第9話

「ところでさ」


 休憩スペースを離れて病室に戻りながらとりとめのない話をしていると、宇枝が思い出したように切り出した。


「まだ名前聞いてないよね?」

「エッ! そうでしたっけ?」

「そうだよ。なんかあの時バタバタしてたしねー」

「すみません、失礼しました。私、柴灯マツリと申します」


 ガサガサとカバンを漁ってヘコヘコと頭を下げながら名刺を差し出した。


「あ、名刺持ってるんだ。カッコいいね!」

「大変失礼を……」

「まったく、社会人としてのジョーシキでしょ?」

「本当にすみませんでした……」


 宇枝はケラケラと笑う。


「冗談だってば! それに名刺なんかいいのに。名前聞きたかっただけだし」

「さようですか……」

「マツリって呼んでいい? 同い年くらいだよね」

「へい?」


 まさかの提案に妙な返答をしてしまった。


「イヤ?」

「いやいやいや!」

「そっか……」

「いやいやいやいや! いいです! 好きに呼んでください!」


 マツリの額から汗が噴き出す。これほど急激に距離を詰められたのは初めての経験で、友達少なめの彼女には刺激が強かった。


「やった! 私はジュンね」

「はい、知ってます」

「そうじゃなくてさ、マツリと」宇枝がマツリを指す。「ジュンじゃんか」彼女自身を指した。

「ええっ! いやいやいや!」


 友達少なめの彼女には刺激が強かった。強すぎた。


「それも嫌なの?」

「嫌っていうか……ダメなのでは?」

「ダメじゃないし。言ってみて、ほら、ジュンって」

「ジュン……さん」

「いけるいける! もういっちょ!」

「じゅ、ジュン! ……ウエダ、さん」

「私の戸籍は英語圏じゃないぞー、もう一回!」


 感じたことのない刺激によってバカになった背中の汗腺がじゃんじゃん汗を製造している。


「うおお!」声なき気合いの雄叫びだ「ジュン!」

「なぁに? マツリ」

「今日はありがとうございました!」

「いいよー。敬語も無しねー」

「うぬぅ! ありがとう!」

「できるじゃーん」


 楽しそうに手を叩くジュンをよそにマツリは力無く笑って頭を掻く。牧村は苦労してそうだとふと思った。

 その時だ。彼女の鼻にツンとした臭いが届く。人が多いところでは少なからず臭いがするものだったが、その中でも特に異質なものだ。ハッとして臭いのした方を見る。近い。進行方向。なぜ今まで気づかなかったのだろう。牧村の病室の前だ。ジュンもつられてそちらを振り向き、眉間に皺を寄せる。後山だ。病室に戻そうとする看護師を振り払いながら病室に入って行こうとしている。


「いくよ、マツリ」


 ずんずんと歩みを進めるジュンにマツリがついていく。彼女は後山のそばで立ち止まって仁王立ちになった。それに彼が気づく。


「おお、ジュン! 来てくれたのかよ」

「おはようございます。あなたのために来たんじゃないですけど」

「ハッ、つれないな……そっちは?」


 後山の視線がジュンの後ろにいたマツリに向く。


「はじめまして、週刊トピックの柴灯マツリです」

「はぁ? トピックだぁ? 牧村にハナシ通してんのかよ」

「いえ、でも宇枝さんには」

「話になんねぇ」


 後山は手を上に向けてマツリから目を切った。背が高く、目つきが鋭く厳つい系の顔つきだ。しかし普段は後ろに流している髪が下されているためなのか、どこか締まらない印象だった。病院服と顎に貼り付けられたガーゼもそれを助長している。それでも自分が絶対有利だといわんばかりの太々しい態度をしていた。


「ジュン、どういうつもりか知らねぇがな、そうやってハネっかえっていられるのもお終いだぞ」

「どういうことですか?」

「牧村は俺に暴力を振るっちまったからな。そんな不祥事起こす人間は事務所に置いとけねぇよなぁ、お前のマネージャーとしてもふさわしくねぇよ」

「そんなバカな。元はと言えばあなたが吹っ掛けたんですよね。知ってるんですよ」


 後山は一瞬だけ目を見開いてマツリを見たが、すぐにジュンに戻る。


「バカ言ってんのはお前だぞ、ジュン。そんなの誰が証言してんだ?」

「それはそっちも同じじゃないですか」

「それじゃ、力のある方の勝ちだな」


 後山の口が歪む。マツリは手首に巻いた藁の組み紐に目をやった。まだナモミツキが出そうな気配がしたからだ。あの時に比べれば臭いはずっと弱いが、それでもぐんぐんと強くなってきている。しかしあれからナマハゲは一度も顔を出していない。もしもの時はどうしたらいいのかと考えていると、ジュンが口を開いた。


「不祥事を起こす人は私にふさわしくないんですか?」

「そりゃそうだろ。厳しいぞー、今の時代はよ。そういう人間が近くにいて損をするのはお前だぜ。俺がしっかり管理してやる」


 にやにやと笑う後山。ジュンは俯いて唇を噛んで、いたのだが、ふとその口元が緩んだ。


「マツリもさ、引っ叩いてくれるんだよね」

「え? あ、ハイ」

「コウヘイくんもそうした」

「何言ってんだジュ」


 パァン!


