第5話
「ジュン……! アアア……俺はアアア!」
金属の壺の中で反響するような声がして、影が霧の中から飛び出した。その姿は円柱状の練炭でできた藁人形のようだ。僅かに透き通っていて、中には血管のようなものがびっしりと張り巡らされている。天井に頭部をこすり付けるほど巨大なそれは丸太のような右腕を振りかざす。狙いはマツリに他ならない。
だがそこにいたのはマツリではない。炎だ。燦然と燃え上がる真っ赤な炎だ。それはみるみる形を成していく。
上半身を包み込み、腰に巻きつくと、火種をはらむ藁となってチリチリと音を立てた。露出した腕と脚は彼女のものとは思えないほどゴツゴツと逞しくなり、そして黒く染まっている。炎はそこにも同じように絡みつき、籠手や脛当てとなった。それらはマツリの前に現れた鬼と同じような衣装だったが、しかしその頭部だけは決定的に違った。
癖のある黒い長髪の下にあるのは黒い金属質の仮面であった。鬼のツノとキバが模られ、目元の僅かな隙間からマツリの目が覗いている。さながら戦国武将の面具のようではあるが、その意匠はどこか近代的なものを感じさせた。
「オオオオオオオオ!」
鬼の咆哮が響いた。重厚で内臓にまで響くそれはマツリが本能的に恐れているものだ。反射的に体がすくみそうだったが、この時は勝手が違った。その声はマツリの口から出ていたのだから。
「ガッチメガス!」
「え、なんて? てかなんですかこれ!」
ふたつの声が面具の中で混ざり合う。マツリは自分の体や周囲を確かめようとしたが、体はまったく別の動きをした。腰を落とし、迫り来る影に対して半身に構えたのだ。
「なかなかおもしぇ面つぐったねが。おらが見込んだ通りだ」
「ちょっと、体動かないんですけど! ってか動いてるのに動かせてないんですけどー!」
直径だけでもマツリの上半身を覆ってしまいそうなほどに膨れ上がった腕が自動ドアを砕いて迫っている。巨体を倒れ込ませるようにして振り下ろされたそれは圧倒的な威圧感を放っていた。だがマツリの体は少しも後退することはない。
「だどもまだまだ……」
「聞いてますか! 危ないですって!」
マツリの目頭はカンカンに熱くなっているが、体はさらに腰を落とす。左手を前に出し、右手を強く握って力を込めた。全身の熱が高まる感覚があった。影の腕はすぐそこだ。
「ヨッタイネナ!」
「いいから逃げてー!」
足が伸び、腰が回り、腕が奔り、衝突する。その瞬間に影は大きく波打ち、衝撃が全身に伝わって後方へ弾け飛んだ。2枚目の自動ドアを突き破ってエレベーターホールの壁に衝突すると、穢れた黒い肉を撒き散らして動きを止める。寒風が弱まり、かわりに警報のアラートが響いていた。
「おし、がっちめがした。見かけ倒しでねが」
「それブン殴るっていう意味だったんですね……すごい……」
「いや、決めきれねがった。仕上げにかかるど」
「え、まだ何かやるんですか? もう逃げましょうよ……えらい壊しちゃったし……」
マツリの体は彼女の意思とは別にずんずんとマンションの中に入っていく。怖いやら聞く耳を持たれないやらでため息をつくしかなかった。
「おめにすかえねばねことばあるんだ」
「あのぉ、せめてアタシに分かる言葉で話してくれませんか?」
「わい、またやってしまった」鬼は豪快に笑って話を続ける。「教えておかなきゃならないことがあるって言ったんだ」
「なるほど、聞きたいことが沢山あったので助かります」
鬼はまた笑う。そして破壊された2枚目の自動ドアの前で立ち止まり、壁に叩きつけた影を指さした。
「まずはアイツだ。ああいう奴をナモミツキって呼んでいる」
「ですよね、そうじゃないかと思ってました」
「なかなかさがしいねが……じゃない。賢いな。人間がナモミを多く溜め込むと、それに悪い霊だの妖怪だのが寄ってきてああなってしまう事がある」
「やっぱりオバケじゃないですか!」
マツリの体感では全身に悪寒が走っていたが、実際にはその場で元気に足踏みをしていた。一度、二度、三度と力を込めて地面を叩いている。
「あくまでも人間だ。人間の悪い心が疫霊によって増幅されているだけだからな」
「でもオバケが憑いて……」
「ナモミツキへの対応には大きく二つの方法がある」
「あ、はい、どうぞ……」
マツリは鬼と話すたびに自分自身の小ささを思い知らされている。足踏みを7度終えたところで真っ直ぐに立ち、ぐったりとしているナモミツキを見据えた。
「まずは予防。人間にナモミを溜めさせないこと。疫霊自体に好き勝手させないこと。どっちかが完璧ならナモミツキは出ないんだども、なかなかそうもいがね」
「また霊って言った」
「二つ目は対処だな。これが厄介でなぁ、疫霊はナモミに根を張るように居着いてしまっでるがらナモミそのものを人間から引き剥がすしかねんだ」
「それは……今みたいに殴って?」
「んだな、それも一つの手段だども。見でみれ」
