第三章 私の女

第三章 


 地下街を抜けると、夏の空気が清子の顔を撫でた。夕暮れ時特有の炙るような熱気だった。ビルの隙間から照りつける太陽の光を遮断するように、トンネルに逃げ込んだ。反対側の出口の様子が窺えるほど短いトンネルだった。向こう側では路上ミュージシャンがライブをしていた。アディダスのジャージを着た女の歌う「fragile」がトンネルの中で反響していた。清子は足早にトンネルを抜けた。トンネルを抜けた先では、人の波が道に沿うように行き交っていた。誰も路上ミュージシャンの前で足を止めなかった。人々はみな、今すぐ行かなければいけない場所があるかのように歩いていた。清子もそのうちの一人だった。

 そして実際に清子には目的地があった。霧散していく路上ミュージシャンの歌声に釣られるように上を見上げれば、そこには、真赤な観覧車が乗っかったビルがあった。ビルは夕焼けを反射して燦爛としていた。清子が少女を物色するときに訪れる、いつもの場所だった。今日も清子は理想の娘の亡霊を求めて、そこを訪れるのだった。

 信号を渡りビルの目の前まで来ると急に、ミュージシャンの歌声が遥か彼方に掠れて、消えた。その代わりみたいに、喧騒が清子の耳を叩いた。例えば若者のはしゃぐ声だったり、献血を呼びかけるメガホンの音だったり。そして、そんな喧騒の隙間から何やら言い争う声が聞こえてきた。

「いいじゃねぇか」

「やめてください」

 献血車の前、柄の悪そうな男二人が少女に絡んでいた。ナンパを断られでもしたのか、腕に手をかけ、力づくでどこかに連れて行こうとしていた。

 まあ、よくあることか。清子は興味を失って視線を逸らそうとした。すると、男二人の隙間から少女の顔が覗いた。瞬間、清子の視線は釘付けになった。

 その少女は、清子がついぞ声をかけることができなかった、理想の娘だった。

 あまりに突然の邂逅に頭が真白になるようだった。そして、無意識の最中で、清子の足は理想に縋り付くように前へと動いた。年月を経て醸成された執念が、あの日とは対照的に清子の足を突き動かした。

「ごめん。それ、私の女なんだけど」

男たちは突然の出来事に、呆気に取られた。自分達の間に割り込んできたのが彼氏でも男でもなく、女であることに。しかも、不審な雰囲気を纏った、とびきりの美人であるということに。

「何ぼけっと突っ立ってんの。私の女にちょっかいかけといて。これ以上何かするなら私も黙っちゃいないけれど。まあ私が手を出す前に、君らの爪とか指が無くなることになるかもしれないけれど」

啖呵を切った清子は昼間の仕事でもらった名刺をポケットから取り出して男たちの前でひらひらと振った。それは前時代的な空気を纏った、いかにもな真黒の名刺だった。

 清子の一連の言動の半分はハッタリだった。しかし、男たちは名刺を一瞥して、舌打ち一つ残さず立ち去った。

 清子はその背中を見送った後、名刺をぞんざいにポケットにしまった。それからハッと我に返った。今、隣には、あれだけ追いかけ続けた理想が現実の輪郭を纏って、存在しているのだということを思い出した。

 清子はおずおずと娘に向き直った。

 娘はその美しい瞳で清子をじっと見つめていた。その瞳だけで、あの日の娘が目の前にいるのだというのが疑いようもない事実となった。

 制服ではなく、白いワンピースを着て、ローファーではなく踵の高いヒールを履いて。しかし、格好が違っても、娘が纏う雰囲気はあの日と同じままだった。これ以上ない白妙の美しさだった。精神も肉体も純白のままだった。

