第13話

 拘置所の駐車場に入ることなく車を停める。なんてことはない、すでに門が閉まっているのだ。正門も面会用のものも固く閉ざされ、周囲の住宅街に人気はない。その奥には両手を広げて行く手を阻むような形をした威圧的な建物が闇の中に微かに見えている。


「帰る?」

「うーん、やるだけやってみるわ。先に帰ってて。これもお願い」


 マツリはシートベルトを外し、取材カバンをシートの脇に置いた。


「それ持って行かずに何するの?」

「いや、最低限で行くから」台帳と取材手帳を掴んだ手をタマキに見せる「帰りは電車にするわ」

「会社に? 直帰?」


 マツリはドアを開けて歩道に降り、窓の縁を掴んで車の中を覗き込む。


「一応会社に行くつもり。よろしくね」

「そっか」


 タマキは怪訝そうな目をしているものの、マツリとはそういう人間だと半ば諦めたような態度でふっと息を吐いた。


「早く帰ってきてね、チキン冷めちゃうし。他の人が情報集めてたらまとめておくから」

「あんがと、それじゃ」

「うん、気をつけて」


 勢いよくドアが閉められた。タマキはすぐに車を出すことはなく、拘置所の周囲に沿って歩くマツリの背中を眺めていた。しばらくして室内灯が消えると、ゆっくりと車を発進させた。



 拘置所を見ながらフェンス沿いに歩みを進める。少しずつ建物との距離は縮まっているものの、それでもまだかなり遠い。フェンスが途切れて木と芝が植えられた公園に入るとさらに距離が縮まり、緑の匂いの中の異臭が強まった。照明灯は一本しか立っておらず、多くの緑は黒に染まっている。


「なんで来ちゃったんだろ」


 ぽつりとこぼした。この臭いを嗅ぐと嫌でもマンションでの出来事を思い出す。今振り返っても、ナマハゲが隣にいても、とても現実のものとは思えない。何より、あんな事になっても記事にできないのが痛い。そうである以上、ここに来るメリットが感じられない。だというのにここに来ることを即決してしまった。


『なんか言ったか?』

「いえ、なんでも」

『んだが。それでどんだ? ナモミツキの気配は』

「強めの臭いは感じます。でも拘置所ってそもそもナモミが溜まってる人が多そうだし、それに後山の臭いかどうかなんて嗅ぎ分けられないです」

『それもそうか』ナマハゲは腕を組んで唸る『マツリの感覚は特殊だがらなぁ、でもおらにはナモミツキに近い気配がガリっと来てら』

「本当に後山がナモミツキなんでしょうか」

『おらはそう思うども、おめが中に入れねんだば確認しようがね。少し様子見るべした』


 マツリは周囲に人がいないことを確認し、姿勢を低くして建物に近づく。がらんとした駐車場の奥から巨大建造物特有の存在感を放っている。多くの窓は闇に染まっているがいくつかは明るく、屋上からはヘリも飛び立った。まだ建物は眠っていないようだ。


