第8話 彼らの婚約者NTR事件


 怨恨はすべてに優先する。


 人間は己の完全性を尊重したい生き物であり、それを棄損された際に生まれる感情だけは、なかなか制御しがたいものだ。どんな賢人であってもだ。


 ひとたび憎しみを抱え込めば、いかなる利益やリスクを提示されても顧みず、ただひたすらに怨敵の苦しみを望むようになる。


 前世でも似たような話はいくつか目の当たりにした。


 恥をかかされた人。

 不当な苦しみを与えられた人。

 心の中の巨悪を他者に投影する人。

 

 そして、得られるはずと思い込んでいた何かを得られなかった人々。



「止まれ。何者だ!」


 門番たちが槍を交差させて誰何する。

 俺は小さな湖畔に佇む居館を見上げながら名乗った。


「ヴェルデン家のエストだ。城主のシモンと面会しにきた」

「エスト卿だって?」

「本物か?」

「それは貴様らの主君が知っている。早く取り次がなければ一生後悔するぞ」

「しばらくお待ちください」


 年かさの男が頭を下げ、柵門の奥へと消えていった。


 目の前の経年が目立つ館はシモネス教会城。湖畔教会城とも呼ばれている。近隣を抑える騎士の一族、シャガール家が日常生活に用いる建物だ。


 名前の通り、元は教会だった。

 廃教会となっていたのをシャガール家の先祖が修繕したのだが、立地が便利だったため、代を重ねるうちに祈りの場から支配拠点に置き換えていったのだ。


 ただし守りはすこぶる弱い。


 シャガール家は戦になるとシモネス教会城を放棄して、デリーレケスカ城、通称・滝ノ裏城にこもる。遠からぬ場所にある峡谷の滝を盾にした堅城だ。


 前回攻められたときもそのように行動し、ギリギリで生き延びたそうな。教会城の防衛塔は一部が崩れており、壁には放火の爪痕が残っている。


 そのというのが作戦の肝だ。


 年かさの門番が戻ってくる。


「申し訳ありません。我が主君は病気のため、本日はお会いできないとのことです」

「わかった。今後のために事実をはっきりさせておくが、俺はシャガール家に配慮し、シモンはそれを断った。マルク・リブランは我が手で討ち取るとしよう」


 俺がある男の名を出すと、門番の表情が激変した。


「お、お待ちください! もう一度我が主君に取り次いできます!」

「あいにく忙しい身でな。用は済んだので帰らせてもらう」


 ではな、と告げて背を向ける。

 門番が全力ダッシュで館の中へ消える音を聞きながら。


 護衛たちとゆっくり馬を歩かせていると、こちらを呼び止める大声が響いた。


「待たれよーーー! エスト卿! どうか、どうかお待ちになっていただきたい!」


 一瞬だけ振り返る。


 男がなりふり構わない必死さで馬を駆っていた。無視して進むと、追い抜いた男が馬を乗り捨て、道を塞ぐように片膝を突いた。


「エスト卿、ぜひとも我が館へお越しください!」

「お、お前……本当にシモンか……!?」

「ええ、ええ、偽りなくシャガール家のシモンでございます」


 最後にシモンと面会したのはエストが5歳のとき。

 年始の祝宴で挨拶されたのを体が覚えている。


 当時は明朗な好青年といった印象だったはずだが、今年で32歳になる彼は、にわかには信じられないほど様変わりしていた。

 

 眉間に深い皺が刻まれ、顔はむくみ、眼球には慢性的な充血が見受けられ、目の下はどす黒く、くっきりと隈が浮かんでいる。暗い茶髪は無造作に伸ばして頭の後ろで縛り、顎ひげは乱雑に伸び放題。もみあげと合体してドワーフじみている。


