あなたにもご迷惑をかけましたね」
「依り代……あたし? あたしの声聞こえてる? 今まで外に聞こえてなかったっぽいんですけど」
「はい、そのような修行を積んでおります。ハッキリとは聞こえませんが、ある程度は」
「そうなんですか……あ、それより、助けてくれたって。何があったんですか? あのナモミツキと、それと後山はどうなったんですか?」
方相氏は少し間を空けて答える。
「ナマハゲ様にはお話ししなければなりますまい。ここで何があったのか」
「ダメだ。マツリを休ませねばね」
「ナマハゲさん、大丈夫です」
「だどもしゃ……」
「話を聞きたいんです。変身解けますか?」
今度はナマハゲが間をおいた。何かあったらすぐに降ろせよと断りを入れると仮面に手をかけ、全身が炎に包まれてマツリの姿に変わった。ふらついて倒れそうになる彼女を方相氏が支えようとしたがそれを彼女自らが制し、生来の鋭い目を開く。
「初めまして。週刊トピックの柴灯マツリです。お話を聞かせてください」
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