第2話


「どうされましたか?」


 マツリの呼びかけに警官のうち一人が応じた。その反応にマツリは違和感を覚える。


「すみません、駐車の取締りですよね?」

「え? あぁ……」


 警官はそこで始めてしっかりと車を見て、それからもう一人の警官に目をやり、もう一度マツリを見た。


「あなたの車ですか?」

「はい、そうなんです! すみません、ちょっとだけ停めるだけのつもりがついダンスの練習に熱が入ってしまって! すぐどけますんで!」

『バスコギガ』


 ひょろっと長い体をかがめて平謝りしていると、再び妙な声がマツリの耳に入った気がした。警官の声かとも思ったが、二人はなにやら小声で話している。今はそんな状況じゃないだろう。しかし何も対応しないわけには。と、そんなことを話しているようだ。


「わかりました。今回は警告だけということで」

「はい! すみませんした!」マツリは体を90度折り曲げた。

「一応免許証を出してください。それから今日は早めに帰るように」

「はい! すみませんした!」


 元気にそう答え、サイフの中の免許証を探りながらも、マツリは警官たちに対する違和感が引っかかって仕方なかった。この明らかな駐車違反を取り締まりにきたわけじゃないのか? 駐車監視員に任せきりなのか? いや違う、この警官たちは明確な目的を持って行動しているのだ。それはいったいなんだ?


「何か事件でもあったんですか?」

「え?」

「いえ、早く帰るようにとおっしゃってたので」


 差し出された免許証を受け取りながら「あー」と唸る警官。数秒置いて、もう一人の警官が対応した。


「付近で傷害事件があったとの通報が入ったんです」

「あー、そうなんですね」


 マツリは話の続きを待った。しかし岩のような胸板を持つ厳めしい雰囲気の警官の口は、これで話は終わりだとばかりに開く様子がない。具体的にはどこで、どんな事件だったんですかと聞くこともできる。だが状況が状況だ。うまいこと警告で済ませたというのに下手に刺激して面倒な事になってはかなわない。

 それでも記者の性なのだろうか。湧き上がる知識欲が理性の蓋をガタガタと揺らして今にも吹き飛ばしそうだ。その時だった。


 パサリ


 古めかしいノートのようなものが足元に落ちた。マツリは携帯電話と財布以外に何も持っていない。警察官のものだろうか。


「落としましたよ」


 やや温厚そうな方の警官が指摘した。免許証は厳めしい方の警官に任せたようだ。全く見覚えのないものだが、言われるがままに拾い上げた。綴り紐は見た目よりもしっかりとしており、3ページほどめくってみると細い筆で文字らしきものや図が書かれているが、古文書のような字体を読み解くことは難しかった。


「苗字は何と読むんですか?」厳めしい方の警官が重い口を開いた。

「サイトウです。サイトウマツリです」


 厳めしい警官の口は再び死んだ貝のように閉じた。彼が何やら確認作業をしているうちに何となしにノートに視線を落とす。マツリは目を丸くした。


【柴灯マツリの免許証を確認した。苗字の読み方を尋ね、サイトウマツリであることが分かった】


 さっきまで読めなかった文字が読めたのだ。そしてその内容は、今まさに目の前で起こったことだ。はっとして警官の顔を見て、すぐに目を戻して他の項目も読んでみる。


【甲斐から業務を引き継いだ】

【本部からの連絡に対応した】

【所轄内で傷害事件が発生した模様。被疑者の特徴を記録した】

【神戸と共に被疑者の捜索を開始した】


 文章ごとに大きさがまちまちの文字でこのように書かれている。これもこの警官が行ったことなのだろうか。ページの上部には「亀山ツトム」と書かれている。まさかとは思いながらも確かめずにはいられない。


