第4話

 ノートに書かれていたマンションの正面玄関にやってきた。公園から見張っていた場所だ。二連の自動ドアはオートロック付きで、奥のほうを開くためには鍵が要る。さらにその奥はエレベーターホールだ。周囲はがらんとしていて見通しがいい。脇の道を進めば駐車場があり、前の道をたどればすぐに大通りだ。しかし、このあたりに来たはずの警官の痕跡が見当たらない。


『中に入ったのだろうか』

「はい、そうかも……」

『なした?』

「ちょっと、臭いが……」


 幻覚はより一層強まっている。腐った魚の臓物を炙ったものを口に詰め込まれた気分だった。


『もう少しの我慢だど』

「これ、いったい何の臭いなんですか?」

『ナモミの気配だびょん。おめはそれを臭いで感じてらんだな』

「その、さっきからおっしゃってるナモミってなんなんですか?」

『んだなあ、人の心から生まれて、心に溜まる煤みたいなもんだ。普通はケガレなんて呼んだりするんだべが。おらたづはナモミって呼んでらな』

「はぁ……オバケとかそういうのじゃないんですね」マツリの緊張がやや緩む「そんなものがそんなに危険なんですか?」

『しったげ危ね!』


 鬼が突然声を荒らげ、マツリの細い体が棒のように固まる。オバケ以上に恐ろしいものが目の前にいることを再確認した。鬼は咳払いをして続ける。


『いいか、ナモミツキはかなり近い。油断するな、おらの言うことをよく聞げ』

「ハイ!」


 ハイ以外は許されなさそうだから我慢しているだけで、マツリは心で号泣している。大声で泣くかわりに大声で返事をしているだけだ。その声に反応するかのように、視界の中で何かが動いた。2枚の自動ドアの間にある小窓が半分ほど開き、すぐに閉まったのだ。


「守衛室……管理人室? とかですかね」

『何か見てなかったか聞いてみるか』

「えっと……」おずおずと自分を指差す。

『当だりめだべ』

「ですよね……あっ」


 マツリはふと思いつき、手にしたままだったノートを開いた。そこには亀山の行動が記録されているのだから、管理人に話を聞く前にまずはそれを確認した方がいいと考えたのだ。


【被疑者と接触した】

【被疑者が神戸を強く殴打したので、警告のために拳銃を向けて制止を試みた】


 これまでのページの隣に、1ページをまるまる使って大きな文字でそう書かれている。字体は太く、荒々しい。さらにページをめくる。


【発砲した】


 1ページごとにそう、3ページに渡って書かれていた。最後の「発砲した」はほとんど読めないほどに太く、乱れた字体だった。マツリは呼吸を忘れていた。


「やっぱりさっきのは銃声だったんだ……撃ったのは亀山さん。でも、どこで? 亀山さんはどこにいったの? 殴られた神戸さんと、撃たれた被疑者の人は?」


 マツリは次々とページをめくる。しかし意味不明な文字や図が続くだけで読めるページがない。そしてどれだけめくってもページが尽きることはなかった。


『ほれ、早くいくぞ』

「わかりました……」


 マツリは悪臭に耐えて息を吸い、大きくはいた。オバケじゃない。オバケじゃない。そう自分に言い聞かせて自動ドアをくぐる。ドアの動きがのろく、それにひどい冷気を感じた。高級マンションのくせにと悪態をつきつつ上着のジッパーをあげて小窓へ近づく。


「あのぉ、ちょっといいですか?」

「なんでしょう」


 2、30歳といった年頃の男が小窓の近くの椅子に腰掛けている。丸い鼻からおとなしそうな印象を受ける。鬼はマツリのすぐ後ろに立っていたがそれが見えている様子はない。部屋の中は照明がついておらず、モニターやテレビ、デスクスタンドといった小さな明かりしかなかった。


「すみません、もう帰るところでしたか?」

「なぜ?」

「いえ、時間も時間だし、コートを着てるし、部屋も暗いので」

「ああ、なるほど。そうです。それで何か?」


 悪臭は強まるばかりだ。拳を鼻柱に当てて耐える。


「そうでした。ついさっきのことなんですけど、この辺に警察が来ませんでしたか?」

「警察? いや、あなた誰なんです?」

「ああ、申し遅れました。週刊トピックの柴灯マツリっていいます」

「記者?」男はマツリが財布から取り出した緊急用の名刺をまじまじと見る「記者が警察を追っているんですか?」

「警察を追っているわけではないんです。このあたりで二人組の警官を見かけまして、そのあとに銃声や悲鳴が聞こえたものですから、何が起こったのかを確かめたくて」

「そうでしたか。でも俺は何も知らないですね」

「ずっとここにいらっしゃったわけではない? どこかに出かけてたんですか?」

「記者さんに言うことじゃないですね。もう帰るので出て行ってもらえますか」

「しかしですね……」


 マツリは悪臭の質が変わったように感じて一瞬固まった。焦げた匂いが混ざったようなような気がしたのだ。


『十分だ。台帳見てみれ』

「え、はい、わかりました」

「今日は冷えるので、お気をつけて」


 男はマツリが素直に引き下がったのだと思い小窓を閉める。しかしマツリは立ち去らず、その場でノートを開いた。しばしそれを読み込み、視線を落としたまま声を小窓の奥に向ける。


