第7話
翌日。寒さが嘘のように消え去った過ごしやすい日だったが、警察の報道発表は寒いものだった。
それによるとマンションで起こった事件には不明な点が極めて多く、様々な観点から調査を進めるつもりなのだという。現場の監視カメラは極度の低温により故障して肝心な時間帯に機能しておらず、住人の証言がいくつか取れただけだったそうだ。倒れていた5人はいずれもひどく衰弱していて病院に送られたらしい。要は何も分かっておらず、幸いなことに死者もいない。記事とするには弱かった。
マツリも当日のうちに聴取を受けていたのだが、肝心なところを話す事はできなかった。話の流れの中で自身の関与に気づかれていない事に胸をなでおろした一方で、彼女が記者だと分かるやいなやさっさと帰されてしまったことは痛手だった。
当然違和感を覚えたので追求したい気持ちはあったのだが、彼女自身も隠している点が多くあり、ボロを出すことを恐れて突っ込みきれなかった。マツリの中で真実をどのように扱えばいいのか結論が出る見込みは立たないままだ。原付のエンジン音に彼女の叫びが混ざり込む。
さらに翌日。この日もよく晴れていた。通勤ラッシュが収まり、行き交う人と車の量も落ち着いてきた頃。マツリとタマキを乗せた真っ赤な原付が病院を目指していた。車道の上を何度か警察のドローンが飛び去っていく。
「静かになったよね、アレ」
マツリの腰に手を回したタマキが言った。オニ部隊の運用と時を同じくして配備されたドローンは飛躍的に進歩を遂げ、一年足らずで格段に性能が上がった。静粛性もその一つで、もはやドローンの語源にふさわしくないほど静かに都市の生活に溶け込んでいる。
「どれくらい成果出てるのかよね。マンションにも来るの遅れてたじゃない」
「マツリちゃん辛口だよね。カレーパン買って帰ってあげる」
「嫌いじゃないわ」
マツリは近くの商店街にタマキを降ろし、昼前に病院を訪れた。幸い牧村の容態は良いようですんなりと面会が認められた。ハーフヘルメットを小脇に抱え、慣れない病室内で遠慮がちに牧村を探すと、窓際のベッドで彼を見つけた。ずいぶん血色が良く、順調な回復ぶりが見受けられる。これなら問題なく取材ができるだろう。もちろん、彼が起きていればの話なのだが。
「あちゃあ、タイミング悪かったか……」
「記者の人?」
「へいっ!」
声の主は間仕切りカーテンの裏、ベッド脇の椅子に座り、ニットのキャスケットのつばと眼鏡の奥から大きな目を向けてきている。シンプルなスウェットとショートパンツといった出立ちは一見して印象に残りにくいがマツリは即座にその正体を見抜いた。
「宇枝ジュンさんですよね」相手にだけ聞こえる程度の声量で言った。
「あれ! わかるの?」
よく通る特徴的な声が静かな病室に響いた。マツリが口元を押さえて周囲を確認すると、宇枝も続いて同じような行動をとった。まだまだ売れっ子としての自覚が足りないようだ。それと、もしかしたら常識も。
「もちろん。ご活躍はかねがね……」
「いいよそういうの。今日は何? 私の恋人疑惑について?」
「だからちょっと!」
マツリは声を潜めて自分の口元を押さえる。宇枝もそれに続いた。やはりどちらも足りないのだろう。
「コウヘイくん起きるまで休憩スペースとか行こっか?」
「そうしましょ、そうしましょ」
そうして二人は視線に晒されながらいそいそと病室を出て休憩スペースへ向かった。マツリにとっては完全に想定外の展開だが、これはこれで怪我の功名と言えるだろう。それはなにも恋人疑惑などというショボいネタに突っ込めるからと言う意味ではない。
辿り着いた休憩スペースはマツリの想像とはまるで違っていた。一面の窓から光が差し込み、そこに面したカウンターテーブルからは存分に都内とは思えないほどの緑を眺めることができた。フロアのテーブルや椅子もシンプルながらセンスがよく、ここが病院であることを忘れてしまいそうだった。マツリは二人分の飲み物を持ちながら感嘆の息をこぼす。
「今の病院って凄いんすね……」
「そう? 確かにここは特別キレイだけど、こんな感じでしょ」
「なにぶん病気にならないことだけが取り柄のつまらねぇ女でして」
「アハハ! 江戸っ子〜!」
何が? とツッコミたい気持ちを抑え、硬い笑いを返し、たすき掛けにした取材カバンからバインダー式の手帳を取り出す。彼女の取材ノートである。その様子を見た宇枝は飲み物を一口飲んで早速話し出した。
