第59話 閑話:ユリアーナ


 ケアナ城、城主の私室。

 ユリアーナ・ヴェルデンは着替えもせず、ベッドへ座ったまま呆けていた。


「お嬢様。朝食の用意が整いました」

「――――」

「また召し上がらないのですか?」

「――――」

「失礼」


 アメリーが彼女の顎を持ち上げ、半開きの口にスープを流し込んでいく。ユリアーナは特に抵抗するでもなく飲み干し、そのまま放心を再開した。


 あの日。ガルドレードの宴に参加した日。

 彼女はそのまま気絶して、気づいたらケアナ城のベッドで寝ていた。


 飲み過ぎたのだろうか?

 何かとても嫌なことがあったような。


「記憶を改竄してますね?」

「――――」

「落ち着いて聞いてください。お嬢様、あなたはエスト卿にフラれました」

「ああああああ!」


 ユリアーナは頭を抱えた。

 都合よく忘却しようとしていた記憶が盛大に蘇ってきた。


 気を失いかけて横になり、死んだように動かなくなる。じわりと浮かんできた涙も拭わずに感情の荒波へ流されているうち、あることに思い至った。


『君となら、手を携えてそういう人生が歩めるんじゃないかって』

『でも、派手に断られて目が覚めた』

『かつて愛した人』


『ジネットに対して好きとか愛とか、そういうのを考えたことはなかったから』


「あれ」


 ジネットへの愛。

 それは彼女が告白した後に生まれたもの。


 つまり、最初に愛されていたのは、他ならぬ自分だったという事実。


「あうあう、あわわわわ」


 3年前、どうして素直に求婚を受けなかったのか?

 今さらながら、ユリアーナは激しく後悔する。


「ア、アメリー!」

「何です?」

「時間! 時間の針を巻き戻す方法は!?」

「それは古今東西、世界の誰もが知りたいでしょうね」


 肩をすくめるアメリー。


「でも残念。過ぎた時間は二度と戻りませんよ」

「何千年も、何億人もが探してるのでしょう? ひとりくらい見つけといてくれてもいいじゃないですか!」

「仮に誰かが見つけたとして、伝える術もないでしょう。過去に戻っているならば」


 ユリアーナは目に見えて気落ちした。

 また天蓋を眺めながら呆けていく。


 ここ数日は部屋に引きこもりっぱなしで、今のように急に話したと思ったら、ぬぼーっと現実逃避する作業の繰り返しだった。


 新人メイドたちはうろたえっぱなし。

 しかし、アメリーは慣れたもの。


 ケアナの白鷲が死にかけの鳩みたいになるのは初めてではない。3年前はほとんど眠らず付きっ切りで看病した彼女も、今回はそこまで心配していない。


 とはいえ、何カ月も寝たきりでは困る。前回の冬眠明け、鈍った肉体を全盛へ戻すのには半年もかかっている。


 ちょいとキツめの説得が必要だ。


「リアナ」


 アメリーは主君を名前で呼ぶ。

 家臣ではなく、幼馴染のお姉さんとして接するときのサインだ。


「誰かが元の場所で自分を待ってくれている、なんて期待を抱くのは傲慢よ」


「――――」 


「害虫卿の視点に立ってみなさいな。真意がどうあれ、拒絶したと受け取られる行動をしたのは誰かしら? あなたでしょうに」


「うっ」


「最初の求婚を断った。ジネットの件でも突き放した。二度も避けておきながら自分を気にかけてほしいだなんて、他人が同じことを言ってきたらどう思います?」


 ユリアーナは顔を背けてぶーたれた。


「以前は距離を取れと」


「その案は自分で却下したでしょう」


「でもでも、だって……」


「論点を逸らさないの。けど、そうね。あれは私も見誤った。申し訳ございません。だから謝罪の意を込めて助言する」


「何ですか」


 ふくれっ面になるユリアーナ。

 アメリーは、指でつついて空気を抜いた。


「ジネットを呼び戻してください」

「なんのために」

「エスト卿の愛人へ推薦するために」

「……ッ!?」


 空気が凍りつく。

 代わりにどす黒い何かが渦巻こうとした。

 が、アメリーの手刀が炸裂して霧散する。


「あだっ!」


「いいこと? 庶子が未来の領主から愛されようなどと夢を見てはいけない。最善は諦めることよ」


「嫌です」


「ならば工夫が必要になる。わかるわよね?」


「工夫って?」


「自分でもとんでもないことを言ってる自覚はあるけど……あの方を狙うのであれば、正妻の座は諦め、いっそ他の愛人をどれだけでも認めてしまいなさいな」


「それはどういう意味――!」


 振り向くユリアーナの頬に人差し指が刺さった。


「あなたは正妻になれない。……なる必要もない。由緒正しき貴族の正妻というのは、あまり幸せな人生を送りませんから。ガルドレードの伯爵夫人が良い例です」


「私は違います。あの方を不幸にしているのは、あの方自身ですよ」


 彼女は怒りと屈辱で手をブルブルと震わせた。

 従者はその手を包み込むように握る。


「貴族たるもの感情を抑えるの。3年前と今では状況が違いすぎる。何よりエスト卿の価値がまるで違う。諸侯や野心家が利益を引き出そうとつけ狙う立場だってこと、王都で思い知ったはず」