 清子は突然現れた理想の前で、どのような態度を取ったら良いのかわからず、居心地悪そうに視線を逸らした。

 するとその視線を捉えるように娘は尋ねた。鈴のように高く美しい声で、一言だけ。

「私って、お姉さんの女なんですか?」

 そう言って悪戯っぽく笑った。それはあの日と同じ、妖婦の微笑だった。

 その微笑みが清子の胸の中心で燃え盛る宿願に、薪をくべた。雷に貫かれたように、清子は夢うつつの状態から覚醒した。

 そうだ。この娘は、私が追い続けた宿願そのものだ。理想の娘だ。私を苛み続けた幻想だ。それが今、目の前に肉として横たわっている。私の宿願を果たすためだけに、存在している。だから、必要なことはいつもと同じ繰り返しだ。この日のために繰り返したことを、今日も行わなければ。

「そうだよ。君は私の女。だから、君は今から私に抱かれることになるんだけど、いいよね」

 清子は数多の少女にしてきたのと同じように、ぞんざいな口調で断じた。

 清子の言葉にも娘は微笑を浮かべたままだった。それから、子供みたいに小首をかしげて。

「そっか。それなら仕方ないですね」

 あっさりと肯定した。清子はあまりにも容易く理想が自らの手中に収まろうとしていることに、内心で狼狽した。しかし、いつもの調子を意識的に保って短く告げた。

「きて」

 そう言って、娘の反応にこれ以上惑わされぬよう、足早に歩き出した。それから本当に娘が着いてくるのかチラリと後ろを確認した。

 すると、あの日と同じ娘の視線が全てを見透かしたように清子を捉えていた。その視線は遠ざかることなく一定の距離を保ち続けた。娘は清子の後ろを、言われた通りに着いてきていた。清子はそのことに安堵して視線を前に戻した。娘のヒールがコンクリートを叩く音が、子守唄のように清子の耳の中で響き続けていた。


 二人は新御堂筋から曽根崎に向かって歩いた。二人の歩みに比例するように、夕焼けがビル群の向こう側へと沈んでいった。街灯に明かりが点され、橙色の街が月光に侵されはじめる時分だった。

 そんな中、清子は落ち着かないような気分で、後ろにいる娘の様子を窺いながら歩いていた。じめじめとした暑さと真っ黒なシャツが夕焼けの残光までもを吸収して、汗が滴り落ちた。

 歩調に併せて艶かしく変わっていく街並み。いつもと同じ風景の遷移。

 しかし、今日はわけが違った。もう少しで、理想をこの手に抱くことができるのだ。宿願を叶えることができるのだ。切望し続けた瞬間が訪れるのだ。目的地に近づくたび、身体の中心で渦巻く熱が高まった。感覚が鋭敏になっていって、いつもなら気にならないことが気になった。

 例えば、横を駆け抜けていく車のエンジン音や、すれ違う人々の談笑の声。周囲を取り巻く音。それらがやけに煩わしかった。そして、それらによって浮き彫りになる沈黙がやたらと気に障った。誰かと一緒にいて、そのように感じたのは初めてだった。常に清子は傍若無人で、自分以外の何かを気にかけることは滅多に無かった。故に、この居心地の悪さをどのようにして解消すればいいのか分からなかった。

 心臓を真綿で締められるような不快感が歩くごとに高まり、汗が体に纏わり付くようだった。いよいよ対処に追えなくなった清子は、現状から逃げ出すべく、娘に言葉を投げかけた。

「君、歳はいくつ?」

 それは不器用で唐突な問いだった。

 しかし、そんな問いにも娘は明瞭に答えた。鈴のような声が、清子の後ろから返事を寄越した。

「十九です」

「そっか」

 清子はしばし黙り込んだ。人となんでもない言葉を交わすということの不慣れに、落ち着かない心持ちだった。しかし、それでも先ほどの沈黙に対しての不愉快よりは幾分かマシで、清子は言葉を続けた。