「このマンションの近くで後山タカヒサに会いましたね。あなたは彼を殴った」


 小窓の奥で闇に溶けかけていた男の動きが止まる。


「その後、少し空白があって……それから宇枝のマンション、つまりここに来たんですね」


 男は固まったままだ。臭いがさらに強まったせいでマツリは小さく咳き込んだがそのまま続ける。


「管理人に事情を話して入れてもらおうとしたけど拒否された。それからまた空白があって、警察に呼び止められて逃走をはかった」

「警察になんて会ってないですよ……」


 反応した。否定であれなんであれ、反応さえあれば話し続けられる。ようやくいつもの調子が戻ってきた感覚があった。


「いいえ、会ったはずです。そして逃走をしたはずのあなたはどういうわけか管理人室にいる」

「そりゃあ、管理人ですから」

「いいえ違います」

「違わない! なんの根拠があってそんなこと言うんだ!」


 根拠を出せと言われてマツリは当たり前のことに気づく。このノートは根拠にはなっても証拠にはならないということに。だが男の反応を見れば真偽は明白だ。一向にマツリの方を見ない。見られないのだ。努めて感情を表に出さないようにして続ける。


「それは明かせませんが、それではその窓」マツリはクレセント錠を指差す「鍵が派手に壊れてますけど。それにフレームまで歪んじゃってますね。これいつ壊れたんですか?」

「これは……いつだっていいじゃないですか」

「ここから管理人室へ押し入った」

「あなたには関係ないです。もう帰りますから……」

「答えてくれませんか。牧村コウヘイさん」


 マツリはノートに書かれていた名前を読んだ。男の影がゆっくりと振り向く。その横顔からは少なからず驚きと、それに焦りのようなものが見て取れた。マツリはマツリで、改めてノートが引き起こす不思議な現象に息を呑む。


「公安? それとも、オニ部隊ってやつ?」

「そんなんじゃないです。警官と管理人、それに後山さんはどうなったんですか?」

「嘘だ。じゃあどうしてそんなこと、名前まで知ってて。俺は何もしてない」

「何もしてない? 話が噛み合ってないですよ」

「本当に覚えてないんだよ!」


 男が初めて感情をあらわにし、手のひらを上に向けて大きく上下に振った。


『来るど』

「え?」

『合図したら手を三回叩け。神社で祈る時のようにだ』

「こうですか?」マツリは一度パンと手を鳴らした。

『まだ!』

「ヒッ!」

「何言ってんだよお前ぇ!」


 小窓の方から怒鳴り声とともに冷気を感じた。見れば小窓がみるみる曇ってゆき、汗をかいたと思えば次の瞬間には凍りついていた。


「なにこれ!」

『一旦逃げるど!』


 マツリは言われるがままに外へ向けて駆け出した。ドアは半分開いたところで何かに突っかかるように止まってしまい、体を横にしてすり抜けた。

 その直後、小窓が据え付けられていた壁が勢いよく崩れ去り、管理人室があった場所から真っ白な煙と共に何かが飛び出した。ドアの隙間から強い冷気が吹き出してマツリを襲う。煙のように見えたものは霧だ。冬の空気を冷やし切るほどの霧だ。空気中の水分が凍りついてチラチラと光っている。腕で顔を守らなければ口やまぶたが凍りついてしまいそうなほどだった。


『手ェ叩け、マツリ! 祈りを込めれ!』

「ハイ!」


 マツリはノートを脇に挟み、吹き付ける寒風と対峙して両足を踏ん張り、手を顔の間に持ってきた。


 パン! どうか助けてください。言われるまでもなく強い祈りが込められていた。白い煙の中に妙な形の影が見える。ずんぐりとしていて、少なくとも人のものではない。やっぱりオバケじゃないか! そんな心の叫びを叩き潰すようにもう一度手を叩く。


 パン! 私を守ってください。鬼と出会った瞬間から感じていた身の危険、得体の知れない恐怖。その極致のようなものが目の前に現れようとしている。


『大丈夫だ』


 隣で鬼が呟くように言った。横目でそちらを見ると、鬼は真っ直ぐに立ってマツリを見守っていた。いつ見ても恐ろしい顔つきだ。強い風にたなびくクセのある長髪がより一層恐ろしさを際立たせている。だがこの時は、恐怖の中に頼もしさを強く感じた。マツリは小さく頷き、再び正面を見据える。


 パン! 手を叩いた瞬間、マツリは合わせた手のひらに熱を感じた。その熱は血に乗ったように全身に広がり、心臓のところで爆発的に燃え上がる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る