第三話 龍狩り(りゅうがり) 2/3
鳥居の片方の柱にすがりながら鶏頭がそろそろと振り返ると、氷雨神社の門帳が大きく揺れていた。そういえば門帳に描かれている神紋、あれは何だろう。雲の意匠のような。見覚えがない。
「なんだ。危ないな、転がり落ちるではないか。も少し下がってくれよ」
襟にしがみついた中将の声で我に返る。そして自分がすがっている柱に眼を戻すと、白木だった鳥居がいつのまにか朱塗りの、巨大なものになっており、見上げると鳥居の上部、太い柱に横渡しされた
こちらからの渡り口を見るに、細いカズラのようなもので出来た吊り橋だ。藍色のかずらのようなものが荒く編まれている。橋床には所々薄い板状のものが編み込まれているが、どう見ても不安定である。それが長く長く空中に延びている。今は靄でかすんで見えない山向こうの二宮に続いているのだろうか。眼を凝らすと、橋の行く末、山向こうに鳥居の影がうっすら見える。
「漏刻博士もまた、渡るに渡れない橋を作ったものだ。どうする鶏頭」
「どうする、って」
軽業師にしか渡れないような吊り橋を眺めながら、鶏頭はそういえば、と中将に尋ねる。
「漏刻博士には会えなかった、といいましたね。この橋のことは一体誰に聞いたんですか」
「誰って、姿は見えなかったなあ、
「…影堂」
「相変わらずにぎやかでね。龍の話でもちきりだった」
鶏頭は黙り込んだ。館に集まってた奴らから聞いた、と中将は言っていたが、奴らとは影堂に集まった影たちだったのか。
漏刻博士の館には影堂という名前の堂がある。地下室のある堂で、近隣を浮遊する行き場のない影たちがそこに集まるように仕掛けがされている。
力のあるものの周りにはいろいろな流れができるものだ。
影堂に集められるような影たちには悪鬼悪霊の力はなかったが、あまりに集まるとどんな変化を遂げるやも知れず、清涼な風を保つべく、集められ、定期的に光を使って蒸散させられている。
鶏頭は自分の出自が浮遊する影のようなものだと思っていたので、以前影堂の影たちに苦手意識があったが、数回見た時はいつも陽気なうわさの井戸端会議中といった風だったので、自分とのあまりの性質の違いに、気にならなくなった集団だった。
影堂に集められると強制的におしゃべりになるのか、影堂の影たちは本当によく飽きもせず話つづけている。影たちがにぎやかすぎて漏刻博士が頭を悩ませていると聞いたことがあるが、それも影たちが話していたのを耳にしたのかもしれない。
「あの龍は長いこと地中で眠っていた高名な龍らしい。五百年前ほど前にここより少し北方の山の中に龍が数頭住んでいたが、どうやらその最後の生き残りではないかと影が言っていた。その当時の龍狩りのことを詳しく知っている影たちが言うには、その体から流れる血が金に変化する龍の一族だったらしい。その領地を統治していた戦国大名は龍の一族の平安と引き換えに時折龍から血から出来た金を受け取り、その資金力で大名としての地位を向上させていたが、やはり人の口に戸は立てられない、そのことが広く知れ渡ってしまい、その金が目当ての有象無象が集まってきて龍を狩ろうと大騒ぎになって…」
「龍殺しじゃないか、つまり」
鶏頭は思わず叫んだ。肩口の中将が耳をふさぐ仕草をした。
「そんなことなら、龍狩りなんてしないぞ僕は」
「落ち着け、鶏頭」中将はぽんぽんと襟を叩く。「漏刻博士もそんなつもりで龍狩りをしよう、などど言い始めたわけないだろう。もう絶滅したのではないかと言われている龍が本当にいるなら、大切に保護するに決まってるじゃないか。無論、二宮の人間たちが不明になっている問題はあるにせよ。何て言っても龍だよ。龍の為に御殿を一つ建てるくらいのことはあっても、龍の血を金になんて、いや、その変化は見てみたいと思うがねわたしなら。それにそもそも龍の血が金に変化するという錬金術が真実なのかというところからだが。いやわたしも影並みによく口が回るな今日は。ならこれも言っておこう」