「大学生?」

「はい。〇〇大学です」

 娘の答えた大学は、学の無い清子ですらも、名前くらいは聞いたことのある大学だった。

「賢いんだね」

「全然そんなことないです。ただ母が教育熱心だっただけで」

 その言葉に、清子は娘と初めて出会った日のことを思い出した。あの、香水の匂いがしそうな母親の佇まいを。幸せな家族の象徴のような、母子の姿を。

 後ろめたさが清子の胸を襲った。あの日、母子の姿を見て踵を返した時と同じ気分だった。それは幸せな家族という抽象化された像に対しての気後れだった。

 しかし今は、あの日のように踵を返すことはできなかった。後ろには理想の娘がいて、抱き続けた宿願の通りに、娘を破壊へと誘わなければいけなかった。これ以上なく、美しい骸へと。

 清子は自分の感情の始末に手一杯で言葉を紡ぐことを忘れた。そんな清子に追い討ちをかけるように、娘は言葉を投げかけた。

「ところで、どこに行くんですか?」

「どこだと思う?」

「わかりません」

 娘は、艶かしくなっていく周囲の光源を見渡しながら答えた。悪戯な笑顔で。娘は嘘の吐きかたでさえも幼子のように純粋だった。そんな嘘の後に、言葉を続けた。

「このあたり、お母さんには行ったらダメって言われています。梅田の外れの方は危ないからって」

 娘の言葉に清子はうんざりとした気分になった。娘に自分の気後れをあげつらわれているように感じた。精神的な優位を取られているような不快感に襲われた。

「ママの言いつけを破ってもいいの?」

 清子は苛立ちをぶつけるように、嫌味な口調で尋ねた。

 しかし、そんな清子の苛立ちは娘の呟きによって相殺された。

「はい。いいんです。だって、ずっと......」

 何がずっとなのか。それを尋ねようとしたところで、娘は急に歩調を早めて清子を追い越した。

 娘の長い黒髪が背中の上で揺れていた。それを清子は見つめていた。しばらくそんな風に歩いたところで、娘はある建物の前で立ち止まって、清子の方を振り向いた。

「もしかしてここですか?私たちが今から行く場所って」

 ゆっくりとした口調で、娘は尋ねた。純粋無垢な笑顔が指差した先には、確かに清子の目的地であったラブホテルが艶かしい光を放っていた。

その無邪気に心臓を鷲掴みにされるようだった。今から本当にこの娘を抱くのだ。追い求め続けた理想が、今、目の前に。そんな事実ばかりが次々に押し寄せて実感が間に合わなかった。

 清子は言葉なく、頷いて、娘の手を取った。ふとした拍子に理想が消えてしまわないように。娘の手は、真夏の中で、異質なほどに、冷たかった。清子の手ですらも薄らと汗をかいているのにも関わらず。

 清子は氷のように儚い感触をそっと導くように娘の手を引いた。そうして、二人はゆっくりと、光源の中へと吸い込まれた。

「いらっしゃいませ」

 ノイズ混じりの機械音声が告げた。娘は驚いたように身体を震わした。その振動が指を伝って清子にも届いた。

 玄関を通過して、すぐ先の大きなモニター。清子がボタンを操作して部屋を選び棒状のルームキーを抜き取る一連の動きを娘は興味深そうにじっくりと見つめていた。

 清子はそんな娘の様子を間接視野で捉えながら、尋ねた。

「こういうところ、来るの初めて?」

「はい」

 小さく娘は頷いた。その表情からは緊張が読み取れた。そのことに清子は何とも言い難い愉悦を覚えた。初めて娘に優位性を示せたような気がした。けれど、そんな子供じみた感慨だけでなく、清子の感じる愉悦には安堵も含まれていた。

 二人は目の前のエレベーターへと乗り込んだ。三階へと向かって、二人を乗せた駕籠はゆっくりと上昇した。その間、言葉は無かった。ただ手だけが固く繋がれていた。清子は、娘の掌の冷たさに自らの中で渦巻く熱が浮き彫りにされるように感じた。

