TATOO

無銘

第一章 ある刺青師の日常

第一章


 2000年、刺青は多様性を重んじる令和の世とは異なり、ただ社会からの逸脱の証明としてのみ存在していた。それを彫り込んだが最後、周囲からはアウトローのレッテルを貼られ人生の選択肢や可能性は容易に狭まった。また、世情に反して、あるいはそんな世情だからこそ、はみ出しものたちにとっての刺青はステータスであり、通過儀礼としての地位を得ていた。そのように、身体に模様がある者と無い者が大きく隔てられた時分であった。

 大阪に、ある一人の女がいた。彼女は前者と後者、どちらとも言えなかった。彼女の身体には傷一つなく、その美しい肌は男女を問わずしばしば他者を狂わせた。その容姿に刺青の影はなかった。

 しかし、だからといって彼女が刺青と無縁な常人というわけでは決してなかった。むしろ、彼女の心には醜悪な業がこれ以上ないくらいにはっきりと彫り込まれていた。その業は刺青と分かち難く結びついていた。

 彼女の名は清子、刺青師だった。清子は自らの身体ではなく他者の身体を絖地に、数多の刺青を彫り込むことで生計を立てていた。

 清子は若い女の肉体を好んだ。その中でも特に、精神的処女性を有する女の肉を欲した。清子にとって、肉体的に処女であるかどうかはさして重要ではなかった。ただ、自らの美しさに自覚的な女であったり、派手好みで下品な煌びやかさを纏った女であったり、肉体的享楽に身を投じて堕落している女であったり、あるいはそんな自分に酔っている女であったり、そういった種類の女は相手にしなかった。清子は精神の汚れた肉体に触れることを極度に嫌った。

 真っ白で高潔な精神、肉体。そこに針を差し込み、皮膚を切り刻み、社会的堕落の象徴としての模様を彫り込む。希望に溢れた未来を徹底的に破壊する。純潔を纏った乳白色の少女を、ただ美しいだけの骸へと創り変える。それが刺青師としての清子が背負う業であり、欲望の正体であった。その欲望を体現するためには、若い女の、何にも染まっていない精神と、それに裏打ちされた肉体が必要であった。清子が精神的処女性にこだわるのにはそのような理由があった。

 清子はしばしば、自らが刺青を彫り込むための、純白のキャンバスを求めて大阪の街を彷徨った。そんな徘徊は大抵、梅田で行われた。

 清子の住む西成の街はどこまで行っても薄汚れた骸しか転がっておらず、新世界は美しさに足らず、難波の女の美しさは下品で、金に塗れた香水の匂いがした。

 それに対して梅田は様子が違った。大阪の中心部でぽっかりと浮かぶように存在している街の、例えば、頭に赤い観覧車の突き刺さったビルのふもとあたりには、多くの未来ある若者がたむろしていた。何者かになりたくて、誰かに見つけて欲しくて、ありふれた、あるいは奇抜という名の普遍性を纏って、そんな衣装を買い求める彼女らは精神的に未熟な雛鳥だった。梅田は清子にとってあらゆる未来の見本市だった。

 今度はどんな未来に手を加えようか、どんな風に無残で美しい骸にしてしまおうか。女を物色している時、清子の身体は破壊の甘い予感に包まれていた。その予感だけが唯一清子の身体を芯から震わすのだった。

 そして今日もまた、一人の少女が、清子の美しい容姿に、耳触りのいい言葉に、拐かされようとしていた。

 清子が目をつけたのは、件のビルの前、真赤な時計のモニュメントの隣で手持ち無沙汰に携帯を弄っている少女だった。歳は二十歳前後といった感じで、まだ初々しさの残る童顔にミスマッチの茶髪、虚勢を張るような厚底のブーツに、過度に誇張された気怠げな態度。思春期特有のアイデンティティの揺らぎが顕在化されたような少女だった。そんな少女の、蛹から孵る前の蝶のような、垢抜けきれていない容姿が清子の琴線に触れた。

「誰かを待っているの?」

 少女は初め、それが自分に向けられた声なのだと気づかなかった。しかし、いつまでも人影が目の前から動かず、そこでようやくその声が自分に向けられたものなのだと気づいた。警戒心を張り詰めながら顔を上げると、目の前には蜘蛛のような女がいた。警戒心が良く似合う不審な女がいた。

 真黒な革ジャンにジーンズ、スニーカー、女が纏うものは全て年季が入っていてボロボロだった。しかし、陶器のように白い肌、セアカコケグモの斑点のように真赤な唇、宝石のように輝く緑色の瞳、無造作に散りばめられた上等なパーツが怪しげな魅力を女に与えていた。