中将は鶏頭の肩から飛び降りた。
「そもそもわたしもおたずねものだ。貴種の龍などと比べるのもおこがましいが、今回の龍の処遇には自分の行く末も重ねるというものだ。狩るとは言ってはいるが、それは参加する上での言い回しのようなもので、穏やかな未来を希望しているよ」
中将は氷雨神社の方へそろそろと進みながら、靄にけむるぐるりを見渡し、
「この中は自由に動けそうだ。おや、佳人たちがいつのまに」
などと走っていくので、鶏頭もやむをえずその後を追うと、氷雨神社の門帳をくぐって階を降りてくる舞装束の一団がある。そのままするすると出てきた人数は十人ほどか、手際よく神社の横に宴の準備を始めている。異国風の敷物をざっと広げ、白木の台をいくつか配して、そこに酒や馳走を並べていく。
男とも女とも見分けのつかない姿のよい佳人たちは、そろいの真白い狩衣に似たものを着ていた。宴の準備は滞りなく進み、十人ほどの佳人たちは車座になり酒を酌み交わし始めた。その端に中将は体の大きさを少し大きく戻して加わった。すんなりとなじんでしまう中将の背中をちょっと見つめた後、鶏頭はあたりを見回してみた。いつもの氷雨神社の前の広場は小型のブランコなら4台も置けばいっぱいになってしまうほどの狭さで、石段をのぼってすぐの場所にある白木の鳥居はそっけない鉄棒のようなのに、今のこの光景は神威ここにありといった風だった。
龍狩りのために橋を架ける、と先刻中将から聞いた時、鶏頭は単に自分たちのように龍狩りに参加する者の相互の移動をたやすくする為に漏刻博士がその異能を使うのだろう、と考えたが。
これは、違う。
「おや、何か渡ってきた」
佳人の誰かが明るい声を上げる。応えも明るい。
「龍か」「いや、龍じゃない」「金狙いの盗人たちか」
その声に山向こうを見ると、朝靄の中、橋が揺れている。
吊り橋を渡って来る者がいる。それも、大勢だ。
鶏頭は朱塗りの鳥居の柱にすがりつきながら、橋の向こう側に眼を凝らした。渡ってくるものたちの姿はまだぼんやりとしか見えないが、なぜかその中に
「あんなにいっぺんに渡ったら、このカズラ橋のような造りだ、切れてしまう」
鶏頭が考えていたことを、いつの間にか肩口に戻っていた中将がつぶやいた。また小さくなっていた。
「それにしても、うまいこと渡るな」
「それはそうだ、あれは幻影だ。あの龍の血を求めて群がってきたやつらの欲がよほど強かったのだろう、龍が眠っていたどこかの洞窟か地下かに長い年月消えずに一緒に封じ込められていたに違いない。龍の体にまとわりついて一緒に残っているんだろう」
「ということは、龍はあの近くにいるということか」
「おそらく」
その時、幻影たちの後方、幽かに見える二宮の鳥居の手前、吊り橋の上に突然火花が散り、怒号が狼煙のように上がった。
幻影たちとは別に、また新しく団体が吊り橋を渡ってくる。吊り橋の半分ほどに達していた幻影たちを追いかけるようにやってきたものたちは。
「ずいぶんとにぎやかな」
「妖に、半妖に、人間に」
「ああ、落ちたぞ」
「あっちも落ちた」
鶏頭のすぐ隣、宴の車座から離れて吊り橋の様子を見に来ていた佳人がふたりひそやかに笑った。中将と同じく鉄漿を施した口元には美しく紅もさしており、姿の美しさとともに衣に焚き染められた香が見えるほど薫る。
佳人たちの言葉通り、びっしりと吊り橋に連なったものたちは実に様々で、そして時折吊り橋から足を踏み外して落下していた。悲鳴を上げるものもいる。
落下。
今やあたりの風景は常とは違っていた。眼下にはもはや雲海としか見えない靄が溜まり、すぐそこにあるはずの町の気配が全くない。八坂神社の本殿裏手から気軽に上った先にある奥社がこの氷雨神社のはずだが、峻険な高山が連なる山岳地方の小鑓の上に建てられたもののようだ。吊り橋はまるで虹の高さにかかっているようで。