「むむむ……」


「つまり、諦めないなら他の選択肢と争わねばなりません。政治的な人脈、重い価値のある血筋、莫大な封土に、使いきれない財宝などとね」


 ユリアーナには反論できなかった。

 エストは、かのブフロム旧王家とさえ知り合いなのだ。


「あなたは庶子。一族と認められていても、正式な貴族と扱われても、生まれそのものは覆りません。母親は端女で、お父上と大奥様の血筋も大したものではなく、あくまでもヴェルデン家の付属物にすぎない。私たちにとっては最高の主君ですが、他人からすれば多少の名声と城をひとつ持っているだけです」


 アメリーは主君のコンプレックスをグサグサと突き刺していく。耳を塞ごうとする手を封じ、自らもベッドへ半分腰かけた。


「これからどんどん肥大化していく閣下の価値に対して、あなたは何を差し出せます? その対価には、並みいる強敵と渡り合えるほどの魅力がありますか?」


「容姿なら私だって」


「ええ。あなたは美しい。他の方々も美しい。それも飛び抜けた美女でしょうねえ。皆が持っている個性では武器になりません」


「…………」


 ユリアーナは押し黙った。


 世の中には、マリエールやエルマリアのように一目で勝ちようがないとわかる超絶美人もいる。それに比肩する者たちと戦うには、己の武器はいささか心もとない。


 ヴェルデンで一番とは名乗れるはず。

 アルヴァラで一番とは言えない。


 自国ですらこの有様なのに、諸国を相手にしたらどうなるのだろうか?


 それにアメリーの話は荒唐無稽ではない。

 現に伯爵夫人――従叔母に当たるエリーカは他国の名家出身だ。


 頭と心は腐っていても、血筋と容姿だけなら諸国でも指折りの女性がヴェルデン伯爵家へ嫁いできた身近な例。息子が同じ道を辿る展開は大いにありえた。


 アメリーはユリアーナの背中をさする。


「エスト卿の祖父ロイク様は諸国に知られた英雄。母方の血筋は枢機卿を輩出したヘーリグ聖なる・ヴィトクラマ家。本人の評判はともかく、有力領主の後継で、魔族討伐の実績まであります。ここまで揃えばいずこかの王家だって懐柔を考えます。放置しておくはずがありません。まともなやり方で戦いになりますか?」


「ならない、です」


「それが現実。けどね、同じ条件を課された集団の中で優位を争うなら、話は別」


「……?」


 疑問符が宙に舞った。


「戦で劣勢のときはどうします」

「援軍を、呼びます」

「そう。ひとりでは負ける戦いも、女の数を増やせば勝負になるかも。昔、旅の詩人が披露した歌を覚えてるでしょ?」

「どれのことです」

「ハーレムの女主人」

「あー……」


 ぼんやりとした記憶が脳内を走る。


 言われてみればそんな話もあった。ユリアーナの印象には、女を取り合う男たちの決闘シーンしか残っていなかったが。


 本筋は……異教の君主に売られた女奴隷が策謀を駆使してお手つきとなり、並みいる高貴な妃たちを押しのけ、実質的な皇后として女の園に君臨する話だったはず。


「お飾りの椅子ではなく、実権を掴んだ者が勝つ」


 アメリーは主の白い髪を指で梳きながら続ける。


 「ジネットは決してリアナを裏切らない。あの子があなたを差し置いて風上に立つなどありえない。しかも、あなたの敵とは必ず戦います」


「そうでしょうか?」


「心配無用。リアナはあの子を放逐してない。裁定を聞く前に勝手に出てったのよ。赦しを与えれば生涯を捧げに帰ってくる。おわかり?」


 コクコク。

 ユリアーナもその点は理解できた。


 なんだかんだでジネットに寄せる信用と愛着はとても大きい。決裂してなお、自分が頼めば絶対に戻ってくるだけの確信を持てる。


 アメリーは考える暇を与えず、催眠術師のように耳元でささやく。


「人々を取り込み、味方につけて、影の頂点に立つの。そのためにも、リアナに忠実な愛人は多ければ多いほうがいい。敵対者が戦えないほど大きな勢力を持てば、おのずと他人はあなたを尊重して立てるしかなくなる」