 後山の顔が90度ひねられた。唸るような平手打ちが彼の顎を捉えたのだ。後山が膝から崩れ落ちると共に、マツリの感じていた臭いも一気に引いていった。そこでナマハゲの言っていたことを思い出す。ナモミは特定の恐怖や苦痛によって剥がれると。


「じゃ、これで私も売れっ子マネージャー様にはふさわしくなくなったかしら? 力のある方が勝つんでしたっけ? 私とアンタ、どっちを勝たせたいのか事務所に判断してもらおうじゃない!」


 膝をついていた後山が看護師に支えられながら立ち上がる。何も話すことはなかったが、目は泳ぎに泳いでいた。ジュンはそれに背を向けるようにサッと振り返り、目を閉じて腕を組んだ。そうして数十秒経っただろうか。実際には数秒かもしれない。後山が去った頃に彼女は目を開いてマツリと目があった。


「どーしよっかね、コレ」


 眉をハの字にして苦笑いをしながら両手をマツリに向けた。


「あー、どーしようもないっすかねー」


 カラカラと笑い合った。「アイツいなくなったらコウヘイくん忙しくなっちゃうな」などと軽口を叩くジュン。「絶対明後日の紙面に載せてやりますよ」と敬語を使って突っ込まれるマツリ。ジュンは病室へ戻り、連絡先を交換して別れた。


 暖かな日差しに照らされて駐輪場に向かいながらマツリは考える。先人たちが何度も何度も使って擦り切れそうな言葉。人は一人では生きられない。それは簡単なようで難しいのかもしれない。ジュンも牧村も互いを想うあまりそれを見失ってしまっていた。それは心を蝕むことなのかもしれない。

 また別の考えも浮かぶ。誰かのためになれる、それはとても尊いことなのだと。マツリ自身としては、自分の話を誰かに聞かせたいというのが記者という職を選んだ理由のひとつだった。それは誰かのためになるの? 誰かのための記事って何? そんなことを考えながら駐輪場に着いた時だった。


「あ、マツリちゃん。早かったねー」


 タマキがマツリの原付に腰掛けてパンを食べていた。スパイスの香りが冬の凛とした風に乗ってマツリに届く。タマキはそれを一つすすめたがマツリは手を立てた。


「帰るよ。これから原稿」

「取材うまくいったんだ。機嫌良さそう」

「絶対紙面に載せてやるんだから」

「お、がんばれー」


 エンジンが唸り、二人を乗せた原付が走り出す。とりあえずコイツの頼りになれるオンナでも目指してみるか。そのためにはまず仕事ができるようにならないと。マツリはリズム良くギアを二つ上げた。



 二日後、週刊トピックに小さな記事が載った。


◆宇枝ジュン 事務所マネージャーAらによるパワハラ被害を独占告白!?◆


 ちまたでまことしやかに囁かれていた宇枝ジュンの恋人騒動。本誌が独自の調査を進めたところ、その相手は事務所マネージャーのAであることが判明した。チャンチャン。

 で、終わると思いきやここから事態は急変! 宇枝と親交のある本誌記者がそのことを追求すると、よもやよもや、マネージャーAは一方的に宇枝に絡んでいただけだったのだ! それどころか彼による宇枝の現マネージャーへの、ひいては宇枝に対してのパワハラが発覚! オレサマに宇枝のマネジメントをさせろと迫っていたのだ!

 宇枝ファンであればご存知の通り、彼女のマネージャーは中学高校時代からの同級生である。その距離の近さが厳しい下積み時代を支えたエピソードは枚挙にいとまがなく、また恋人とは彼なのではないかと騒動を大きくしたのも今は昔。ファンならずとも暖かな気持ちにさせられたものでございます。

 そこに割り込んできたKY野郎こそが誰であろうマネージャーA! 勢いバツグンの宇枝を自分にマネジメントさせろと宇枝に付き纏うわ、宇枝のマネージャーをいびるわ、ウナギのハナミズにも劣る陰湿野郎が二人のサクセスロードに横たわってたってワケ。しかし彼の横暴もこれまでだ。お天道様が許しても、全国のウエナーは黙っていないだろう……。



「マツリちゃんの原稿と結構変わっちゃってるね」

「全部変わってるわよ!」


 見本誌をぶっ潰したマツリの携帯が鳴る。ジュンからのメッセージだ。これを読まれたと思うと開くのが怖い。タマキに開かせるとすぐに慌てた様子で画面を見せてきた。


【マツリ! ちょっと大変なことになっちゃった!】

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