『ホレ、ミエデラネガ』


 何を言っているのかわからない幻聴を振り払う。


「すみません、もしよかったら警察手帳を見せてもらうこととかって……」


 厳めしい警官はじろりとした視線で返事をする。


「あの、一回見てみたいなって思ってて! それに今ってアレじゃないですか、警察を騙るフトドキモノがいたりして!」


 警官は流れるような動作で手帳を取り出し、どうぞと開いて見せた。『巡査長 亀山ツトム』と書かれている。感謝の言葉を述べて再びノートに目をやった。


【柴灯マツリの要求に応えて警察手帳を提示した】


 新たな文言が追加されている。息を呑んだ。なにこれ! と叫ぶことさえできなかった。まぶたはその機能を忘れ、汗ではなく脂が浮かんでくるのを感じて体が固まる。


「警告で問題ない」

「わかりました、気をつけてくださいね」


 マツリにはその声さえもよく聞こえていなかったが上の空のまま返事をした。しかし彼女の意識はすぐに戻ることになる。


 カラン


 足元から金属製の音がした。


「はは、また落としまし……」

「動くな!」


 神戸の言葉を遮って亀山が声を荒らげた。両者とも明らかに目の色が変わっている。何が起こっているのかわからないマツリは一歩後ずさって音がしたところを見た。大振りな、剣とも鉈ともつかない刃物が落ちている。


「ちが、私のじゃない!」無意識にノートを胸に押し付け、さらに一歩後退した。

「動くなと言っている!」亀山の手は腰の拳銃にかかっている。


『サイ! カダナモデラネガ。キゲデラベ? アイ……ヤッカネジャ』


 幻聴は以前よりもはっきりと聞こえていた。それが咳払いをして続ける。


『あー、聞こえて、いますよね? 話を聞きませんか?』

「話を……?」

「わかった。聞いてやるから動くんじゃない」

「大人しくするんだ」


 マツリは幻聴に反応したのだが、警官たちにはマツリが話を聞いてくれと言っているように聞こえたようだ。亀山は無線で何やら通話をしており、神戸は手を伸ばしてマツリを制止しながら足で刃物を踏みつける。


『オメ……あなたは、あー、私のことが見えるはずです。こっちです。声のほうを、しっかり見てください』

「わかった、わかったから……」


 そうは言うものの、声はくぐもっていてどちらから聞こえてきているのか分かりにくかった。ひとまず目を凝らして警官たちの方を見る。しかし二人の視線の強さに目を逸らしてしまう。ノートを胸に押し付けたまま、目だけをタマキの方に向けてみた。暗くて見えにくいが、ベンチから立ち上がって手を胸にやり、こちらを見ている。異常を感じ取ってくれているようだ。それだけのことで涙がこぼれそうだった。謂れのない罪を被る必要はないのだ。ここで負けてはいけないと思い直して警官の方に向き直る。


 鬼がいた。


 触れ合いそうなほど近くにあったのは一面の赤い顔。額の両端から突き出たツノ。乱れて癖のある長髪。大きな口には鋭い牙が生えている。藁の服がガサガサと風に揺れ、黒い腕は見たものをすくませるほど静かに力強い。爛々と光る目が険しい山々のような顔面の奥からマツリを捉えている。脳の奥深くで消えかけていた体験が頭頂部を突き抜けた。


「銃刀法違反の現行犯。いいですね」


 そんな神戸の言葉をマツリの絶叫がかき消した。まるで急ブレーキをかけた電車のような声だった。その声さえも彼女には聞こえていない。ここにいてはいけない。逃げる。ただそれだけが脳を支配していた。雪で濡れた道路を転がるように駆け出した。

 神戸が一歩踏み出したそのとき、亀山が何かに驚いて声をあげた。彼が踏みつけていた刃物が前触れ無く燃え上がり、油のしみたティッシュペーパーが燃え尽きるように一瞬にして姿を消したのだ。


「パーティーグッズ、だったとか?」


 亀山は神戸の安直な推理を聞き流して刃物のあった所を見つめる。地面が濡れていたせいなのか煤さえ残っていない。肩の無線が鳴った。

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