 相手にしない方がいい。分かっていながら少女は清子から視線を逸らせないでいた。

 清子は切長の目を微笑みで細めながら、再び尋ねた。

「さっきから、誰を待っているの?」

「彼氏だけど」

警戒心の滲んだ硬い声色で少女は答えた。

 しかし、言葉が繋がった時点で、大抵少女は清子の糸に絡め取られるのだった。

「どうせ、しょうもない彼氏でしょ。おいで?」

そういって清子は少女の手を取って歩き出す。

「ちょっといきなり」

 不満の声をあげながら、少女は気づく。自分の掌を包む温度が死体のように冷たいことに。自分の皮膚を撫でる感触がこの世のものとは思えないほどに、サラサラと美しいことに。

 そして、そんなタイミングで、胸を巣食いはじめた非日常の予感の隙間から、清子が囁く。

「彼氏と会うより、もっと良いことを教えてあげるよ」

 これが男だったなら、こうはうまくいかなかったであろう。ただの軽薄なナンパとして処理されるのであろう。しかし、大抵の少女たちは知らない。女が女を捕える時に放つ性の匂いを。女から向けられる性的な視線は、底なし沼のようなもので、一度足を踏み入れたが最後、そのままずるずると引き摺り込まれてしまうということを。

 そんな新鮮さが、自らに向けられた肉欲を運命だと勘違いさせる。清子の俗世離れした美しさもそれを後押しする。

 やっと私も見つけてもらえた。特別な誰かに。

 少女の体温が上がる。清子の華奢で大きな背中を見つめる双眸が理性を失っていく。非日常への確信が理性や、彼氏への義理や、今まで俗世で培ってきた全てを麻痺させる。

 実際それは非日常には違いなかった。ただ、少女は知らないだけなのだ。これからもたらされるのが果てしなく、とめどない快楽とその代償としての破壊であることに。清子を突き動かしているものがただの肉欲ではなく、醜悪で悍ましい業であることに。

 スキップを踏むように足取り軽やかに、清子は少女を誘う。少女は未だ知らない。目の前に広がる非日常の行く末を。


 薄暗い照明が目の前の光景を頼りなく照らしていた。ギシギシと、ベッドが間抜けな音で軋んでいた。少女は枕元に置かれた備え付けのライターとコンドームを見つめながら、快楽に揺蕩っていた。自分は今まで、本当のセックスを知らなかった。世界の真実に目覚めたかのようにそんなことを考えていた。一度、清子に抱かれたくらいで何がわかろう。しかし、そう思わせるだけの魔力が清子にはあった。無骨で質量が大きいだけの、男の身体しか知らぬ少女に、シルクのようにきめ細やかな肌は上等すぎた。

 一方で、清子にとってはセックスでさえ、日常の営みだった。少女を抱くことでさえ、大いなる欲望に向かうまでの前戯に過ぎなかった。身体を通じて相手を愛するためではなく、行為を通じて得られる快楽のためでもなく、ただその先にある欲望のために行われる愛撫は、ほとんど自慰行為と同じだった。しかし、魂が通ってないが故に、相手に快楽を与えるためだけに最適化された清子の愛撫は、少女に真実の幻を見せるのだった。

 清子は知っていた。一度自分に身体を委ねた女は、簡単に心までも委ねることを。そして、一度心を許した女は清子に対してとことんまで盲目的になるということを。その盲目が刺青を彫るために必要だった。

 少女は清子の執拗な愛撫に快楽の許容量を越え、声すらも枯れ、息も絶え絶えに身体を震わしていた。そんな様子を見て、清子は頃合いだと、指を少女の中心から引き抜き、肌の密着を解いた。

 少女の心を寂しさが襲った。自らが限界を迎えていたことも忘れて、名残惜しさに満ち溢れた瞳で清子の指や、肌や、胸を眺めていた。あるいはその先にある何かを。

 少女は抱かれている間ずっと考えていた。あまりの快楽に、このままおかしくなってしまってもいい。声も身体も全部、壊れてしまってもいいと。

 そんな少女の欲望に、清子の欲望が絡み合っていく。

「君にあげたい模様があるんだ」

 そう言って清子は唐突に立ち上がった。惜しげもなく、自らの裸体を晒すように。

 そして、ベッドの傍に置いた鞄から模造紙を取り出した。それを、濡れた指でそっと摘んで、ベッドの上に広げた。瞬間、鱗粉が飛び散った。紙の上には真っ青な美しい蝶が描かれていた。蝶は快楽の飛沫や匂いが残るベッドに、艶かしく羽ばたいた。

 少女は快楽の代わりに現れた模様に釘付けになった。清子は確信を持って尋ねた。

「この模様を君の背中に彫りたいんだ。この美しい蝶を」

 一瞬の出来事だった。清子の言葉が宙に放たれるのと同時に、少女は頷いた。まるで糸に操られるように。その糸を引いたのは清子だった。

 清子は興奮に秘部を濡らしながら服を着た。少女もその動きに倣った。清子は少女が着替え終わるのも、乱れた髪を整えるのも待たずに部屋を出た。少女はシャツのボタンを慌ててとめて、ブーツのジッパーを上げ切らないままに、清子の後を追った。

