08:ゴサン
イムリは踵を返し、上司のゲンレを探した。
『イムリ、急にどうしたんだニャ?』
ニャプラーが慌ててその後を追う。果たしてゲンレは、すでに自分の役割は終わったとばかりに指揮所の端で居眠りをしていた。イムリはそんなゲンレを容赦なく叩き起こした。
「はいはいっ、なんぞ御用でしょうか?! ......なんだ、イムリくんじゃないか」
「ゲンレ、一緒に来て」
ゲンレを連行したイムリは、そのまま指揮所の奥に歩みを進めてジッケロイとアジィへの面会を所望した。二人は和やかな雰囲気でモニタリングの数値を検証していたが、只ならぬイムリの様子に眉を
「──生成油の成分が
単刀直入に切り出したイムリは、立体仮想ディスプレイに環境局の分析データを広げて、その場の人々へ示した。
「どういうことです? むしろ願ったり叶ったりだと思うのですが......」
アジィの疑問はもっともだ。だがイムリは首を横に振った。
「そこに違和感があるんだ。《重力変位による生成油降雨》本来の発生メカニズムと、データの事象が合致しない。──ニャプラー、もう一度重油雨について簡単に説明して?」
『ほいニャ! 重油雨は大気中の油成分が局地的な重力偏位を受けて凝結し、生成油の雨雲になる気象現象だニャ』
「重油雨が発生する環境の条件は?」
『次の三つだニャ。油の液体微粒子が大気中に多量に存在すること。極性がなく分子結合が弱い油分を無理やり凝結させる重力変位が存在すること。最後に、凝結の核となる固体微粒子が存在することだニャ!』
「そう、これが重油雨の本来の発生メカニズム。だから重油雨には凝結の核になる固体微粒子、つまり重金属塵が必ず混入する。そしてこの重金属が不純物になるから、生成油の純度は一定程度低く留まる。でもこのデータを見ると今回の重油雨はほぼ純粋な液体油分なんだ。……すなわち、核となる重金属塵をほとんど含んでないってことになる」
「──雲の成り立ちが定説と違う可能性がある、ということか?」
ジッケロイが核心を突いた。今度はイムリは首を縦に振った。
「ジッケロイさん鋭い。わたしも同意見です。この異常軌象はなにか特異な性質を持っている気がする。……もしそうなら、当初の降雨予測は当てにできない。早急に警戒レベルを上げるべき」
イムリが自身の仮説を述べ終わったその時、指揮所に甲高い入電音が響いた。中央の大型立体スクリーンに浮かび上がったのは、コリノの姿だった。開口一番コリノは不機嫌を顕わに叫んだ。
『ちょっと、雨足が強すぎて作業継続どころじゃないんだけど何事?! 聴いてた話と全然違うじゃない!』
「どうした
『どうしたもこうしたもないわよ! 突風と土砂降りの油で足場がしっちゃかめっちゃか、これ以上回収機構を支えるのは不可能よ。でもなにより一番激ヤバなのは雨の油質よ。──この生成油、
この現場報告に指揮所の空気が凍り付いた。それはまさしくイムリの仮説を裏付けるものだったからだ。だがこれはまだ異変の序の口に過ぎなかった。
深刻な状況が立て続けに発生した。重油雨の降り出しから一〇時間程が経過したところで、すでに都市内の資源貯蔵タンクは九〇パーセントまで注入が進んでいた。……いや、進んでしまっていたという表現が適切だろう。その原因は、事前想定を遥かに超えた雨足の強さのためだった。
「大量の生成油が凄まじい勢いで資源貯蔵タンクへ流れ込んでいます。注入量がコントロールできません。タンクの容量はパンク寸前です──っ!」
建設局のオペレーターが悲鳴のような声で報告した。都市内では、資源貯蔵タンクの底が不気味な軋みを上げ、頑丈なはずの配管があちこち不安定に蠕動していた。
「いかん、回収機構のバルブを緊急閉鎖しろ!」
ジッケロイが通信回線へ叫んだ。
すぐさま大型ポンプが稼働を停止し、三基の重油雨回収機構の根元のバルブが緊急閉鎖された。同時に耐油布の傘が生成油を強制排出しながら縮み、巨大な花弁がしなびるように、回収機構は順番に機能を失った。
しかし最後の重油雨回収機構・第参柱のみが、予期せぬ不具合から、バルブ閉鎖を完全に行うことができなかった。依然凄まじい勢いで流れ込む大量の生成油は、中途半端に閉じた弁を圧破壊した。連鎖的に、油圧の限界を超えたパイプが内部から膨張を繰り返し、ついにその継ぎ目から圧壊した。
猛烈な勢いで噴出した生成油は、まず導管の損傷個所直下に位置する第弐〇立体区画全体に汚染被害をもたらした。更に資源貯蔵タンクから配管への逆流によって、タンクの元栓が閉鎖されるまでの数分間で、複数の都市機能にダメージを与えた。
都市内部の混乱を顧みる間もなく、超八面建造体斜面の作戦現場では最悪の事故が発生した。不完全な機能停止を余儀なくされた重油雨回収機構 ・第参柱が、受け傘部分に溜まり続けた生成油を処理することができずに、自重で崩壊したのである。
轟音を立てて崩れ落ちた 第参柱によって人的被害が出なかったのは、部隊の指揮官であるコリノが予め現場から人員を退避させていたおかげだった。
バルブの緊急閉鎖が失敗した瞬間、コリノは間髪入れずに重油雨回収機構・第参柱の放棄を命じた。そして退避のための時間を稼ぐべく、支持柱を懸架したままの体勢にガタヨロイを固定した上で、部下たちを機体から離脱させたのである。結果、三〇機あまりのガタヨロイが回収機構の残骸に巻き込まれて鉄屑と化したが、その操縦者たちは油まみれになりつつも一命をとりとめた。
『これでよし……。あとは、──せいっ!』
部下たちが最後の一人まで安全な都市の隔壁内部へ撤退し終えたのを確認したコリノは、自ら残した最後の仕事を片付けた。すなわち重油雨回収機構・第壱柱と第弐柱を先んじて破壊し、続けて懸念された二基の崩壊を最小限に防いだのだ。
コリノの駆るガタヨロイによって、花弁の根元にあたる部分から分断された二基の重油雨回収機構は、手折られた花が吹き飛ぶように、突風に揉まれながら超八面建造体の斜面を滑り落ちていった。
『……作戦を中断する。全ての隔壁を閉鎖点検し、警戒態勢を密に取れ』
これをもって、ブラックロータス作戦は完遂を待たずして中断した。成果として都市が得たのは向こう一年分に相当する量の燃料資源だ。しかし同時に、失った代償も多かった……。移動都市ヘルニコグは、改めて徹底的な籠城によって重油雨の豪雨をやり過ごす方向へ舵を切り直した。
そして降り始めから二〇時間後、当初イムリが予測した雨上がりの刻限となった。
しかし都市は未だに降雨範囲の中心から抜け出せていなかった。重油雨の雨足は衰えるところを知らず、むしろどんどん強くなっていく。その瞬間的な降雨量は一時間あたり二〇〇ミリにも相当した。生成油の強い刺激臭が充満し、隔壁によって守られているはずの都市内部で大気汚染警報が発令された。
かくして移動都市ヘルニコグは、完全に重油雨の黒い帳の中に囚われてしまった。
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