 熱を吐き出すように、エレベーターが粗末な動作で停止して、扉が開かれた。

 清子は逸る気持ちを抑えつけながら、短い廊下をゆっくりと歩き、いくつかある部屋の内の一つの前で立ち止まった。緑色のランプが上部で点滅していた。ドアノブを捻り、ドアを開けると、建て付けの悪さから、軋むような音が鳴った。開かれたドアがゆっくりと閉まる、その狭間で、二人は部屋の中へと入った。

 こじんまりとした部屋、赤を基調とした内装がこちらに粘りついてくるようであった。テレビにベッドにクローゼットにソファ、普遍的な家具の横には何故かスロット機が置かれている。清子にとっては見慣れた光景であった。しかし、娘にとってはそんな光景が新鮮で、ワインレッドのシーツや、肩身狭そうに佇むジャグラーを物珍しそうに眺めていた。

 そんな娘の存在を清子は持て余していた。今まで、少女をどのような段取りで抱いていたか、全く思い出すことができなかった。いつもは繰り返しに自然と身を任せることができた。けれど今はわけが違った。なぜなら、目の前にいる娘は何十回、何百回と行った破壊の、繰り返しの理由そのものだったから。清子が生み出した全ての骸の上に立っているのが目の前の娘だった。そんな意識が清子までをも、まるで処女のように立ち尽くさせた。いつのまにか、繋いだ手は解かれていた。二片の肉体がバラバラに部屋の中に存在していた。

 清子は、初めて出会った日と同じように、娘に近づけないでいた。自らの理想に触れる、宿願に手をかける、その糸口が掴めないでいた。そして、やはり、そんな清子を導くのは、娘の妖しい微笑みだった。いつのまにか、娘の視線が清子を捉えていた。

「私、今からあなたに抱かれるんですよね?」

 小首をかしげて、娘は尋ねた。純朴さを前面に湛えた動作とは裏腹に、その問いは疑問ではなく確認だった。先ほどまでの緊張や、浮き足だったような様子はすっかりどこかに消えていた。娘はただ、清子に抱かれるためだけにその場に存在していた。

 清子が答える必要はなかった。あれだけ想い続けた理想が、追いかけ続けた宿願が、両手を広げて清子を欲望の中へと誘っていた。清子はただ、導かれるがままに、娘の瞳に吸い込まれた。娘の、肉体の、その中へと。

 どれだけ強く抱きしめても、娘の身体が熱を帯びることはなかった。娘の身体は死体のように冷たかった。しかし、真白なワンピースの隙間から触れる肌や、水のように流れる黒髪の感触は、地上で触れるどの生命よりも艶やかで、過去に触れたどの肉体よりも、心地よかった。

 清子は娘の身体に沈み込んでいった。どこまでいっても娘の身体は冷たく、清子の身体の熱ばかりが浮き彫りにされて、もどかしかった。体温という隔たりを超えるため、いつまでも抱擁を続けた。

 そんな清子の耳元で、娘は囁いた。

「こうやって、家族以外の誰かに抱きしめられるの、初めてです。ハグもキスもその先も。全部、初めてなんです」

 至近距離で触れる娘の声は、脳に直接響くようだった。娘の言葉に、身体に、肉欲を包んでいたベールが一枚一枚剥がされていった。

 清子は噛み付くようにキスをした。娘の身体が一瞬、こわばった。そんな初々しい反応までもが、清子の熱を加速させた。理想の娘の身体に自分という存在が刻まれていくことが快かった。

 清子は欲望に突き動かされるままに、娘の口内に舌を挿し込んだ。蹂躙するように動く舌に、娘はされるがままになっていた。しかし、次第に、清子の舌を誘うように、小さな舌は懸命に動いた。二対の真っ赤な舌が、蛇の交尾のように、蠢き、交じりあった。唾液を通じて、自らと娘が繋がったことに、清子はようやく満足を覚えた。電流のような快楽が頭の中で弾けていた。いつまでもその交わりだけで満たされるような気がした。清子の長い舌に応えるように動く娘の短い舌が、生暖かく、その温度を伝って流れ込む甘い蜜を味わうだけで、精一杯だった。