「…………」


「求めるものが愛ならば、愛への道を探さなきゃ。嫌われる正妻よりも、最愛の人になってしまいなさい。それとも、意地を張って愛すら得られない結末をお望み?」


 白百合の乙女はふるふると首を横に振った。

 その表情は、幼女が母にすがるかのようだ。


 彼女は得意分野にはめっぽう強いが、苦手分野を知恵で補う方向の能力には欠けている。祖母が育てた通りに育った娘であり、悪だくみなどは幼い頃からこの幼馴染に任せっきりだった。


 幼馴染の主張が正しいかはよくわからない。だが、決して自分を裏切らないこと、不利益になるような真似をしないことだけは知っている。


 アメリーは微笑みながらうなずいた。


「これを握って」


 右手に握らされたのは金貨と宝石。

 ホロール城から持ち出してきた財貨の一部。


 その上から鍵束が落とされる。

 ユリアーナにとっては大切な宝物だ。


 思わず掴もうとするが……。

 手のひらの内は容量がいっぱいで、空しくこぼれ落ちてしまった。


「あなたが本当に欲しいのはどれかしら?」


 アメリーが鍵束を拾う。


「世間にとって価値あるもの? 自分にとって大切なもの?」


 ユリアーナはそれを左手で受け取る。


「エスト卿の愛を望むならこだわりを捨てることです。そう、高塔城の戦でクルマル家のセドリック殿がおっしゃっていたように」


「捨てる勇気、でしたっけ」


「もちろん諦める道もあります。私としてはそちらを強くお勧めするけど……どんな選択をしようとも、必ずリアナを支えるからね」


 アメリーはユリアーナを優しく抱きしめた。


 「それでは」


 彼女が部屋から退出していく。

 ユリアーナはしばらくぼけっとしていたが、不意にベッドから起き上がった。


 部屋の中心に立ち、右手をゆっくり傾け、握っていたものをすべて床へ落とす。


 何もない手のひらをじっと見つめた。



『かつて愛した人』

『かつて愛した人』

『かつて愛した人』

『かつて愛した人』

『かつて愛した人』

『かつて愛した人』



 その瞬間、彼女の中で点と線が繋がった。


 かつての己はエストへ“強くなれ”と言った。

 するとどうだ? エストは実際に強くなった。

 3年をかけ、強くなって戻ってきた。


 一方の自分は?


 大して成長したとは言えない。

 足踏みはしていないが、エストが遂げた大成長とは比べるべくもない。


 率直に評して、生ぬるい日々を送っていた。

 その結果、彼は己に価値を見出さなくなった。


 当然だ。


 彼は必死で頑張ってきたのに。

 手段を選ばぬ戦いをしているのに。

 努力を求めた張本人がこんな体たらくでは。


 失望もするというものだ。


 選ぶ側のつもりで停滞気味だった3年間。

 何様だというのか?


 自分も強くなるべきだった!

 横に立つ資格を勝ち取らねばいけなかった!


 自分だけ綺麗なままでいたがる卑怯者に、いったい誰が背中を預けたいだろうか?


『ヴェルデン家のために』


 ヴェルデン家。

 ヴェルデン家……?


「そう、そういうことでしたか」


 彼女は何かを悟る。

 もしくは、曲解する。


『次の相手はヴェルデン家と領内にとって最も得になる相手を探す』

『私は選択肢ではないと?』

『そうだ』


の私が、選択肢ではないのですね……!」


 そうだ。

 そうとも。


 エストは家と領内にとって得になる相手と言った。よその家から、とは一言も述べていなかった。


 なぜ、わざわざ迂遠な言い方を?


 それに何よりも。


「かつて愛した人」


 諦めさせるつもりなら、最後の最後にこんな余計な言葉を残していく意味がない。

 エストはユリアーナに、本気で諦めさせようとはしていなかった……?


 それはつまり、今の立場で可能な最大限の方法で、遠回しに本音を伝えたのでは?


 ヴェルデン家の次期当主としての回答。

 その裏に、エスト個人の激励を添えている。


「そうですよ。そうに違いありません……!」


 回りくどい手段を好む、あの従弟のことだから。



 強くなれ。

 もっと強くなって価値を示せ。


 そうすれば……。


 きっとまた振り向いてもらえる!


「本当に欲しいもの以外、すべてを捨てる勇気」


 ユリアーナは指先で鍵束を撫で、空いた右手で深く握りしめた。皮が破れて血が流ても構わず、床に散らばった財宝を蹴飛ばして机のほうへ。


 左手で剣を抜き放ち、顔が映るほど磨かれた剣身をじっと見つめる。


「待っていてください、エスト殿。私、必ずあなたと釣り合う女になってみせます」


 その日。

 ひとつの望みが絶たれ、生まれた日。


 ユリアーナの紫瞳からハイライトが消えた。

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