「あのぉ、聞いてもいいですか?」

『ん?』

「ナモミツキってそんなにしょっちゅう出るものなんですか? 今まで聞いたこともなかったんですけど」

『わい! それ話してねがったな』ナマハゲが自分の額を叩いて言った『それだのによくここさ来てくれたこど!』


 それは自分も後悔している。ということは口に出さずにヘヘッと愛想笑いをして次の言葉を待った。


『んだなぁ、どっから話すべが』腰に手を当てて頭を上げたり下げたりしている『よし、まずは「ナモミツキはしょっちゅうでるのか」についてだども』

「あ、はい」

『出ね!』クシャミでもしたかのように鋭く首を振った。

「じゃあ、どうしてこんな立て続けに?」

禍孔カコウがしったげ開いてるからだな』

「カコウ……?」

『狭間とか幽界ユウカイとかと顕界ケンカイを繋いでる、疫霊の類が通る道だべしゃ』


 ナマハゲは胸を張って両手を開く。マツリは言葉を消化しきれていなかった。


「いやちょ、すみません、わかんないです」

『何がだ?』

「ハザマ、ケンカイ、エキリョウ……」

『おめ、何も知らねんだな』


 そんなん知るか! 知るわけねーだろ! このナマハゲー! そう怒鳴れたらどれほど良かっただろう。ヘヘヘッと愛想笑いをして「すみません」と教えを乞うた。


『そんだばおめにもわがるように最初からすかへるがらな』

「できればその、言葉遣いもわかるように……」

『マツリにも分かるように教えますよ』

「ありがとうございます……」

『じゃあ疫霊からな。これは神々に仇を成す存在だ。お前たちが言う悪霊という概念に近いんでねがな』

「なんかふわっとしてますね」

『実際ふわっとしてらんだ。アイツらは神々と敵対はしてらども、真の目的みたいなものはわがんね。腐っても神に近い存在だからな』

「一口に神といえどもその全てが人間に恩寵を与えてくれるわけではない。みたいなことですかね」


 マツリはざっくりと考えをまとめた。ナマハゲは頷き、話を続ける。


『じゃ、次は世界の事に行くど。まずは、顕界。この世のことだな。幽界は神々の世界。狭間はその間にあってな、顕界は他の世界とハッキリと分けられてらども、幽界と狭間はそれよりは緩いな』

「それじゃあナマハゲさんは幽界に住んでいらっしゃると」

『んにゃ、狭間さ居る。人間が「来訪神」って呼ぶ神は大体狭間だ。幽界さ居るのはもっとすげぇ神威の神様たちだな。だから滅多なことでは顕界に現れねんだ。というか、簡単には行き来できねぇしな』

「へぇ、そうなんですか」


 一年近く記者として磨いてきた相槌力でリアクションをしたがこれが限界だった。現実離れしすぎていて、飲み込むには時間がかかりそうだ。


『それでその幽界っていうのは一つじゃない。無数にある。神様ごとに持ってたりな。それに、疫霊が産まれるところもある。だども、その疫霊が自力で顕界にまで至ることは滅多にねぇ。何でか分かるか?』

「え? そうですねぇ……」


 マツリはナマハゲから視線を外して拘置所の方を見て考えた。闇の中でピクリとも動かないそれに恐怖に近いものを感じると、同時にピンときたことがあった。


「閉じ込められてる……」

『ん?』

「顕界は他の世界とはハッキリ区切られていているんですよね。それに力のある神様だって簡単には行き来することはできない。それなのに、霊の方だけは勝手に出入りできるなんてことは無いんじゃないですか?」


『おっ!』大きく手を叩いてマツリを指さした『やるねが! 大体そういう事だ。顕界ってのはあの拘置所みたいに外の世界からは隔絶されてらなだ』

「いやちょっと例え悪くないですか?」

『とにかくそういうことだ。神々が顕界に入るには基本的に儀式が必要でな。拘置所に入る時も手続きいるべ? それと一緒だ。それ抜きにはどんな存在も簡単には通らいねなしゃ』

「あれ? じゃあアタシは?」

『それが問題なだ。次はいま起こってる問題のことに行くど』


 ナマハゲは腕を組む。ゴツゴツとした二本の腕が撚られると、その力強さは飛躍的に高まったように感じられた。


『儀式が必要なのは一般的な人間に神を降ろす場合の話。だども、何にでも例外はあるべ? ごくごく稀に儀式をせずとも特定の神をその身に降ろせる人間もいるなだ。波長が合うっていうんだべが。そういう人間がいれば、その波長を追っかけるだけであっさり通れらんだ』

「それがアタシ……え、アタシが問題なんですか?」

『んにゃ。問題なのは、何を降ろすかということでな』

「つまり疫霊を降ろせる人間がいるということですね」

『んだ。というより、疫霊を降ろしてる人間の方がずっと多い。何故だか分かるか?』


 次々と提示される現実離れした要素を頭の中のテーブルに並べて考えてみたが、どうにもうまくまとまらなかった。


『大きな理由がひとつある。そもそも疫霊を降ろすのに特定の儀式をする取り決めがないこと。例えばおらたちナマハゲはざっくりと「年の瀬に」「特定の地域で」「仮面と衣装を身につけて」「入魂の儀を行う」ことで降りる取り決めがあらなだ』