 しかし、それはまやかしだった。それがまやかしであることを清子は初めて知った。

 キスが深くなればなるほど、娘と繋がっていない部分が気になった。娘の美しさの象徴のような白いワンピースでさえも、邪魔に感じられた。身体の全てが娘に触れていないこと。それは不満足なことだった。そんな不満があることを、清子は初めて知った。初めて訪れた感情への戸惑いに、付き合う間も無く、欲望は次から次へと押し寄せた。そして、そんな欲望の傀儡に成り下がった肉体も、また。

 清子は、ワンピースの隙間から、指を娘の中心へとあてがった。それは無意識の動きだった。そんな無意識で、触れたのは、下着越しにも感じる確かな熱だった。冷たい体温からは信じられないほど、娘の秘部はじっとりとした熱を帯びていた。

 清子は娘の顔を見た。娘は初めて、恥じらいの表情を浮かべた。頬を朱色に染めて、清子から視線を逸らした。まるで、捉えられることを望むように。

 誘われるがままに、清子は娘の身体を、自分の身体ごとベッドに押し倒していた。もう、娘の肉体のこと以外は考えられなかった。行為が、刺青を彫る前の前戯であることさえも、忘れていた。

 清子は煩い鼓動に釣られて震える指先で、美しい黒髪をかき分けるように、背中のファスナーに指を伸ばした。ファスナーは覚束ない指先とは裏腹に、滑らかに降りた。肩紐が撓んで、娘の肉体の全貌が清子の前をチラついた。清子は息を呑んだ。視覚だけで、心臓が、殴りつけられたように高鳴った。この肉体に今から触れようとしていることが信じられなかった。

 しかし、それが真実であることを示すように、娘は微笑んだ。娘の顔には恥じらいと慈愛が同居していた。処女でありながら、聖母のように、清子の欲望の全てを惹きつけた。

 清子は娘のワンピースをずり下げ、キャミソールや、下着も剥ぎ取った。そうした先に現れたのは、真白なワンピースも霞むほどの、純白だった。陶器のように美しい肉体だった。清子はこれ以上に美しいものを、見たことがなかった。それは、まさに、清子が抱き続けてきた理想そのものだった。

 清子は理想の前に、跪くように、しばし、目の前の光景を眺めた。薄暗い照明に照らされた、眩いばかりの輝きを。宝珠のような煌めきを。

 そのどこから、手をつければいいのか皆目見当もつかなかった。娘の全てが、あまりにも美しくて。まるで、セックスの仕方を一つも知らない、うぶな少年のように。

 そんな清子を諭すように、娘は滔々と語り出した。

「ずっと、考えていたんです。あなたなら私を連れ出してくれるって。あなたのエメラルドのような瞳を見つけた、あの日から。この瞳が私を幸せの檻から解放してくれるって。私の人生を壊して、地獄に連れて行ってくれるって。ずっと、想い続けていたんです。そして今日、やっとあなたに見つけてもらえた」

 それは、突然の、告白だった。静かに綴られる言葉が清子の精神も、肉体も呑み込んだ。

そして、

「初めて出会った日からずっと、私はあなたの女なんです。だから、抱いてください」

 その言葉が最後だった。肉欲だけが、清子を包んだ。理想とか宿願でさえも、娘の精神と肉体の美しさに呑み込まれた。清子は娘の肌に、吸い込まれた。


 娘の肌は、瑞々しく、清子の指に吸い付くようだった。肌に肌を重ねるだけで快楽が身体を巡った。死体のように冷たい体温が、娘の肌の滑らかさだけを浮き彫りにして、そこに自らの体温を重ねることの心地良さは格別であった。

