第8話
「……でも、実際にはそうしなかったわけですし」
「だよね。言葉のアヤ? みたいなやつ……だよね」
「ええ、きっと……」
殺意。それはきっと明確にナモミを溜める感情なのだ。マツリがかけた小手先の慰めではなんの意味もないほど、周りの人の心にまで大きな傷を残す。強いその感情を持ったことで、溜め込んだことで、ナマハゲが言うところの霊のようなものが入り込んでナモミツキとなったのだろう。それを考えると、とても言葉の綾だけで済む感情ではなかったのだと思えてしまい、肯定することはできなかった。宇枝は黙ってコーヒーの水面を見つめている。
「えー、それでですね」マツリは座り直し、軽く咳払いをして続ける「そのあと牧村さんは宇枝さんのマンションに向かいました。何かお約束が?」
「そう。コウヘイくんがいきなり電話かけてきたから。会って話したいことがあるって」
「それはいつです?」
「まだ午前中だったと思う」
「話す事はできましたか?」
「ううん、まだ。もういいんだって言ってた」
「話したかった事に関して心当たりは?」
「うん……」
宇枝の目がミルクが混じったコーヒーが映ったように濁って見えた。
「牧村さんは管理人とちょっとしたトラブルを起こしています」
本当は「ちょっとした」では済まないのだがそれは伏せた。ノートにはこう書かれている。
【マンションに到着し、すぐにジュンの部屋に連絡を入れた】
【管理人に中に入れてくれるように頼んだ】
文字は全てが掠れがちだ。
「彼はマンションに入れず、管理人に入れてほしいと頼み込みました。ということは、宇枝さんは彼をマンションに入れなかったんですよね? なぜですか?」
飲み物のカップを包む指が白くなっている。次のノートはこうだ。
【誰かに呼び止められたが、ジュンのもとへ向かう】
ほとんど読めないほど細く、小さく、薄く掠れた文字だった。時系列からしてこのあたりで警官と出くわしたはずだ。
「牧村さんは何らかの手段でマンションに入ったものの、そこへ傷害事件の通報を受けた警官たちがやってきて出くわします。彼は、恐らく錯乱状態でしたが、それでも宇枝さんのもとへ向かおうとした。その後に何かがあって、あんな状況に」
マツリはそこで言葉を切り、宇枝の反応を待った。小さく鼻から息を吸う音が聞こえ、それをゆっくりと吐いた。
「あなたの言うこと、警察の人も言ってなかったことばっかり。コウヘイくんはほとんど覚えてないって言うし」
マンションで牧村と話したときにも彼は覚えてないと声を荒らげたり、警察に会っていないと言ったりしていた。それらは本当だったのかもしれない。もちろん嘘も混ざっていたのだろうが、もしかしたらナモミツキになるとそのような影響が出るのだろうか。
「でも、なんかしっくりくるよ」
宇枝はコーヒーを飲み、ハァと声を出して息を吐いた。
「あのね、私、コウヘイくんに隠してる事があるんだ。これって聞きたいことと違うかな?」
「いえ、お願いします」
「うん、ありがと」
もう一度息を吐いた。カウンターに腕を置き、窓の外を眺めながら続ける。
「実はね、私のマネージャーをコウヘイくんからアイツ……後山に変えるっていう話が出てたの。一ヶ月くらい前かな。アイツはALICEの中じゃ一番売れっ子を抱えてる、いわゆるエースでね、私が仕事を貰えるようになってきたからエースに任せようってなったのかも。アイツ事務所の中でも力があるから事務所の意向かどうかはわかんないけど」
マツリは手帳に書き込みながらも適宜反応を示している。
「でもね、私とコウヘイくんはずっと一緒にやってきたんだよ。中学も高校も一緒なの。売れてないときも二人で相談して頑張ってきた。それなのに今になってアイツに変えようって、そんなのコウヘイくんに言えないじゃん。イヤじゃん。イヤじゃない?」
「ええ、分かる気がします」
「だからね、私だけで解決しようとしたの。コウヘイくんには話が行ってなかったみたいだし。私っていま結構勢いあるでしょ? だからイヤだって突っぱねれば何とかなるって思ったの」
「でも、そうはならなかった」
「そう! アイツのしつこさったら。すごい陰湿だしさ。私の仕事がいつの間にか他の子に変わってたり、スケジュールも当然把握されてるから隙あらば接触してきた。あんまり頻繁に外で会うもんだから……」
「恋人騒動の真実、ですか?」
「多分そう。きっと私のせいだったんだよね。コウヘイくんはそれをすごく気にしてた。でも、言えないじゃん」
宇枝の目に映る緑がきらきらと光る。
「今度こそ諦めさせるんだって何度も思った。でもアイツはどんどん強硬な手段に出てくるの。あの日も、ああなる直前にだよ? いきなり部屋に来るって言い出して。そんな状況、コウヘイくんには絶対見せられないじゃん」
だから牧村はマンションに入れなかったのかと得心がいった。宇枝は小さく頻繁に鼻をすすり、言葉が止まってしまった。マツリは手元の飲み物を揺らして言う。
「牧村さんはきっと、あなたに頼って欲しかったんです」
それはナマハゲの受け売りだったが、今は素直にそう思えた。一番頼りにしてほしい宇枝が一人で苦しんでいる。自分を見てくれていないような感覚。そういうものがあったのだろう。それがきっとナモミの核なのだ。それが長く続いているときに後山に突っぱねられて、無力に感じて、管理人にも、警官にも、話が通じなくて……。
「うん」
宇枝はカウンターに肘を置き、両手をひさしのように額に当てて目元を隠した。
「ちゃんと話せばよかった。私のせいじゃん。全部」パタッと水滴が落ちる音がした「私なんか、コウヘイくんがいなきゃ何も出来ないのに。なんで自分で何とかしようなんて思っちゃったんだろ」
マツリは窓の外に目をやった。緑の奥には多くの人が行き交っているのだろうと思いを馳せた。
「仕事の取り方なんかわからないし。マイチューブもできないし。人の名前覚えらんないし。忘れ物するし。朝も起きれないし。プロの自覚も常識もないとか」
「えっと、その、ちょっと」
「アハ」宇枝が潤んだ瞳でマツリを見た「コレ無しで」
「アッハイ、大丈夫です」
宇枝は目じりを下げて外を見る。マツリもそれにつられた。相変わらずよく晴れている。
「私のために頑張ってくれてたんだね」
「牧村さんにも話してあげてください」
「うん、そうする」
「後山さんのことは私がこれで引っぱたいておきますから」
そう言ってマツリはペンをかざした。宇枝はそれを見て、ペン越しに目が合い、微笑みが交差した。
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