2.サメを始末して
美也子の目の前に現れたサメは、タケルの「暴れている」の言葉どおり、大いに暴れていた。黒い渦からどぼんと落ちた浴槽の残り湯の中で、必死にヒレや頭を動かしている。
「ちょっと、暴れすぎ! あーもう、
大きな声で独り言を言う美也子の口に、風呂の残り湯が入ってしまった。せめて小さな声で言えばいいのだが、本人はそんなことには気付かない。半分は自分のせいだというのに、渦から落ちたライトグレーの大きな魚に責任の九十八パーセント――二パーセントはタケルの責任だと思っている――をかぶせ、「こらぁーっ!」と、残り湯内でびちびちと跳ねているモノに怒声を浴びせる。
すると、不意に跳ねていたモノが残り湯から体を浮かせた。「がぁあぁああ!!」というがなり声を上げて大きな口を開け、鋭い歯を見せながら美也子に向かって突進する。
「うわぁ、あんた飛べるの!? どこの子よ!」
一体どこ出身なら、通常海中で暮らすホホジロザメが飛べることに得心がいくのだろう。しかし、自分から聞いておきながらそんなことはどうでもいいとばかりに、美也子はすかさずバスケットボールをサメの口に押し込もうとする。
「このボールはねぇ、ミニバス始めた娘のために買ってきたのに、『重くて使えない』って言われたかわいそうな子なのよ!」
女子のミニバスケット用のボールは、一般男子が使うそれとは直径も重さもかなり違う。それなのに、美也子は何も調べずに一般男子が使うものを買ってきたのだ。何故かサメは、その責任もかぶせられそうになっている。
「高かったんだからね! ありがたく受け取りなさい!」
そう叫ぶと、美也子は利き手の右手で持ったボールを思い切りサメの口へとシュートした。サメは美也子の喉元へ食らいつこうとしていたため、頭をひねり、斜め上に大きく口を開けていたところだ。力強いダンクシュートだったといってもいいだろう。
「あんた、歯がダメになると生え変わるんだって!? うらやましいんだけど!」
直径二十四.五センチもあるバスケットボールを口に押し込まれて「ぐぉっ」としか声を上げることができないサメに、歯が生え変わることがうらやましいという理由で、美也子はビニール傘を突き刺そうとする。まずは喉元だ。バスケットボールがあるあたりより少し腹に近い方がいいと、目を吊り上げて狙いを定める。
突拍子もない理由でバスケットボールの洗礼を受け、突拍子もない理由でビニール傘の先端部分を刺されそうになっているサメは、言葉がわかるわけではないだろうがどんどん覆いかぶさってくる理不尽さに激昂したのか、その目の獰猛な輝きをぎらりと強くした。
「えっ、ボール飲んじゃったの!? やだわぁ、
つい五分前に「食べたらおいしいのかしら」と言ったことを忘れている美也子に、バスケットボールを飲み込んだサメが仕切り直しだとばかりに襲いかかる。空中を飛べるため本来であれば標的の真上から襲いかかるのが一番やりやすいのだが、風呂場の天井は低く、それは難しい。そのため、サメはエプロンやスカートで守られていない美也子の膝下に食いつこうとした。
「……そうは問屋がっ、卸さないのよねっ!」
瞬間、サメの左頬に、美也子の右足の強烈なキックが飛んできた。無駄な動きのない、腹に十分な力を入れてのキックだった。サメは黒い渦が消えた壁に激しく衝突し、体を震わせながら痛がっている。
「鮫肌って本当なのねぇ。もっとつるつるしてたら気持ちいいのに」
美也子は、まず自分の足を心配した。厚手の弾性ストッキングのおかげで擦り傷などはできていないが、ストッキングが伝線してしまったことに怒りを覚える。
サメとしては、美也子の体のどこかに食いつき、噛みちぎりさえすればあとは出血多量で死ぬのを待つだけだというのに、それがなかなかうまくいかない。そして何故か体の特徴を
「んもうっ、素直に刺されてよ!」
美也子は、畳まれた汚いビニール傘でサメの喉元を刺そうとする……と見せかけて、突然ビニール傘をぱっと開いた。
「最近のビニール傘はワンタッチ機能がデフォなのよねー」
視界が薄汚れた透明のビニールで遮られ、面食らったサメがわずかに戦意を喪失し、鼻先でビニール傘をぐいっとどけた。ぱさりと軽い音がして、床にビニール傘が転がる。
「…………」
「…………」
お互い一歩も譲らず、沈黙の睨み合いが続く。もう一本のビニール傘を手に持つ美也子がじりじりと間合いを詰めようとし、バスケットボールのせいで歯がいくらか抜けてしまったサメも自身の攻撃範囲内に美也子を入れようとじりじり動くが、両者の間の距離に変化は起こらない。少しでも均衡が破られればどちらかに形勢が傾くという、一触即発の状況だ。
「……もうすぐ、娘が帰ってくるの。今日は夫が飲み会だし、焼いたケーキをクーリングさせている間に二人で回転寿司に行く予定でね。あんたなんかに付き合ってられないのよ」
サメからの返答はない。そもそも言葉がわからないし、しゃべることもできないのだから。両者の睨み合いは、静けさの中ヒリヒリとした質感を伴い、続けられている。
カランから一滴、水がぴちゃっと滴り落ちて沈黙を破る。その音が合図になったかのように、美也子の左手ビニール傘の先端部分がサメの喉元を襲う。サメは必死に避けようとするが、美也子の素早さは本物だった。彼女の手の動きを読めず、ビニール傘の先端部分の軌道を追うことができなかったサメの喉元は、襲いくる武器を避けようとするサメの動きと弱点である喉の柔らかい部分を読んだ美也子により、ビニール傘の先端部分を深く突き刺された。
そうして美也子は右手で床に落ちていた方のビニール傘も一瞬で拾ってさっと畳むとひらりと跳躍し、サメの脳天にビニール傘の先端部分を真上からありったけの力で刺突した。グギッという堅いはずのサメの頭蓋骨が割れた嫌な音を確認し、すとんと床に風呂場用スリッパをはいた足を付く。
ビニール傘は薄汚れている。汚い。排気ガスや花粉、黄砂などがこびりついていても、洗ったりなどしないものだ。カビも生えているだろう。そんなビニール傘の先端部分を喉と脳天の二箇所に突き刺され、サメは負けを悟った。美也子にではない。地球上の汚れに、だ。地球の汚れの詳細まで把握しているわけではないが、そんな強がりを、サメは今際の際で考える。
ドサッという音とともに、サメはその体を風呂場のカラット床――表⾯に特殊処理が施されており、掃除が容易で乾燥がスピーディーな床――に投げ出した。
かくして、広い風呂場に静寂が訪れた。
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