 そして、娘の肉体で唯一の熱源、その熱をかき混ぜる度に、娘は甲高い嬌声をあげた。その声に耳を犯されるようだった。娘が快楽に声を震わせる度に、清子の脳も痺れた。

 娘は嬌声の隙間で頻りに囁いた。清子の身体に、しがみつきながら。

 もっと壊して、もっと壊して、と。

 清子はその声に導かれるように、ひたすらに娘の肉体を貪り続けた。快楽が尽きることはなかった。身体の中心が熱を帯びて、愛液が滴り落ちた。それが娘の肌を汚すことに背徳的な悦びを感じた。その罪を誤魔化すように、無茶苦茶に娘を抱いた。体温も液体も混ざり合って、快楽さえもどちらのものか分からなくなって。その正体を探すうちに、また新たな快楽が湧いて、そのうち、自分と娘の境目すらも分からなくなって。

 自分は今まで、本当のセックスを知らなかった。清子は頭の片隅でそんなことを考えた。

 そんな実感に突き動かされながら、いつまでも娘を抱き続けた。それは永遠のようにも感じられた。清子は初めて、永遠に身を委ねていた。

 そして、知った。永遠など、無いのだということを。

 オーガズムが清子の身体の許容量を越えた。清子は娘と混ざり合った肉体をそっと、離した。あまりにも深く交わりすぎて、それだけの作業で一苦労だった。ほんの少し、肉体が離れただけで、寂しさに襲われた。しかし、身体はもう限界だった。清子は名残惜しく、諦め悪く、娘を見つめた。すると、娘もまた、名残惜しさを湛えた瞳で、清子を見つめていた。

 視線が肉体の代わりに絡み合った。

 そんな風に戯れた後、娘はそっと尋ねた。

「もうこれで、終わりなんですか?」

 その言葉で、清子は、はっと我に帰った。それから気づいた。気づかされた。もう目の前に残されたものが一つしかないことを。

 自らが理想とする美しさを纏った少女を見出し、その娘に刺青を彫り込む。

 そんな宿願の成就の他に、自らには何も残されていないのだということを。

 清子は唐突に、何かに取り憑かれたように立ち上がった。娘はそんな清子の姿をじっと見つめていた。期待に満ち溢れた眼で。

 清子は、ベッドの傍に置いた鞄から模造紙を取り出した。ベッドの上でその模造紙をそっと広げた。そこには、丸々と肥え太った、淫らな女郎蜘蛛が横たわっていた。娘はじっと、その絵を見つめていた。清子はその瞳に向かって囁きかけた。

「この模様を、私に彫らせてくれないか。君の背中に、この女郎蜘蛛を」

 それは自然と懇願するような調子を帯びた。娘は清子の方を見なかった。ずっと、目の前に横たわる、不気味な女郎蜘蛛の絵を見つめていた。

 そうして、どれだけの時間が経っただろう。清子が不安に駆られ、更に言葉を重ねようと口を開いた瞬間、娘は清子の方へと向き直った。女郎蜘蛛をその瞳に焼き付けた娘が、清子を捕らえるように、見つめていた。それからゆっくりと呟いた。

「お好きになさってください。だって、私はあなたの女なのだから」

 そう言って娘は笑った。薄暗い照明に、娘の笑みが照らされていた。


 寂れたビルの一室、清子の仕事場の寝台の上に娘は横たわった。惜しげもなく自らの肉体を晒して。長い黒髪の隙間から真っ白な背中が顔を覗かせていた。先ほどまでこの身体を抱いていたことが信じられないほどに、美しい素肌だった。

 清子は針を指に抱えたまま、逡巡の最中にいた。理想の美しさを纏った娘の肉体が、目の前には横たわっていた。この陶器のように白い肌に刺青を彫り込んで、その人生を破壊すれば、さぞ美しい骸になるだろう。それが清子の追い求め続けた宿願のはずだった。その宿願の成就が、もうすぐそこに、手の届く場所にあった。

