02:キショウヨホウシツ

 移動都市ヘルニコグの第〇八立体区画には、都市のインフラ設備・システムを管理する《いつつぼし統轄局・環境局》が居を構えている。都市の複数階層にまたがるこの塔のような巨大な建築の端の端の隅の倉庫に、手書きで《キショウ予報ヨホウシツ》と書かれた小さなプレートを掲げる、薄汚れた小部屋があった。


 イムリとニャプラ-がその部屋の自動扉を潜ろうとした瞬間、扉が内側から勢い良く開錠され、若い女性が揉み手をしながら現れた。艶のない長髪を低いポニーテールにひっつめた、いわゆる三白眼で目つきの悪い女だ。


「いやあ待っていたよぉイムリくん、本日もお勤めご苦労様でございますぅ!」


「うわっ」


 それはイムリの上司、環境局かんきょうきょく軌象予報きしょうよほう室長しつちょう 《ゲンレ》だった。ゲンレは突然の登場に半ば硬直しているイムリをむんずと捕まえ、ささどうぞと部屋の中に引っ張り込んだ。


 小さな部屋の中には、使い古された備品と最低限の机、椅子、そして最も奥にはゲンレが普段から陣取っている上等なデスクが所狭しと詰め込まれている。そんな部屋の中央のテーブルには、イムリの好物である栄養補給飲料と、簡易食料のキューブがすでに用意してあった。


「ささささ、お疲れでしょう。まずはゆっくりしてもろて......」


『ゲンレ、にゃーにも何かないのかだニャ?』


「隅っこで電気食ってろ!」


『なんだとニャ?!』


 後からゴトゴト入室してきたニャプラーが待遇の差に怒りの声を上げたが、ゲンレは聞いちゃいない。満面の愛想笑いでイムリを椅子に座らせ、食料を給仕しながら甲斐甲斐しく肩口の駆動系アクチュエーターを手入れまでし始めた。勧められるままイムリが一服つけて寛いだところへ、ゲンレは斜め後ろからにじり寄った。


「それでイムリくん、いやイムリさん、いやいやイムリ様っ! 本日の観測データの方は......?」


「はい、これだよ」


 携帯食料のキューブをさくさく咀嚼しながら、イムリは記録端末スティックを投げてよこした。ゲンレはありがたき幸せ! と叫んでそれに飛びつくや否や、自分の机に駆け戻ってデータをコピーし始めた。


 何を隠そうこのゲンレという女、軌象予報室長の立場を利用し、イムリたちが持ち帰る観測データから目ぼしい情報を抜き取っては、都市の無法者たちに横流しして、小遣いを稼いでいる小悪党であった。


 ヘルニコグのジャンク街には不認可で違法営業する《械収者サルベージャー》を筆頭に、禁止された軌道周辺への《遺構開拓ヘリダイブ》を敢行するような命知らずがたくさん潜んでいる。そんな連中にとって、イムリの天候観測データの副産物である遺構のマッピング情報は、喉から手が出るほど欲しい代物なのだ。


『いつか痛い目を見るニャ......』


「いいのいいの。イムリくんがしっかり成果出してくれてりゃ、上層部は何ーんにも言わないんだから。それにほら、うちは予算も少ないしさぁ。これも一種の福利厚生ってやつだよ」


『汚職公務員め。イムリも黙って見過ごすからいけないんだニャ』


「わたしは上司に報告してるだけだよ」


 ゲンレは鼻歌交じりで上等な机にふんぞり返ると、頭上に呼び出した観測記録の立体映像ホログラムマッピングを流し見しはじめた。


 ここ環境局軌象予報室は、室長ゲンレとイムリの二人(とニャプラー)だけで構成された小さな部署である。軌象予報室は環境局長官の直轄組織だ。つまり長官お抱えということになる。……なのだが、新しく設置されたばかりという事情もあり、部屋割りの件を含めて少々不遇な扱いを受けていた。


「おや......?」


 急にゲンレが声を上げ、ホログラムを止めた。


「イムリくん、こりゃなにかね?」


 ホログラムは、軌道の進行方向に対して左斜め前、軌道方位では北東の方角に当たる、観測限界距離ぎりぎりの上空を映し出していた。軌道方位とは、軌道の進行方向を東として東西南北の方角を定める測量だ。地磁気を基準とした方位の概念は、久しく数万年前に地球の磁界が失われた際、同時に意味を失った。


 超八面建造体の移動速度から計算すると、ヘルニコグが三〇〇時間むいか後くらいに到達する距離だ。そこには映像上でも違和感を放つ、奇妙な雨雲の姿があった。


 その雲は、周囲数十キロメートル四方に渡って存在する、規模としては中型の雨雲だった。雨雲であるからして、その直下へ絶え間なく霧のような細かい液体を降らし、この区域の遺跡群を黒く染めている。


 特筆すべきは、その雲の表面に浮かび上がった斑模様の光沢だった。オーロラのような金属光沢が、雨雲の周りで絶えず渦巻いていた。重金属を核とするありふれた雲では、こんな模様は出ないはずだ。


「──これは《重油雨じゅうゆあめ》みたいだね。ニャプラー、お願い」


『厳密に言うと、《重力抽出じゅうりょくちゅうしゅつによる生成油せいせいゆ降雨こうう》だニャ。大気中の油性液体粒子が局地的な重力偏位を受けて凝結し、生成油の雨雲が発生するっていう異常軌象だニャ」


 イムリから解説を引き継いだニャプラーが、自身のホログラム投影機能で参考資料を投影しながら説明した。


『この現象自体はそんなに珍しくないけど、これは重油雨の中だと大きい雨雲の部類だニャ。油分は質量が大きくて地表付近で滞留するから、こんなに高い高度で重油雨ができることは珍しいニャ。もしかしたら都市にも油の雨が降るかもしれニャ......』


「ほうほう、たいへん興味深いぞニャプラー君!」


 ゲンレが突然割り込んだ。ゲンレは退屈そうな顔つきでニャプラーの講義を聞いていたが、どうやら何か思いついたようで急に顔色を変えた。


「ふむふむ、ほうほう、なるほどなるほど! ……これは一大事だ。お手柄ですぞ二人とも!」


 何がそこまで琴線に触れたというのか、ゲンレは仮想メモパッドを立ち上げると、猛烈な勢いで何かの資料を描き始めた。作業に熱中して、イムリたちのことは完全に置き去りだ。


『……こいつ、全然人の話を聴かないニャ』


「ゲンレ。大きな異常軌象なら、先日都市に最接近した磁起嵐一四五号も引き続き追跡中だけど、こっちは気にしなくていいの?」


 念のため、イムリは上司に判断を仰ぐ。


「ああ、特に大きな問題なかったろ? いいよいいよ、オッケーオッケー!」


「やれやれ。じゃあ報告だけしておしまいにするね」


 イムリも肩を竦めた。気づけば時刻はまもなく軌道時間四〇時で、拠点都市定時天気予報の予定が迫っていた。


「ゲンレ、それじゃそろそろわたしたちは行くね」


「ほいほーい、引き続き頑張ってくれたまえ。……そうだ。次の長官会議だが、私とイムリくんも参加することになりそうだ。よろしくね」


「長官会議? ……わかった。どうせ暇だから、いく」


 イムリとニャプラーは軌象予報室の薄汚れた小部屋を後にした。その背中の方から、ボーナスのチャンスだぞ! という大きな叫び声が聞こえてきた。

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