ついている日

百田 万夜子

「今日は、ついているのかもしれない」

2019/1/8


【男】


「今日は、ついているのかもしれない」


男は思った。


ついていないけれど、ついているのかもしれない、と。



男が新幹線に乗っている時。疲れていたのだろうか……。ふとした拍子に、飲み掛けの酒の缶を落としてしまった。

勿論、中身は溢れていく。白い泡で床に線を引きながら流れていく。


「あぁ」しまった。


自業自得だが、皮靴を水没させてしまった。困った。



「トイレットペーパーを持って来られると良いかと思いますよ」

女性の声が降ってきた。


……?


「あ、ああ。どうも」

なんて、気の抜けた返事をする男。


すると女性は困った様に笑うと、通路を歩いて行った。


……はあ。本当に、参ったなぁ。


びしょ濡れになった靴を呆然と眺めていると、再び声がした。

「今、駅員さんが来てくださいます」

先程の女性が、にっこりして男の前に立っていた。


「あ、ああ。ありがとうございます」

自然と安堵で口角が上がる。


「いえいえ」

途端、彼女の後ろから乗務員の若者が、キッチンペーパーみたいな紙を抱えてやって来た。女性が微笑む。


「すみません。紙を敷きますので、御降りの方は、ここ跨いでくださいね」

若者は、てきぱきと流れた酒の上に紙を乗せていく。その横で、相変わらず笑顔の彼女。


「大丈夫ですか? 御召し物の方は」乗務員の若者が屈んだ姿勢のまま、訊ねる。


「あ、大丈夫です」

……本当は、あまり大丈夫とは言えないが仕方無い、と男は心の中で苦笑する。



「そういう事もありますよ」と彼女が言った。それに男は、恥ずかしそうに笑う。


「では、お先です」

そう明るく会釈すると、女性は去って行った。





【女】


……今日は、なぜか ずっと悶々としていた。

気にしないようにと思っても、ふと気付くと、その漠然した何かに頭を悩ませているのだ。


女は、もどかしくて理由を後から考える。

しかし、それらしい出来事をいくつか見付けても、冷静な思考ではさして気に病む程の出来事ではないじゃないか…と更に混乱していた。



そんな出先の帰り。新幹線に揺られ、まもなく下車駅に到着します、というアナウンスに立ち上がった時だった。


ゴトン


突然、物が落下したのか、小さな鈍い音が聞こえた。


……?


音がした方を見てみると…最前列に座っていた初老男性が、床にビールの缶を落としてしまったようだ。


……あらまあ。と思うと同時に、放っておけないと思う。

女は、見て見ぬふりが出来ない性格だったのだ。


たまたま今立っているデッキは車掌室の直ぐ傍だ。

車掌さんを呼ぼうか……と考え、廊下を進むと……「あ!」

素晴らしいタイミングだった。

ひとつ向こうの車両から、乗務員の一人がこちらに向かって歩いて来た。


なんて偶然! ついている!!


女はすぐ様、乗務員の男性を呼び止め、簡潔に事を説明する。

幸いにも、迅速に対応してくれる乗務員に、好感を抱く。


酒を溢した男と軽く言葉を交わし、乗務員にお礼を言ったところで、駅に着いた新幹線の扉が開く。



女は、改札に向かう階段を下りながら思った。


「今日は…ついてないけど、ついていたわね」


……失ったものの代わりに、得るものもある。


ふと、頭に浮かんだ言葉は心地好かった。心のモヤも少し晴れた気がした。

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ついている日 百田 万夜子 @momota-m

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