 しかし、湧き上がってくるはずの欲望がどこにもなかった。快楽の泉は先ほどの情交で枯れ果てたようだった。清子は躊躇っていた。これだけの美しさを自らの手にかけて、本当に良いのだろうか。それは名画にペンキをぶちまけるに等しい行為なのではないだろうか、と。

 幸福な家族、母子で並んだ姿、清子がついぞ近づけなかった幸せの象徴。名門大学に通い、家族からの愛を一身に受けて、その美しさを周囲に振りまく、娘が。今目の前に横たわっている娘が。

「彫らないのですか?」

 いつまでも訪れない痛みに痺れを切らして娘は尋ねた。清子は娘の問いに答えることができなかった。

 そんな清子を娘の笑みが襲った。あの、妖しい微笑が。

 娘は寝台の上に起き上がり、髪を、その長い黒髪を掴んで背中を露わにした。背中どころか、頸まで、帷を下ろすように。娘の裏面が惜しげもなく清子の前に晒された。娘は流し目で、清子を見つめながら言った。清子の視線を捉えながら。決して自らから視線を逸らすことを許さないように。清子の視線をその美しさで捕らえながら。

「私はあなたに壊されたいのです。ずっと夢見ていたように。この身体を。身体だけじゃなく、私の人生の全てを。あなたの手で、見るも無惨に壊されたい。あなたの女として」

 清子の宿願が、薄暗い光に照らされた娘の背中を通して、娘の美しさという針によって浮き彫りにされるようだった。

 清子は娘の言葉に、その美しい容姿に心理を拐かされた。そして、自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。

 今ここで宿願を果たさなければ、今までの私の人生が否定されてしまう。骸を創り続けてきた私の人生そのものが骸になってしまう。そんなことは許されない。私は、理想の美しさを纏った肌に刺青を彫り込む。自らの刺青で娘の人生を破壊し、これ以上ないくらいに美しい骸を創り出す。そのために生きてきた。だから、今、それを成さなければ。

 清子は左手で娘の身体を突き飛ばした。娘は不意に訪れた暴力を嬉々として受け入れた。それから、髪を掴んで背中を露わにしたまま、再び寝台に寝そべった。

 清子は、その雪原のような美しい肌に、吸い込まれるように、針を刺した。娘は、遂に訪れた痛みに、身体を歓喜で震わした。そうして、清子は宿願にその身体も精神も、呑み込まれた。

 

 薄暗い照明が照らすものは、針が肌を切り刻む音だけだった。場は静謐な空気に包まれていた。娘は、まるで本当に死体になったように、うめき声一つあげなかった。凄絶な痛みに苛まれているはずであるのに、その痛みの全てを受け入れ、自らのものにしていた。自らの肉体を清子に差し出すことだけに務めていた。

 むしろ、苦痛に侵されていたのは清子の方だった。完璧な美しさを纏った女郎蜘蛛を、一才の言い訳が効かない純白のキャンバスに彫り込むことは、清子の技量を持ってしても容易ではなかった。

 熱帯夜の中、宿願に従事する身体から、汗が何度も滴り落ちた。数多の時間が流れた。その間、何かに取り憑かれたように清子は一度も手を休めることはなかった。ただ、一針、一針、模様を刻む度に、自らの心が刺されるように感じた。そこに快楽の介在する余地はなかった。清子の身体は、生命は、ただ宿願を果たすためだけに、躍動していた。女郎蜘蛛を、娘の身体に永遠の模様として刻みつけるために、その作業に魂を注ぎ込んでいた。自らの全てを、女郎蜘蛛の生命に置き換えるように、針を動かし続けた。

