東京神鬼
ひぐちK
ナマハゲ
第1話
しんしんと雪が降る夜のことです。年の瀬をむかえた田舎町は、音が全て雪と闇に吸い込まれてしまったかのように静まりかえっていました。つい、さっきまでは。
「オオオ……オオオ……」
人のものとも獣のものともつかない低い唸り声が家の外から聞こえました。この日5歳の誕生日を迎えたマツリは、祖父母の家でおいしいものを食べ、贈り物をもらい、たくさんの愛に包まれ、年末恒例の歌番組に好きな歌手が出演することを心待ちにしながら、広い畳敷きの居間でごろごろとマイチューブの鑑賞に精を出しているところでした。しかし、その唸り声に耳をくすぐられてしまっては動画に集中できません。上体を起こしてタブレットを置き、耳を澄ませます。
「オオオ……! オオオ……!」
先ほどよりも大きく唸り声が聞こえました。低く、荒々しく、恐ろしげな声です。マツリは息を呑み、這うようにして廊下に面する引き戸に近づき、声の主を確かめようとしました。小さな指が触れる畳からじんわりと冷気が伝わります。
カラカラと遠くの玄関が開く音がして、なにやら話し声が聞こえました。それからみしり、みしりと廊下の床が鳴るたびに、マツリの鼓動もはやく打ちます。座卓でわいわいと酌み交わしている大人たちはこの異変に気づいていないようでした。
そしてついに居間の引き戸がガラリと開かれ、人影がぬっと入ってきました。マツリは膝をついたまま素早く一歩後退します。祖父でした。雪のように真っ白な髪と豊かな土のような色の肌を持つ彼はいつも柔和な顔をマツリに向けてくれます。この時もそうでした。マツリは胸を撫で下ろします。ですが、ほんの一瞬だけ、向けられた視線に不穏なものを感じたのです。
「キダド」
祖父は居間に入ってくるなりそう一言だけ発しました。それを聞いた座卓の面々がにわかに色めき立ちます。母と祖母は聞き慣れない言葉で祖父と言葉を交わし、叔父はマツリのケーキに立っていたものよりも大きなロウソクに火を灯し、父は座卓の上のものを片付け、叔母は台所からお膳を持ってきました。
マツリの鼓動はさらに早くなりました。えもいえぬ不安に掻き立てられた彼女はとても座っていることなどできず、立ち上がって両親の近くに行き、そわそわと落ち着かない様子です。
その時でした。玄関がピシャリと乱暴に開く音がすると、それと同時にさきほどの唸り声がハッキリと聞こえてきたのです。
「オォーオオォ! オォーオオォ!」
どしん、どしんと地面を踏み鳴らす音が幾度も聞こえました。唸り声は止まらず、それどころかどんどん大きくなっていきます。そして床を踏み抜かんばかりの複数の足音がものすごい勢いで近づいてきたのです。それに伴って廊下に面する引き戸が荒々しく叩かれ、唸り声がすぐそこから響いています。そこで室内の照明がパチンと消えました。マツリが反射的に父の腰にしがみついたのと同時に居間の引き戸が壊れんばかりの勢いで開かれました。
「ワリゴハイネガァ!」
「オォーオオォ!」
真冬の鋭く尖った空気とともに唸り声がマツリを襲いました。まるで時間まで凍りついてしまったようでした。ロウソクの火で照らし出されたその声の主は人の形に似ているものの、間違いなく人ではありません。藁のようなもので身体を覆い、巨大な目はぎらぎらと光り、大きな口からは太い牙が覗いています。それは紛れもなく鬼でした。
マツリは声さえ出せず、両親に助けを求めることすらできませんでした。かわりにいつのまにかぼろぼろと涙がこぼれています。2匹の鬼は唸りを上げ続けながら部屋の中をぐるりと見回し、父の後ろに隠れているマツリを見つけました。
「ワラスイダネガ!」片方の鬼がどすどすと近寄って父を押し退け、マツリの体に手をかけました。「ワリワラス! コッチャケ!」