「落下したら、どうなるんだろうね」
「龍に血を流させて、金に換えようとしている奴らなど皆落ちたらよい」
「いや、下にいるものが危ないだろう」
「靄の中には漏刻博士のカラスが多く飛んでいるようだから、どうにか助けているのではないか」
佳人たちの会話を聞きながら、鶏頭は近くにいるであろう龍を探して吊り橋を見つめていた。その眼が、先日見かけた三人組のカマイタチを捉えた。
そろいの
吊り橋は縦一列にならないと渡れないらしく、姿もふるまいも出自も存在もばらばらなものたちだが、縦一列に順番に渡ることは静かに守られていた。カマイタチの三人組は、松明を振り回している巨大なヒキガエルと、筋骨隆々とした上半身をさらした色黒の男ふたりの間におさまっていた。橋は絶え間なく上下左右に揺れており、カマイタチたちも横に渡されたかずらにしがみつくようにしてそれでも前に進んでいた。
「なぜ皆、この橋を渡ってくるんだろう」
鶏頭の言葉は靄の中で、ぽんと響いた。すると隣にいた佳人だけではなく、車座になっていた他の佳人たちまでもがどっと笑った。
「おもしろいことを言うお方だぞ」
「決まってるじゃないか」
「これが、狩りなのだ」
「これが龍狩りに決まってる」
「知らずにここにおいでとはこれまた面妖な」
「こうやって龍と龍を害するものらを集めて一網打尽にするのよ」
「龍をつかまえるのは龍のため」
「龍を害するものをつかまえるのは龍のため」
「龍はそもそも神のつかい」
「さあ今日はいかなる神がおいでになるのか」
「わたしはかの神ときいたぞ」
「龍狩りといえばかの神」
その時、氷雨神社の門帳がおおきくはためいた。それまで何もなかった階の上に、真白い装束のひとりの青年が立っており、そのまま宙を大股で歩き、鶏頭たちがいる鳥居の笠木の上に静かに降り立った。
一同凍り付くのみ。
しばらくして息を細く吐いた鶏頭の耳元で、中将がかすれた声でつぶやいた。
「あの方は、
鶏頭はこれまでに、神が具現化した姿を五回見たことがあった。しかし、この同じ空間に立つ神を見た今ほどに、ただ恐怖したことはなかった。
頭上にいる青年の姿に化身した
八坂神社の主祭神と縁が深いので、名前はよく耳にするし、宮司たちが唱える祝詞の中に上がりもする。刀ではあるが、伝説では美しく強い守り刀でもあり、むしろそちらの特性を普段はこちらが勝手に抱いているのだが。
今の布都御魂は、こちらの魂さえ切り捨てる破壊神だ。
青年姿の布都御魂が顕現し、巨大な鳥居の笠木に飛び乗った数十秒、その場にいた神以外の者はすべて、それこそ靄さえもひとまわり縮み凍り付いていたが、神がその鳥居から吊り橋に飛び降りた瞬間、一気に解凍されたように動き始めた。そして青年の右手には大弓のような大刀が。
悲鳴。破裂音。空気の裂ける音。
吊り橋が音波計のように揺れる。神はその吊り橋を軽やかに跳ねていく。その中をこちらに渡り切ろうとやってくるものたちを鶏頭は鳥居の脚にしがみついてただ見つめていた。妖とも人間ともわからない混ざったものたちが鳥居をくぐり、境内に流れ込んできた。
氷雨神社の境内にいた佳人たちは宴の途中ですべてを放置して本殿の中へ走りこんでいく。
その時、
「龍だ」
誰かが、叫んだ。
そして鶏頭は見た。吊り橋の中央あたり、刀を振り上げた布都御霊から逃げてくる双頭の龍がいる。
双頭の龍は意外なほど小さかった。姿は以前映画で見たコモドオオトカゲによく似ているように見えた。全身は紫水晶のように堅く光っている。体のあちこちから彼岸花のように血が噴き出していて。
その龍がスピードを上げ、鳥居を滑るように潜ったと思うと、その場に横倒しになってしまった。まだ鳥居の脚にすがっていた鶏頭のすぐ脇だった。
「血が金になるぞ」
「刺せ」
「突け」
先になだれ込んで来た龍目当ての衆が、急に活気を帯び、倒れた龍に飛びかかろうとする。