 そうして、先ほどまでの嬌声が嘘のように、部屋はもぬけの殻になった。情事の時と変わらない照明の光度が快楽の余韻を控えめに照らしていた。


 先ほどと同じように、薄暗い照明。しかし、それが照らすものは快楽ではなく痛みだった。

 清子が操る一針一針が少女の皮膚を切り裂き、肌に抉り込んでいく。その動きに合わせて、少女が悲痛な叫び声をあげる。声にならない声が、廃ビルのコンクリートに反響する。

「痛いかい?私の針はさぞ痛いだろうねぇ」

 清子は興奮を隠そうともしない。

 先ほどまで抱いていた肌に針を入れる感触。この一針一針が少女の人生を破壊することに繋がるのだという実感。それを証明するように響く少女の悲鳴。

 脳がドクドクと脈を打つようだった。セックスでは感じられなかった快楽に、身体の芯まで包まれていた。その快楽に操られるように、針を持つ指は縦横無尽に動いた。少女の背中を傷つけることになんの躊躇も無かった。むしろ、この傷が少女のこれから先の人生の全てにまたがって、影を落とすのだと考えると、興奮は止むことを知らなかった。

 結局、清子は少女の背中に蝶が羽ばたくまで一度も手を休めることはなかった。

「終わったの......?」

 痛みの残滓に顔を歪ませながら、弱々しい声で少女は尋ねた。

「ああ、終わったよ」

 先ほどまでの興奮はどこ吹く風、清子は冷静な口調で答えた。実際に、清子はもう既に目の前の少女への関心をほとんど失っていた。

 いつもそうだった。針を入れている最中、破壊の感触が手の中にある内が清子の快楽のピークだった。だから、一度針を入れ終えてしまえば、目の前に横たわる少女はただの醜い肉塊としか思えず、自分の彫った模様の美しさだとか、刺青を綺麗に保つために必要な措置だとかはどうでもよかった。

「ほら、立ちな」

 清子は冷たく言い放った。それは有無を言わさぬ口調だった。

 もはや清子に隷属するだけの傀儡となった少女は身体を切り裂くような痛みを我慢し立ち上がった。その拍子に蝶の輪郭が滲んだ。

 清子は乱暴に少女の衣服を投げつけた。少女は、痛む背中を庇いながら着替えを済ませた。

「行くよ」

 清子はそう言って立て付けの悪い木製のドアを開けた。軋んだ音が部屋に響いた。少女は慌てて、清子の背中を追いかけた。自らの背中に横たわる蝶が、衣擦れに悲鳴をあげた。少女はそれに気づきもしなかった。痛みの代償に得たものが、損なわれていくことに、気づきもしなかった。

 廃ビルを出て、来た道を逆向きになぞるように歩いた。細い路地を抜け、横断歩道を渡り、落書きまみれのトンネルを抜けた。歩けば歩くほど、風景は光度を増していき、人の数も増えていった。懐かしい日常の温度が少女の痛みに染みるようだった。それを表すように、墨が衣服に滲んだ。道行く人の何人かはどす黒く滲んだ少女の背中を奇異の目で見つめた。そのことに、少女は気づかなかった。ただ、真直ぐに清子の背中だけを見つめていた。傷一つない清子の背中を。清子は一度も振り返らなかった。

 そうして歩く内、真赤なビルの目の前までたどり着いた。清子と少女が出会った場所に。

 そこで清子はやっと、少女の方に振り向いた。それからなんでもないことのように言った。

「じゃあ、私はこっちだから」

そう言って、地下街へと続く横断歩道へ足を進めた。

 少女はあまりにも唐突な、自らが受けた仕打ちに対して軽すぎる別れに虚を突かれ、言葉が一つも出なかった。

 清子は軽やかな足取りで横断歩道を渡り、人混みに紛れ、そのまま地下へと消えていった。

「まって」

 やっとの思いで、小さな声を絞り出した。その時にはもう手遅れだった。

 少女は急に現実へと投げ出された。残されたものは痛みだけだった。少女はいつまでもジクジクと痛む背中へと目を向けた。墨が滲んで、衣服が凄惨なことになっていた。そこで初めて、自分が醜いだけの骸になってしまったことに気がついた。

 少女はその場に崩れ落ちた。

「待ってよ。待って。待ってってば」

 気違いのように、何度も人混みに向かって叫んだ。それは嬌声にも似た嗚咽だった。

 そんな少女に数多の視線が突き刺さった。遠巻きで眺めるような、決して関わらないという意思を宿した目で。

 それは少女の人生にこれから先、いつまでも付き纏うことになる視線だった。


まってよ。

 地下へと向かう階段を歩く清子に、微かに、少女の声が届いた。少しだけ先ほどの興奮が息を吹き返した。けれど、それも階段を降りきった頃には消え去っていた。


かわいそうに


 そう呟いて、足取り軽く、清子は地下に吸い込まれていった。

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