 ぱっと見で酒に依存しているのがわかった。


 馬に乗れる以上は戦いもこなせるのだろうが……いかんせん不健康な印象が強い。彼は夜道で見かけたら幽鬼と勘違いしそうな雰囲気を放っている。


「病気だと聞いていたが」

「我が病の源をご存じでしょう。用件を聞いて体が起き上がりました」

「……いや、その、皮肉抜きで言うが、具合が悪いのなら寝てても大丈夫だぞ?」

「リブラン家を前にして寝てなどいられません! さあ、こちらへ」


 素直に怖い。めちゃくちゃ怖い。

 怖いというかヤバい。

 断ったら何をされるか読めないような恐ろしさがある。


「わかった。わかったから少し落ち着け」


 シモンのオーラに気圧されるようにしてシモネス教会城へとお邪魔する。


 廊下を歩いていて思うが、この城はとにかく暗い。物理的にも寒々しいが、仕える者たちの雰囲気や表情がとにかく陰鬱なのだ。


 まるでこの世の恨みつらみが形になって表れたかのよう。


 広間に案内されるなり、にじり寄ってきたシモンが俺の右手を両手でがっちり握ってきた。


「卑劣なマルクを殺すというのは事実ですか?」

「あ、ああ。ケアナの白鷲にリブラン城を包囲させている最中だ」

「我がシャガール家をぜひとも戦列に加えていただきたい。味方を募っているのでしょう? 何でもします。何でも命じてください。ですからどうか、あの男の身柄はこの手に委ねていただきたい!」

「それは無理だな」

「なぜだああああッッッ!?」


 こ、こええぇぇぇ!

 正常な人間の目つきじゃないんだが!

 あと唾がすっごい飛んでくる。


「俺は加勢を頼みにきたのではない。後のしこりとならないよう、誰がリブラン城を攻めるかの調整にきただけだ。そして誰が陥落させてもマルクを含めたリブラン一族は残らずその場で斬首しなければ…………ま、待て、落ち着け。手が痛い、おい、誰か!」


 シャガール家の騎士たちが4人がかりでシモンを引き離す。シモンはしばらく鼻息も荒いままにこちらを睨んでいたが、やがて嗚咽交じりに泣き始めた。


「そんな、そんな残酷な……! 私がやつらのせいでどれだけ苦しんだかはご存じでしょう? 塔の底に押し込め、この世のすべての苦しみを与えながら、何十年もかけてゆっくりと朽ちさせなければ納得できません!」


「気持ちはわかるが――」


 シモンの顔つきが鬼のようになる。


「ヴェルデン家の者に何がわかる!? わかるものか! わかってたまるかよッ! やつの非道を裁かなかったお前らなんかにッッッ!」


 彼は天井を仰いで吠える。

 情緒さん! 情緒さんが行方不明だ!

 戻ってきて! お願いだから!


 彼はなぜこうも不安定なのか?

 そこには悲しき過去が絡んでいる。


 シモン・シャガール。

 彼はリブラン城伯のマルク・リブランによって幼馴染の婚約者を強奪された男だ。


 相手の乙女とは相思相愛の仲だったそうだが、19歳のとき、つまり俺と面会したその年に、横恋慕したマルクが乙女を誘拐して強姦に及び、そのまま妻にしてしまったらしい。


 ちなみに先日殺したボルダンも事件に関わっている。彼は彼で別の家の娘を捕らえて奴隷にしたうえ、むちゃくちゃに扱って数ヶ月で死なせたとか。


 シモンにとって最悪だったのは、リブラン家の盟友がラノア家だったこと。


 シャガール家や誘拐された娘たちの実家はマルクを告発した。しかし、領主のヴェルデン家から気に入られているガストンが強固に弁護したこともあり、無罪判決が下ったのだ。


 その勝利を確たるものにするため、ガストンは手下を使ってシモンの悪評を捏造し、領内のあちこちへ流しまくった。


 さらに最悪だったのは、常日頃から愛を誓っていたはずの乙女がマルクとけっこう仲睦まじい夫婦になってしまったこと。シモンが嘲笑されていると聞いて心変わりしたのだ。


 婚約者の実家は現実を受け入れてガストンにすり寄った。ボルダンに奪われた娘の実家はとてもかなわないと判断し、泣き寝入りを決めた。


 発狂した彼だけは諦めずにリブラン家への報復を試みたが、徒党を組んだ相手にかなわず、逆に攻め込まれてかなりの損害を被ったのだった。


 それから13年。

 彼らは領内での交流を拒絶中。

 ずーっとテリトリーに引きこもっている。


 あまりに気配がしないため、皆が存在を忘れていた。

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