第3話
どれほど走ったのだろうか。いつの間にか細い路地に差し掛かっていた。鼓動は頭の中で聞こえるほどに強まっている一方で疲れは全く感じていない。ただただ進める方向へと走っていった。しかしいつまでも続くわけではない。日の当たらない道は一部凍結していて、それに足を取られて強かに転倒してしまった。
人通りのない建物の隙間でうつ伏せの姿勢のまま固まる。心臓と室外機の駆動音に耳をそばだて、それ以外のものが聞こえないことを祈り続けていたが、アスファルトの冷たさが体の芯まで達したことでようやく脳が動き出した。擦り剥けた膝や手のひらを庇いながら上体を起こしたところで右手に先程のノートが握られたままだったことに気がついた。
『それ、すげぇべ』
「ギャアー!」
立ち上がりかけていたマツリはそのまま尻餅をついて建物に背中を叩きつけてしまった。あれほど一生懸命逃げたというのに、鬼は音もなく眼前に迫っていたのだ。声はかすれ、後ずさりしようにもこれ以上は下がれず、腰が抜けて立ち上がることもできなかった。
『アイーヤッカネ。ドデシタネガ……じゃなかった。びっくり、するじゃないですか』
マツリはリズムの乱れた呼吸をしながらも丸い目で鬼を凝視していた。恐ろしい。しかし予想に反して物腰が柔らかい。それにオーバーリアクションだった。今も額に手を当てたり腕を振ったりしながら話している。その落差による混乱もあってギリギリのところで目を逸らさずにいられたのだった。
そうしたことで気づいたことがある。よく見ると鬼はボロボロだった。顔はキズだらけだし、僅かに透けている体は胸の辺りを中心にところどころ穴が開いたように欠損している。特に膝から下は殆ど見えなくなっている。
『少しは落ち着きましたか? おらの話を聞いてくれますか?』
マツリはボブルヘッド人形のように激しく首を縦に振った。まだ声を出せるまでにはこの状況に適応できていない。
『よかった。それでは早速なのですが、力を貸してけねすか?』
首は動かない。力を貸してくれと言っているのか? この鬼に? なんでアタシが? どうやって? アタシは助かるの? アタシが人を食べる手伝いをするとか?
『ドダンスカ?』
まぶたさえ動かない。何を言ってるの? アタシに何が出来るっていうの? 今だって怖くて仕方ないのに。早くいなくなって欲しいのに。あぁ神様!
『ケデランダガ!』鬼が声を張り上げて顔を近づけた。
「アーッ! ごめんなさい! ごめんなさい……うぇ……」
突然強烈な吐き気がマツリを襲った。恐怖もあったがそれだけではない。臭いを感じたのだ。ここ数ヶ月間悩まされている幻覚だ。今回はそれを今までにないほど強烈に感じたのだった。刺激のある腐臭が鼻の奥を突く。
『大丈夫だが! いや、あー、やっぱり感じ取れるんだろう?』
「いえ、これはストレス性の幻覚で……すみません……」
『幻覚なんかじゃない! おらはそれを何とかする為に来たなだ!』
鬼はそう言うとマツリが握っているノートに手を沿え、彼女に寄り添うように屈みこんで一緒にそれを見た。マツリの短い悲鳴を無視してノートを開くと、亀山のページに新たな項目が増えていた。
【被疑者が近隣マンション近くのカメラに映ったとの連絡を受けた】
【銃刀法違反の柴灯マツリを諦め、神戸と共にマンションに向かった】
【被疑者らしき人物を発見した。神戸に本部へ確認を取らせた】
【確認が取れたため、確保へ向かった】
『今警察が探してらなは”ナモミツキ”っていうなだ。間違いね』
「なもみつき……?」
『今は説明してる時間がねども、とにかくわりぃモンだ。それに”ナモミツキ”だってわがってねぇまま追ってて、しったげ危ねんだ』
「え、それであの、アタシは何を……?」
『何をでね!』
「ヒーッ! すみません!」手を頭にやって身をすくめた。
『オメガヤラナダ!』
「ハイ! ハイ……え?」
マツリは頭を覆っていた腕を少し緩め、横目で鬼を見た。鬼は咳払いをして言い直す。
『あなたが、やるんです』
「あ、アタシがやるんですね、その、ナモミツキを……」