ぐったりとしていたナモミツキの腹のあたりが何やら盛り上がってきている。強い粘性を持つ肉から這い上がるように出てきたのは人間だった。少なくともその形をしている。だがその声は金属製の反響を伴う奇妙なものだった。
「どうやら……オニ部隊よりも、厄介な鬼のようだなぁ」
ナモミツキの肉から上半身をあらわにした人間は奇妙な目でマツリを睨みつけた。瞳がいくつもあるのだ。その巨体を形作っている黒い肉が人間の体の内部にまで作用してしまっているということがうかがえた。
「牧村さんなんですね、やっぱり」
「牧……う、アア……俺が牧村……ジュンを……」
牧村はどろどろの肉がついたままの手で顔を覆い、ウンウンと唸り始めた。それと共にぐったりとしていた塊が泡立つような反応を見せる。
「宇枝ジュンさんですか? 彼女がどうしたんです?」
「待て、マツリ。インタビューはもう少し後にしろ」
マツリは初めて鬼にその名を呼ばれた。しかしどういうわけか、懐かしさのようなものも同時に感じていた。その違和感に言葉が詰まり、そうしているうちに体は再び腰を落として戦闘態勢に入った。
「まだこれからだど。あいつをナモミの塊から引っこ抜いてやらねば」
「鬼さん、牧村さんは助かるんですか?」
1秒。また1秒。返事がない。助からないのか? それともまさか、これから命を奪うというのか? いや、もしかしたら、名前を呼ばれたから自分からも鬼と呼んだのが距離を詰めすぎだったのだろうか。そんなことを考えているうちにマツリの口から大きく長いため息が流れ出た。
「おめだぢよぉ、さっきからなんだ? おらに向かって鬼だ鬼だって!」
大きく腕を振って鬼が言った。鬼でしょ? 鬼じゃないか。マツリも牧村もそう思っているが、そんな当たり前のことを口に出すのさえ馬鹿馬鹿しいといった様子で閉口している。ただただアラート音と黒い肉が泡立つ音だけが響いた。
「マツリ! おめの作った仮面がわりぃんでねが?」
「仮面?」
左手で頬の辺りに触れた。このとき初めてマツリの体が彼女の思い通りに動いた。硬い感触が指先に伝わる。揺らしてみても簡単には外れなさそうだった。
「いや、アタシはこれを作った実感なんて無いですし、まだ自分では見てませんし、わからないです」
「アイースガダネ!」
再び体が勝手に動き出してホールにどたどたと駆け込むと、エレベーターの鏡面仕上げの扉に姿を映した。異様な藁の装束に一回り逞しくなった四肢、長い髪にいかめしい仮面。その姿を初めて見たマツリは「ウオオ!」と鬼のような声をあげる。
「どんだ? これは鬼だが?」
マツリの腕がわなわなと震え出した。普段の自分とはまるで違う自分がそこにいたのだ。視線を落とし、両の手のひらを上にして自分の体を眺めると、勢いよく鷲掴みにした。
「チチでか!」
「はぁ?」
「すげぇ威圧感! 負ける気がしねぇ! タマキって毎日こんな気持ちなのか!」
「馬鹿け! そうでねぇべしゃ!」
鼻息を荒くしていたマツリの両手がバンザイして夢の時間は終わった。目を覚ました彼女はスミマセンと平謝りを連発してもう一度エレベーターの扉に視線を戻す。
「えっと、そうですね。なんかこう武将っぽいですけど、それでもやっぱり鬼……ですかね」
自分自身だからだろうか、怖さは感じなかった。それでも佇まいや仮面からはひりつくような気迫を感じる。そしてどうしても胸部に目がいってしまい、それが自分のものであると考えるだけで目尻が下がってしまった。
「はぁー、そいだばダメだ。いや、名乗らなかったおらもわりども」
露骨に肩が落ちた。先程まで纏っていた熱気や気迫が消沈してしまった雰囲気があった。だがいつまでもそうしてはいられない。背後でナモミツキが泡立つ音がどんどん強まってきている。
「鬼だろうが、なんだろうが、どうでもいいだろうが」
黒い肉に塗れた牧村が口を開いた。エレベーターホールに入ったため、距離は極めて近い。泡が割れるたびに悪臭が広がり、倒れていた大きな体が再び牧村に覆い被さっていく。
「俺は、牧村……牧村コウヘイ……! ここにいる。無視してんじゃねぇ……!」
飛び散っていた肉が蒸発するように紫の霧となって体に吸い込まれていく。そして再び立ち上がり、巨大な藁人形が復活した。今度は全身が泡立ち、深紫の霧を纏って冷気を噴出させている。
「わい、いい名乗りだごと」
鬼はエレベーターの扉から目を離し、肩越しにナモミツキを見た。
「それだばおらも名乗らねばねべなぁ」
ゆっくりと振り返って右腕を差し出す。その手に火花が飛ぶと一気に燃え上がる。みるみる大きくなるその炎の中で鬼は何かを掴んで一気に引き抜くと、身の丈ほどある棒が現れた。その先端に移った炎は形を変えていき、御幣となって揺れる。
「やいやいシャミコギ、アグダレワラス! オメダの心根ガッチメグ!」
御幣の杖を振り回し、地面を強く踏み込んで音を鳴らす。
「悪疫退散! あ、ナマハゲ! 参、上!」
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