「時間と場所の制約、それに装束と儀式がそろってはじめて境界を越えられると」

『というより、コトが円滑に進む。だども疫霊たちにはそったものがねえんだ。その分だけ越えやすい。ナモミめがけて勝手に境界を抜けて、降りられるところさ勝手に降りる』

「あれ? 疫霊は境界を抜けられないのでは?」

『まぁ待て、今から話す』

「あ、スンマセン」

『顕界と狭間の境界は目に見えねえ。いざ見つけて通ろうとしても……前後不覚、闇とも光ともつかないもので満ちた、あー、空間と時間が幾層にも重なり合ったかのような、迷宮が待ち構えている』


 ナマハゲは組んでいた腕を解いてゆらゆらと何かを表現しながら説明している。よほど、名状しがたい光景なのだろう。


『そこでナモミの気配が疫霊にとってそこを通り抜けるための手がかりになる。ナモミがおらたちにとっての「波長の合う人間」と似たようなものになってらなだ』

「特別な適性が無くても、誰にでも発生するナモミがあれば通れちゃうって事ですかね。だから多い」

『んだんだ。かなりの量のナモミが必要だがらそういうことは滅多に起こらねんだども、逆に言えば量さえあればそれを辿って抜けられらんだ。マツリがナモミの臭いを辿れるようなもんだな』

「いや辿れはしませんけど」

『わい、んだなが。だどもとにかくそんな風にして境界を抜ける疫霊が出てくるわけだ。抜けてしまえば手がかりにしていたナモミに限らず、降りられそうなナモミに降りる。抜けられる程に強い気配がしてるということは、大なり小なりのナモミが山ほどあるって事だからな、よりどりみどりだ』


「ちょっと待ってください」マツリは口元に手をやって眉間を寄せる「それだともっとナモミツキが出てそうなものですけど、そうなってませんよね?」

『疫霊が一つや二つナモミに宿ったところでナモミツキにはならね。心には影響出るべどもな。何十、何百と必要だ。そんな大量の疫霊がいっぺんに境界を抜けたり、ましてや一人のナモミに宿ることはまずありえねんだ。大抵はそうなる前にある程度ナモミは剥がれる。痛い目見たり、憑かれた人間自身の良心によってな。それと一緒に疫霊も消える』

「では今は、そのありえないことが起こりやすい何かがあると」

『んだんだ。それが禍孔(カコウ)だ。実は今、狭間が大変な事になってらなだ。とんでもねえ量の疫霊がなだれ込んで、疫神まで姿を現した』

「エキガミ……疫霊のすごい奴ですか?」

『しったげすごい奴だな。幽界の神々までがそれの対処に追われて、おらたちみたいな各地の来訪神も駆りだされてる有り様なだ。しょし話だども、おらはそこで疫神にこっぴどくやられでまった』


 初めて会ったときにボロボロだったのはそのせいだったのかと得心する。同時に、ナモミツキに対してあれほど圧倒的だったナマハゲが敵わないほどの疫神とはどんなものなのだろうと考え、体の中心が縮むような感覚を覚えた。


『それだけの数と力のある疫霊が揃うと境界を抜けるやつらも増える。力があればあるほど狭い穴を抜けるのが難しくなるから強い奴は残ったままなんだども、顕界ではナモミに疫霊を宿す人間がどんどん増える。そうしてナモミの気配が強まるとさらに抜ける奴が増えて、ついには境界に穴が空く』

「それが禍孔なんですね」

『禍孔が開いてしまえばより強い疫霊も易々と境界を突破するようになる。一匹ナモミに宿るだけでもナモミツキになってしまうほどの力を持った奴もな。そういう奴はナモミを選り好みする。自分の力を存分に振るえるであろうタチの悪いナモミを狙うなだ』


 マツリはふと考えた。タチの悪いナモミとは、例えば殺人欲求のようなものだったりするのだろうかと。もしかしたら牧村は突発的に湧き出したそのナモミを狙われたのかもしれない。


『禍孔は神々によって簡単に塞がれる。だども、さっき言ったように疫神を押さえ込むのに忙しくて対処が後手後手になってらなだ。だから、沢山の神が狭間の疫霊を減らして禍孔を作らせないように、通らせないようにって躍起になってる。でもそれだけだば足りね』