そこから先のマツリの記憶は曖昧なものでした。自分自身が泣き叫ぶ声が大半を占め、視界は常にぼやけていました。マツリを軽々と担ぎ上げて連れ去ろうとする鬼に許しを乞うような両親の声があり、腕には必死に父親にしがみついた感覚が残っています。聞き慣れない言葉でがなりたてる鬼に対して「ごめんなさい」「嘘つきません」「ちゃんとします」というようなことを喉が裂けるほどの声量で訴えかけたことは覚えています。両親にわがままを言って困らせたことや、さっき素手でケーキをすくって食べたこと、動画を見るときはちゃんと座って見るようにと言われていたのにごろごろしながら見ていたことなどが走馬灯のように頭の中を駆け巡っていました。
そして気がつけば年が明けており、鬼はおらず、座卓にはおせちが並び、清々しい朝日が満ちる畳敷きの居間で何事もなかったかのように餅をいくつ食べるか聞かれたのでした。
「3つ」
きっと両親や祖父母たちが鬼を追い払ってくれたのだと直感します。深い感謝とともに指を三本立てました。その手首には細く編みこまれた藁の組み紐が結ばれていました。
「はぁ……はぁ……ん……はぁ……」
建造物の隙間を埋めるような小さな公園に若い女の荒い吐息が染み込んでいく。小柄でやや肉付きのいい体が弾み、白い肌が紅潮し、吹き出す汗を飛び散らせている。今年は師走に入ると東京でも随分と冷え込みが厳しくなり、日が傾く頃には雪までちらつきはじめていた。そのため女の体からは白い湯気が上がっているのが見える。
「いい感じよタマキ」
「そんな……マツリちゃん……私もう……」
「早すぎるって。もうちょっと我慢なさいな」
マツリは細い足を組んでベンチに腰掛け、三脚に備え付けたハンディカムのディスプレイに目をやりながらタマキをあしらった。そのタマキはといえば息遣いはより一層荒くなり、髪は汗でぺったりと額にくっついてしまっている。ステップを踏む足取りは鈍くなり、ついにその場にへたりこんでしまった。
「むりー!」
「ちょっとぉ、タマキが踊ってないとアタシが撮影してる口実が無くなるじゃない」
「マツリちゃんが踊れば……はぁ……いいじゃん! 私がそれ見てるから!」
「アタシのネタなんだからアタシが見てるべきでしょ」
「詭弁だー!」
マツリが見ているハンディカムにタマキの姿は映っておらず、かわりに近くのマンションの出入り口がクローズアップされていた。その映像から少しだけ目を切り、ビニール袋から水のペットボトルをつまみ上げてエネルギー切れのタマキの元へ向かった。
「ありがと」タマキは水を受け取り、ジャージのジッパーを開いた「今日はうまくいきそう?」
「どうだかねぇ……」
「やっぱり……はぁ……気が乗らない?」タマキは息も絶え絶えだ。
「そりゃそうでしょ。コタツ記事量産したりゴシップ書いたりがしたくて記者になったんじゃないんだから」
ダウンジャケットのポケットに左手を突っ込み、細い眉を寄せたマツリはタマキに手を貸して立たせてやった。その様子を見てタマキがくすくすと笑う。
「今日は一段と……不機嫌そうだねぇ」
「クソ寒いからよ! でも今回は準備万全だし!」
二人でベンチに腰掛け、ハンディカムを指差す。
「見て。入り口がバッチリ。これが撮れるって気づいた時はこのショボい公園が一等地に思えたわよ」
「ほんとだ……ギリギリ見えてる。でももっと寄りの絵も……欲しいんじゃない?」
「それはほら、知らないの?」マツリは公園の入り口近くに停めた社用車の軽自動車を指さした「車載カメラがついてるじゃない。いい時代よね、どこにでも合法的に監視カメラを設置できるようなものだもの」
「合法っていうか、そもそも違法駐車でしょ」
「うっさいなぁ。取り締まられなきゃ違法じゃないのよ」
そんなんだからマトモな仕事が回ってこないんじゃない? という指摘をしてヘソを曲げられても面倒なので、何も聞かなかったことにして体を休めることに集中し、水を一口飲んで話題を変えた。
「でもほんとにこんなマンションに住んでるのかなぁ。あの
「ちょっと売れたからってすぐにタワマンに住めるわけでもないでしょ。この辺は人通りも少ないし、丁度いいんじゃない?」
