第二章 理想の娘
第二章
清子は、他者の人生を破壊することで自らの欲望を満たすような生活を何年も続けていた。その間に、幾多の少女が犠牲になった。清子が普段、極道に施す生活のための刺青とは違い、少女たちに施す刺青は完全に個人的享楽のためだけにあった。一銭にもならない刺青を、自らの欲望のためだけに彫り続けていた。
清子の欲望は留まることを知らなかった。むしろ、少女の屍が高く積み重なるのに呼応して、欲望の業も増していった。
いつからか、清子はある宿願を抱くようになった。それは、自らが理想とする美しさを纏った少女を見出し、その娘に刺青を彫り込むというものだった。
清子は事あるごとに、理想の娘の姿を妄想した。それはなんら具体的な像を持たず、ひどく漠然としたものであった。しかし、それでも確かに清子の頭の中に、その娘は存在した。
そんな宿願が芽生えた折から、清子の悪癖はエスカレートした。清子は以前にも増して、梅田の街を、理想の娘を求めて彷徨うようになった。何人もの少女を抱いて、何人もの少女の肌に刺青を彫り込んだ。時には、一度に二人や三人の少女を相手にすることもあった。
それでも、理想の娘に出会うことはできなかった。
ある日、清子はいつものように梅田の地下通路を歩いていた。あてもなく、ハイエナのようにあたりを物色していた。そんな清子の姿はやはり浮世離れしていた。しかし、清子が行き交う人に奇異の目で見られることは少なかった。それは、清子の美しさと、梅田の街の、独特の寛容さが故のことだった。刺青が刻まれているわけでもない限りは、人々は全て一塊の流れだった。そんな奇妙な連帯感が街全体を薄らと包んでいた。宿願を追い求めて彷徨う二十八の女も、そんな女の宿願の片手間に犠牲になっていく少女たちも、皆等しく梅田の街に抱き抱えられていた。
そして、宿願を叶えうるだけの美貌を持った娘も、また。
噴水広場の目の前で、清子は足を止めた。それは無意識のことだった。そして無意識の延長線上で、視線が一人の娘を捉えた。清子の視線はたった一点、真白な柱に背を預けて佇む、制服の娘だけに向けられていた。
その娘が視界に収まった瞬間、電流が走るような音がした。それは、目の前の光景と頭に抱き続けてきた宿願とが繋がる音だった。
膝丈まであるスカートから伸びる脚は、細くてしなやかだった。宝珠のような肉の煌めきだった。そして、長くて色艶の良い黒髪は清廉さを全面に湛えていた。それはまるで帷のように、背中を覆い隠していた。その髪の色とは対照的に、娘は肌の色から素朴な表情まで、全てが純白だった。その美しさは摘まれる直前の白詰草のようだった。その肉体の処女性はそのまま精神の高潔さをも表していた。
しかし、その娘の美貌は、これから先、何人もの男を狂わせるであろう種類のものだった。男に抱かれるのではなく、肉体を貫かれてもなお、男の人生を抱くことのできる器量の美しさだった。そして、一度でも男の性欲に晒されてしまえば、今の娘を包む、一種の神々しいまでの美しさが損なわれてしまうことは容易に想像がついた。墨の一滴さえも付けば目立ってしまうくらい、娘は圧倒的な純白で、何にも穢れていなかった。
心臓が小刻みに鳴っていた。焦燥が体の芯を震わした。早く手に入れなければ。他の誰かに見つかる前に、あの理想の美しさが損なわれてしまう前に、私が、手に入れなければ。
しかし、いつものように声をかけることはできなかった。脚は痙攣したように震えるばかりで、娘に近づくことを拒むようだった。喉はカラカラに乾いて、気道が狭まり、碌に声も出せなかった。
清子はその場に立ち尽くしていた。すると、自分を捉える視線に気がついたのか、娘が清子の方を見た。それから、不思議そうな顔をして首を傾げた。その目は疑問を浮かべてはいるものの警戒心とは無縁の色をしていた。そればかりか、自分を見つめて立ち尽くす不審な女を前にして、娘は薄く微笑んだ。それは純粋でありながら、妖艶な笑みだった。まるでこれから自分に訪れる美しさの全容を理解しているかのような、妖婦の微笑みだった。妖しいままで誰よりも処女であった。
清子の足がそんな笑みに引き寄せられるように一歩、前に進んだ。娘は微笑んだまま、清子をじっと見つめていた。繋がった視線は蜘蛛の糸だった。清子は一歩一歩、その糸を手繰り寄せるように娘に近づいた。