鶏頭は思わず龍に飛びついた。覆いかぶさると隠せるほどに双頭の龍は小さかった。ひんやりした鱗と吹き出し続ける血。
「お前、独り占めする気か」
怒号とともに背中を蹴られる。頭を殴られる。
その中、鶏頭はカマイタチの薬を素早く取り出して、龍の全身に振りかけた。血を止めなければ。死んでしまう。
「鶏頭、お前が死んでしまう」
鶏頭はひどく殴られ続け、半分朦朧とする中、中将の声を聞いたが、体の下にかばった龍が回復するかどうか、それだけが気がかりだった。カマイタチの薬は万物に効くというが、果たして龍の傷を治せるものなのか。いや、治してください。
「鶏頭、ふ、布都御魂が…」
一瞬気を失っていたらしい鶏頭は、襟首にしがみついた形の中将に頬を叩かれて眼を開けた。小さな中将。逃げればいいのに。
そして、もう殴られていないことに気づいて、のろのろと眼を開けると。
すぐそこに布都御魂が立っていた。
遠目に青年と見えた神の、深淵の瞳を覗き込んだのは一瞬だったが、鶏頭の全身が総毛立った。
怖い。
鳥に変化してここから逃げなければ。
しかし変化どころか指先ひとつ動かせない。
その次の瞬間、鶏頭は鳥居を抜け、崖から飛び降りていた。
覆いかぶさっていた龍が飛んだのだ、と気づいたが、落下しながら見上げた巨大な朱塗りの鳥居の脚の間から、吊り橋を渡ってきた一同も一気に吹き飛ばされて落下してくる。
そしてその後に現れた布都御魂も、地を蹴って、美しい跳躍で飛び降りてきた。
あとは、雲海の中。
すぐにカラスの群れの中を通過し、それで加速が抑えられのか、一同はどうにか無事に地面に着地したが、逃走する龍に運ばれるかたちとなった鶏頭と中将はそのまま境内を遁走する。
龍の背中に腹ばいでしがみつきながら、鶏頭はあたりの風景が、いつもの八坂神社であることを確認した。奥社へ続く石段も見える。いつもの境内なのか。
そのまま、カラスの群れが低空で飛んでいる本殿の脇を抜けた。
ああ、龍は鐘楼をめざしている。鶏頭は手のひらに、ひんやりとした鱗をつかのま感じた。
そして龍は鐘楼にたどり着くと基壇を飛び上がり、梁から釣り下がる鐘の中に吸い込まれるように隠れたのだった。
基壇に飛び乗る衝撃に振り落とされた鶏頭と中将は、鐘楼の床に転がって、釣鐘の中に隠れた龍を見ていた。影の中でも四つの眼は光っていた。
すぐに布都御魂はここへ来るだろう。そうして多分龍はあの霊刀に切られてしまうのだろう。
鶏頭は立ち上がろうとしたが、うまく立てない。見ると、膝から先が両方とも変な角度に曲がっていた。折れたようだ。
「中将、撞木を。縄を解いて」
「え」
「鐘をつく。早く、あの縄を」
中将は気圧されたように、それまでつかまっていた鶏頭の首から離れ、柱に止めてある縄をほどこうとするが、うまく外せない。
青年神の気配が近づいてきた。
鶏頭は両腕で這い、撞木をほどくのに手間取る中将を手伝おうとしたが。
その鶏頭の手を取り、縄を握らせたものがいる。
眼を上げると、漏刻博士だった。漏刻博士は膝立ちになり、鶏頭の手のひらに縄を手早く巻き付け、そして言った。
「名案だな、鶏頭」
鶏頭はひとつうなずいて、そして撞木を引いた。
もう今はなくなった羽が欲しいほどに疲弊していたが、しかし今この場に鐘をつけるのは鶏頭しかいないのだから仕方ない。中将はここでは小さなままだし、漏刻博士はもともと鐘をつくことは出来ないのだ。
臍下丹田を起点にして、上半身を後ろに倒して力をため、そして鐘をついた。
常の世に流れる風が、この時の鐘だ。
朝から夕に流れる時の流れを進める櫂が、この鐘だ。
今は時の鐘ではなく、幻惑の靄を晴らす柏手(かしわで)の役割で。
美しい刀の神よ、お帰りください。
鶏頭は四つ鐘をついた。
双頭の龍の眼の数だ。
四つ鐘をつきおえた鶏頭は、そこで気を失った。
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