『ンダ』
しばし沈黙。聞けば聞くほどわからない。手伝いをするだけじゃないの? アタシがやるの? 何を? ナモミツキってなに? もしかして焦ってる? 疑問は尽きないが、いつまでも黙っているとまた怒鳴られてしまいそうだと思い、とりあえず何かを話すことにした。
「あの、アタシやったことなくて……ナモミツキも聞いたことなくて……」
パン! と、そう遠くないところから乾いた音がした。マツリの引きつった笑みが瞬間的に恐怖に固まる。同じ音が続いて2回3回と鳴ると、さらに男の悲鳴まで聞こえた。
「い、今のって!」
『ウルダグド! 立で、行ぐど!』
「え、行くっていうのは……」
『音さしたとごだ』
「いや、あの、危ないんじゃ……」
『危ねがら行ぐなだ』
「そんなぁ……」
『グッグドセ! 立で!』
「ハイ!」
ここで逆らってはそれこそ危ないと感じたマツリの体はバネのように跳ね上がった。声は涙声だったが、やけっぱちのように張り上げていた。
『走るど!』
「ハイ!」
鬼が先行し、それをマツリが追う。ずんずんと進む鬼の足は消えかけていて、足音は無く、水溜りを踏んでもしぶきを上げることさえない。それでもただならぬ力強さを感じさせる。この世の者ならざる存在なのだと改めて思い知らされた。そんな存在が対峙するものとはどんなものなのだろうか。その不安はマツリの薄い胸中に収まりきるものではなかったのだが、前を行く鬼の大きな背中を見ていると不思議と脚を前に出すことができた。
それに、マツリの心の底には恐怖とは真逆の感情が息を潜めていたのだ。もしかしたら、自分は世間の注目を引くようなとびきりの事件に極めて近いところにいるのかもしれない。待ち望んできたスクープが目の前にあるんじゃないか。早く危険に近づきたい。誰よりも早く。アタシだけが。その感情は今のところ恐怖とわずかな理性によって押さえつけられている。
路地から出て角を二つ曲がると公園の前の道に戻ってきた。マツリの体感ではかなり長い距離を走ったように感じていたが、実際にはほとんど離れていなかったようだ。軽自動車は変わらずそこにある。その傍らで眉をハの字にして周囲を見渡していたタマキが遠くにマツリの姿を見つけて彼女の名を呼んだ。マツリが足を緩める。
『今はダメだど』鬼がたしなめるように言い、咳払いをして続ける。『急がなくてはいけない。それにあの子を連れて行くわけにも行かない。分かってほしい』
「はい……」
マツリは言われたとおりにするしかなかった。鬼がタマキまで巻き込むつもりは無いとわかったのがせめてもの救いだった。
「マツリちゃん! 大丈夫なの!」
「うん……大丈夫!」
自分で思っている以上に不安が伝わる声が出てしまったことに気づいて言いなおす。
「全然! 余裕余裕! もうちょっとそこで待ってて!」
「どこ行くの! さっきそっちからすごい音が……」
タマキはマツリに向かって駆け出そうとしていたが、マツリが片腕を伸ばしてそれを制し、短く吸った息を僅かに貯めてから努めて快活に言った。
「すぐ戻るから、絶対そこで待ってなさいよ!」ニッと歯を見せて付け加える。「車が取られたら大変でしょ!」
「でも!」
「お願いねー!」
声を出すほどに足が震えていく。それをどうにか押さえつけ、濡れた道路をしっかりと捉えながら、鬼に導かれるままタマキのもとから離れていった。臭いはどんどん強くなる。鼻に手を当てながら遠慮がちに口を開いた。
「あの、すぐ戻れるんですよね?」
『マガヘレ』
意味はよくわからないが頼もしそうな答えが間髪入れずにかえってきた。任せていいんだよね? アタシにもタマキにも何も起こらないよね? 手伝ったら鬼も消えるんだよね? 祈りのような思考が脳を漂う。
とても夢だとは思えないが、現実味も感じない。夢とうつつの谷底を進んでいるような気分を味わっていた。しかしマツリは知ることになる。ここはまだ谷の入り口にすぎないということを。
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