しかし、もう少しで言葉が届くくらいの距離になって、その糸は断ち切られた。
娘の目の前に、気品の漂う婦人が現れた。上品な服に身を包んで、ブランドのロゴがあしらわれたバッグを持って、清子がいるところまで香水の匂いが漂ってきそうだった。婦人は押し付けがましいまでの幸せを纏っていた。それは若い時分の美しさを男に差し出した対価として、獲得したものに違いなかった。その姿は娘の未来と重なるようだった。二人はよく似ていた。そして、娘を見つめる目の、性の匂いが脱臭された穏やかさは母親の目に違いなかった。
娘が婦人に対して浮かべた、わざとらしいまでに子供らしい笑みも、二人が親子であることの証左だった。その笑みに、先ほどまでの妖しさの面影はなかった。ただ、絵に描いたような幸せな家族が清子の目の前に現れた。その幸福はあまりにも完璧で、若い内から幸せの全てを手に入れることは却って不幸なようにも感じられた。しかし、それが根っからの同情なのか、ただの子供じみた反発なのかは区別が付かず、アンビバレンスな感情の始末はつかなかった。
清子は黙って踵を返した。清子の世界と、幸福な家族は相容れないものだった。清子は家族を知らなかった。母親の愛も父親の愛も与えられずに育った。それはつまり愛を知らないということだった。愛し方も、人間としての営みも、俗世で普遍的な幸せの中に生きる術も、清子は何も知らなかった。
だから娘がそんな幸福な家族の形に取り込まれてしまってはどうしようもなかった。黙ってその場を立ち去るしかなかった。そうして、娘の像を振り切るように足速に、薄暗い地下通路を歩いた。
しかしどれだけ歩いても、娘の姿が、純白を纏った美しさが、妖しい匂いのする微笑が、頭にこびりついて離れなかった。どれだけ歩調を早めても、娘と対峙した一瞬を置き去りにすることはできなかった。娘にかき乱されたままの心臓が、清子の身体の中心でその存在を主張していた。
あるいは、そんな清子の状態でさえも、娘の魔力だったのかもしれない。
娘は踵を返して立ち去っていく清子の背中を、母親の陰からじっと見つめていた。そのことを清子はまだ知らない。
何人抱いても、何人の身体に刺青を彫り込んでも、頭にこびりついた娘の像は消えなかった。理想の片鱗に触れた感触は毒牙のように清子に食い込んで離れなかった。次第にその症状はひどくなるようだった。
清子は、ただ少女の人生を破壊するだけでは快楽を感じることができなくなった。刺青を彫り込んでいる時でさえ、目の前に横たわる肉体があの日見た娘のものではないという事実が快楽の受容の邪魔をした。どうしてこんな汚らわしい物体の相手をしているのだろうとすら思った。興奮の気配はなく、少女に刺青を彫ることでさえルーチンワークの一部に成り下がってしまった。ただ作業のように少女を抱いて、適当な模様を彫り込んで、捨てた。その間、一時も娘の姿を忘れることはできなかった。娘との邂逅によって受肉した理想が、清子の頭の中を埋め尽くしていくようだった。
気づけば娘に出会ってから一年ほどの時間が経過した。そうなってくると本当にあの娘は存在したのか、そんな疑問が清子の頭に浮かぶようになった。あの日観た娘の姿が幻か何かのように感じられた。月日が過ぎるに連れて娘の実在性はどんどんとぼやけていくようになった。ただ、ぼやければぼやけるほど理想は強固なものになっていき、胸の中心に確固たる居場所を築いていくのだった。
清子の日常は、理想の偶像の前に膝を突き崇拝するような敬虔さを帯びるようになった。清子は今までと同じように、少女を抱き、針で肌を切り刻み刺青を施す。一人のいたいけな少女の人生を破壊する。しかし、そういった作業では、もはや微塵も快楽を感じなかった。その営みは自らの胸に秘めた理想への礼拝のようなものだった。少女の人生を破壊することを通じて、その作業を続けることで清子は理想への忠誠を示すのだった。
そして、そんな日々が報われる時が来た。しかし、訪れたその瞬間は報いであると同時に罰でもあった。これまで犯してきた罪に対してではない。たった一度、これから犯す罪に対しての罰であった。
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