「どうするんです?」

『顕界に潜んでいる強いナモミを始末する。そうすれば境界を抜けるための手がかりが減る。結果、禍孔が出来にくくなる。内と外の両方から対策するっていうことだな』

「なるほど……あ、でも神様はこっちに来られないんですよね、簡単には」

『そこでおらたち来訪神の出番ってわけよ』ナマハゲはどこか誇らしげだ。『確かに大いなる神々はなかなか降りられね。だどもおらたちは狭間にいて、条件なしに降ろせる人間は少ないが確かにいる。マツリ、おめみでな人間がな』


 ナマハゲはマツリの右肩に手を置いた。実体は無いはずなのだが、確かに触られた感覚があり、温度まで感じる。


『おらたち来訪神の力ならナモミを根絶できる。恐怖や苦痛による一時的なものとはわけが違うど、根っこから剥ぎ取れるなだ』


 力強く拳を握った。マツリはその力を十分に体感している。


『禍孔は既に何箇所も空いでら。だどもそれが塞がり、時間をかければ、神々は必ず勝つ。それまで疫霊どもを封じ込める。おらの知らないところで他の来訪神もけっぱってらはずだ。八百万の神達もな。それがおらたちの役目だなだ』


 できる。マツリはそう確信する。苦戦しているのはきっと自分のような人間がなかなか見つからなかっただけで、ひとたび降りることができればナモミツキだって敵では無いのだ。他の来訪神が力を発揮できればきっと遠からず目的を達成するだろう。


「目的……」

『お、なんか引っ掛かるか?』

「疫霊や疫神は、なぜこの顕界に来ようとするんでしょうか。目的がよくわかりません」

『なるほどなあ』ナマハゲは再び腕を組む『それはハッキリとはわがんね。だども、思う節はある』


 ナマハゲは右手で顎を撫でながら自分の考えた説を披露し始めた。


『この世界はそもそも神々と結びつきの強い世界だども、神々から見れば数ある幽界の一つにすぎね。だども、違うところがあるべ?』

「えっと、境界がハッキリしていることですか?」

『んだ。神々はきっとこの世界を大切にしてらんだ。だから自分達でさえ通ることが難しい境界を敷いて守ってらんでねがな』

「なんだかありがたい話ですね」

『だども、だからこそ疫霊どもはその世界が欲しい。神々にさえ邪魔されず、存分に力を高められる、そんな世界がな』


 ここ数日で冷え込みはだいぶ和らいでいたが、この時ばかりは足元から登ってくるような冷気を感じた。


『そうなれば勿論人間は居なくなるべな。全員がナモミツキの苗床にならった』

「えっと……頑張ってください」マツリは深く頭を下げる。

『バカけぇ。おめも頑張るなだ』


 ナマハゲがマツリの頭を小突いた。その時だ。マツリが口を抑えて膝をつく。強烈な吐き気を誘う悪臭。視線を拘置所へ向けるが、見た目には何も変わっていない。しかしその佇まいはほんの少し前までのものとは全く違って見えた。


『現れたな』

「完全に居ます。ナモミツキです」

『踏み込むしかねえべ。マツリ、おらを降ろせ』

「でもいいんですかね? 入っちゃダメな場所ですけど」

『疫霊の気分でも味わうことにするべした』

「だいぶ不謹慎ですけど……」


 ナマハゲは豪快に笑った。その余裕たっぷりな様子にマツリの心が少しだけ休まる。手帳をポケットに仕舞い、臭いに耐えながら大きく息を吸い、吐いて、覚悟を決めた。


「じゃあ、いきますよ!」

『おし!』


 マツリは手を叩く。祈りを込めて。禍孔が塞がるように。ナモミツキを祓えるように。これ以上誰も疫霊に憑かれないように。マツリから発せられた炎が公園の暗がりを明るく照らす。その光を織り込むように顕現する。逞しい体に藁の衣装、金属の鬼の仮面。そして咆哮が響く。


「オォーオオォ!」


 ナマハゲ参上だ。

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