タマキが言っているのは今回のターゲット、宇枝ジュンのことだ。以前はマイチューブの動画配信くらいでしか見ることが無かったアイドル歌手だが、春に発表した新曲が大バズり。そこから露出が増え始め、今では声優やミュージカルにも活動の幅を広げている。
「もうちょっといいとこ住めばいいのに。夢がないなぁ」
「十分いいマンションでしょうが。こんなネタ追っかけてるうちは絶対住めないっての」
吐き捨てるように言って両手をダウンに突っ込み、細い脚を組み替えて背もたれに体を放り出した。
「マツリちゃんが追っかけたいことってなんなの?」
「アタシ? 何でもいいのよ。今なら何だってあるでしょ。変死事件が何件もあったのにどれも真相が公表されないこと。オリンピックにかこつけて運用を始めたオニ部隊のこと」
「特別監視機動隊ね」
「もうオニ部隊としか呼ばれてないでしょ。あれの運用なんか怪しさの塊よ。かなり臭うわ」
「あ、そうだ」タマキは臭うというワードに引っかかった「鼻はもう大丈夫なの? 変な臭いがするって言ってたやつ」
「え? うーん……」立てた拳を鼻柱に当てる「異常は無いって言われたんだけど、ずっとしてるんだよね。ストレスじゃないかって。臭いも強くなったり弱くなったりだけど、まぁ問題ないわ」
「そっか……」
タマキは肩と視線を落とした。マツリが「だいじょぶだって」と声をかけても完全には納得できない様子だったが、ひとまず飲み込んだという態度を見せた。
「とにかくさ、早いとこ偉くならないとそういう取材はやらせてもらえないワケ。だから絶対この仕事は決めてやるわ」
「うーん、それじゃあ、あれは? 怪現象のやつ」
「はぁ?」マツリの眉間が盛り上がる「あんなの全部フェイクに決まってるでしょ。そんなオカルトモドキなんかゴシップ以上に興味ないわ」
タマキが言っているのは動画配信サイトで大いにバズっている、文字通りの不思議な現象が映った動画のことだ。人が突然消えたり、現れたり、吹き飛んだり、そういった様子が映り込んでいる動画が同時多発的に投稿されたことで不気味だと一部で話題になっていた。
「フェイクなのは分かってるよ。そうじゃなくって、その仕掛け人とかを追ってみればっていう意味で言ったんだけど。会社の人も誰も追ってないんだし」タマキがにんまりと笑う「まさか、怖いの?」
「ば! そんなワケないでしょ!」タマキの豊かな頬を両手でぶにっと潰した「オカルトなんか信じてないし!」
「ほんとかなぁー?」
「アンタあったかいわね」
「でしょー。あんだけ踊ったしねー」
マツリが冷えた指先を入念に温めていると、タマキがマツリの背後を指さした。
「ねぇマツリちゃん、なんか警察来てない?」
「え?」
振り向くと社用車の近くに二人の警官が近寄ってきていた。跳ねるようにマツリが立ち上がる。
「ちょっと! ヤバいって!」
「取り締まられたらしっかり違法だねぇ」
「うっ……」
「まぁマツリちゃんのネタだからねー、マツリちゃんが行くべきじゃない? 私踊りすぎて疲れちゃった」
「くっそー! 次からは手品にする!」
そういってタマキに背を向け駆け出そうとしたマツリは何かを聞いた。何枚ものアクリル板を挟んでいるかのようにくぐもった声だった。
『キゲルガ? キゲルベシャ』
ぱっと振り向く。タマキはペットボトルを咥えていた。
「タマキ、なんか言った?」
「んーん。なにも」水を飲み込みながら不思議そうに答える。
「そう」
ついに幻聴まで聞こえ出したの? ほんとにストレスなのかも。と、少しだけ自分の症状と向き合う気になったが、今はそれどころではないと思い直す。すみませーんと連呼しながら駆け出したマツリの背中を見守りながら、タマキはまた水を一口含み、ゆったりと頬を緩めて息を吐いた。
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