 どれだけそうしていただろう。やがて、蝉が鳴き始め、ゴミ収集車の放送が街に響き始めた時分。カーテンの隙間から差し込む朝日が目の前の光景の全てを燦爛と照らし出した。清子が果たした宿願を。そして、清子が犯した罪の、その全貌を。

 怖気づくほど不気味で美しい女郎蜘蛛が、娘の背中の上で、息吹いていた。清子はその奇跡のような出来栄えを呆然と見つめていた。その前から一歩も動くことはなかった。娘の背中は女郎蜘蛛に破壊しつくされていた。そこに純白の美しさは一欠片も残されていなかった。それはまさしく、清子が兼ねてより抱き続けた宿願が、受肉した姿だった。ずっと追い求め続けてきた、理想が叶えられた瞬間だった。

 しかし、清子の胸を襲ったのは満足ではなかった。もちろん、快楽でもないし、達成感など微塵もなかった。

 清子の胸を占めていたのは後悔だった。

 私はとんでもないことをしてしまった。この美しい娘に、自らの醜悪な業の権化のような模様を彫り込み、その美しい肌を破壊した。その美しい未来を、私は自らの宿願のために破壊してしまった。

 どうして今更そんなことを思うのか。どうして何度も繰り返した先で襲われるのがそんな感情なのか。訳がわからなかった。理想を完璧に叶えた先の末路に清子は痛ぶられていた。

 そして、そんな清子に、更なる罰が訪れた。

「終わったのですね」

 そんな呟きと共に、娘は起き上がった。髪は掴んで横に流したまま。自らの身体に刻みつけられた女郎蜘蛛の模様を、清子に突きつけるように。

 清子は、その姿になぶられるように感じた。けれど、娘が美しく、余りにも艶やかに女郎蜘蛛を飼い慣らすものだから、惹きつけられたように、そこから目を逸らすこともできず、しばらく自分の犯した罪の象徴を見つめ続けていた。

 それから、宿願の残滓に操られるように、ゆっくりと、今にも息絶えそうな身体を動かした。

「色上げをするからこちらにおいで」

 清子はとぼとぼと浴室に向かった。娘は寝台から立ち上がった。そして、自らに訪れた痛みにも、眉をピクリとも動かさないで、平然とした様子で清子の後を追いかけた。目の前を歩く、小さな、頼りない背中をじっと見つめながら。

 浴室で、清子は服を着たまま、娘の背中に湯をかけた。二度、三度。湯をかけるたびに、水滴を弾く瑞々しい肌の上で、女郎蜘蛛が蠢いた。清子の魂を吸い付くし、肥太った女郎蜘蛛が。清子は身を裂かれるような痛みを味わいながら、娘に向けて呟いた。

「そのまま湯船にしばらく浸かりな。湯が沁みて痛むだろうが、色落ちを防ぐためだ。辛抱しな」

 それだけ告げて、清子は、生気を失ったような足取りで、浴室から出ようとした。

 その時、背中に声が突き刺さった。

 

かわいそうに


 清子は思わず振り向いた。その視線の先には、女郎蜘蛛と女の微笑みがあった。妖しさを完全に我がものとした一匹の女の姿があった。その瞳は剣のように清子の心を串刺しにした。

「かわいそうに。こんな刺青を彫り込んだがばかりに、あなたはもう、私から離れることはできないのですね。私の宿願を叶えてしまったがばかりに、あなたは私の女になるのですね」

 そうして、女はゆっくりと、清子の方に向けて歩き出した。女郎蜘蛛は清子の視界から消えた。しかし、清子は蜘蛛の糸に、捕らえられたままだった。蜘蛛の巣にかかった蝶のように、その場から動くことができなかった。身動きひとつ許されず、ただ近づいてくる女の姿を見つめる他になかった。

 悠然と、女は清子を捉えた。手を伸ばし頬を憐れむように撫でた。それから。

 清子に口づけを落とした。何度も、執拗に。自らが生み出した骸を、貪るように。

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