「コウヘイくんね、さっきまで警察の人と話してたの。だから疲れちゃったみたいで。ゴメンね」
「いえ、そんなことは……」
「でも私もコウヘイくんから色々聞いてるから、それなら話せるよ」
「え! 本当ですか!」
クマが刻まれたマツリの目元に光が宿った。
「それともやっぱり恋人騒動の話がいい?」
「あー、それなんですが……」ペンの尻でこめかみを二度叩く「もしかしたら関係しちゃうかもしれないです」
「そうなの? でも、どんな手で来ても話せないんだよね。そっちの話は」
宇枝に直撃した記者がいないわけではない。しかし第一報が出てからかれこれ1ヶ月ほど経っても彼女が口を開くことは決してなかった。そして今も、先程までのちゃらんぽらんとした雰囲気が霧散する程度には、話さないという硬い決意が伺えていた。
「いいんです。今日は牧村さんの証言が欲しかったのと、それと私が調査したことを聞いて欲しくてお邪魔したんです」
「あなたの調査? 私のマンションのやつ? 警察でもよくわかってないんでしょ?」
「いえ、私のは牧村さんが、その、人に怪我をさせてしまった件のことで」
「ああ……後山を引っ叩いたってやつだ」今度はあからさまに嫌そうな顔をした「うん、言ってたよ。コウヘイくん。叩いたって。でもそれ記事になるの? コウヘイくんとアイツの関係知ってる?」
「宇枝さんも所属しているALICEプロダクションのマネージャーさんですよね、どちらも。後山さんがだいぶ先輩だとか」
「そう。だからただの内輪もめ。それにアイツ怪我なんてしてないみたいだし。調べてどうするの?」
「なんでかなって思ったんです」
宇枝はすこし首を傾げて話の続きを待っている。記事になるかだって? そんなことはマツリにだってわからない。牧村がナモミツキとなって起こした事はとても記事には出来ない。しかし始末はつけた。傷害事件のこともいずれ決着がつくだろう。後山も大した怪我をしているわけでもなく、それ自体が大きく報じられる事は無いはずだ。
だが、「なぜ」が解決していない。動機もそうだが、牧村がそうするに至った背景、他人を傷つけるに至った事情、ナモミを貯める事になった直接の理由。それが何かあるはず。マツリはそれをできる限り明らかにしようと決めたのだ。
「私が調べた牧村さんの行動がいくつかあります。それについて、彼から聞いたことや心当たりがあったら教えてくれませんか?」
「いいよ、言ってみて」
マツリは頷いて自分のノートを開く。
「まずは発端からです。牧村さんは後山さんを殴打しました」
「うん」宇枝は僅かに視線を落とす。
「ですがこれは、後山さんがそもそもの原因だった。牧村さんは『反撃』したのでは?」
「え、それ……」宇枝の目がマツリに向く「なんで知ってるの? 記事にもなって無いし、私も昨日聞いたばっかりなのに」
「すみません、情報元は明かせないんです」
当然だ。マツリはナマハゲから借りているノートの情報をもとに話しているのだから明かそうにも明かせない。ノートの情報が正確なことは間違いないが、それには日の目を見させるための裏付けが全く無い。それに、ノートにはその人物が行った行動しか書かれておらず、情報に抜けが多かった。
そのため行間を推察したり、書かれていることの裏付け調査をすることは不可欠だ。昨日一日かけてできる限りの取材と調査はしたものの、最終的には本人に確かめて足りない部分を補う必要があった。
ノートに書かれていたその時の情報はこうだ。
【ジュンのマンション付近の駐車場で後山を見つけて声をかけた】
【後山は聞く耳を持たないが、とにかく頭を下げた】
【後山のパンチを防いだ】
【後山の言葉を耐えた】
【後山の蹴りを防ごうとして、失敗した】
【後山を振り解こうとして、失敗した】
【殴った】
3つ目からは目に見えて文字が荒れており、4つめ以降は掠れきっている。
「コウヘイくんね、車の陰で殴られたんだって。お腹とか。イヤなこと言われながら」
「イヤなことというのは?」
「話してくれなかった。でもアイツ普段からイヤなことしか言わないし。それで、コウヘイくんね」
宇枝の喉が目に見えて詰まった。マツリは静かに次の言葉を待つ。
「警察の人に言ってた。殺そうと思ったんだって」
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