第三話 龍狩り(りゅうがり) 1/3






 漏刻博士がこの朝、龍狩りの為に橋を架けるという。

 八坂神社の奥社おくしゃから、二宮である八雲やくも神社に。

「ほんの半時ほどしかその姿が保たれない橋なので、うっかり渡り損ねないように」

 少し自慢げに、このニュースを告げに来た中将が笑う。




 中将がやってきたのは、鶏頭が朝六時の鐘をつきおわり、やはり今朝も二宮の鐘は聞こえなかったなと思いながら撞木の縄を柱にくくりつけていた時のことだった。社務所の方向から見覚えのある銀色のサバ猫がやってきた。そのまま拝殿を背に、参道をまっすぐこちらに向かってくる。

 ただのんびり歩いているだけなのに、鶏頭はその猫の太い足の運びの優雅さや、煙水晶のように虹彩が光る大きな両目や、きらきら朝日に光るボサボサした銀色の体や長く泳ぐ尻尾に、トラ科の猛獣を連想する。アフリカのサバンナや中国の奥地やどこか美しい断崖絶壁を自由に移動しているような風格があった。

 その猫は融たちがアパートで飼っているサバ猫で、名前はギルという。そういえばこの猫は、アパートの二階の壁をぶち抜いた猫ドアで二階を自由に移動させている完全家猫で、境内をこのように歩いているところなどこれまで見たことはなかった。うっかり外に出てしまったのかもしれない。一応つかまえておこうかとそっとかがむと、猫の背中に乗っていた中将と眼が合った。

 中将は手のひらに収まるほどの大きさに変化していて、まるで鞍なしで乗馬を楽しんでいる貴族のように猫の背中に乗っていた。鶏頭が呆然と見つめていると、中将は小さな手で背中の毛並みをなでながら何やら猫に話しかけたかと思うと、立ち上がり、軽やかにひと飛びして、かがんでいた鶏頭の背中へと飛び乗ってきた。

 思わず固まった鶏頭の背中を、さきほと猫にしたようになでた中将は、肩口にするすると登ってきて腰かけてきたので、鶏頭は背をそろそろと伸ばした。乗り継ぎ元の猫はといえば、くるりと向きを変えて社務所の方へ駆けていく。

「大丈夫、ギルはちゃんとアパートに帰るから心配いらないよ」

「それはよかったです。それにしても、なんでギルに乗ってたんですか」

 猫は社務所の裏にあっという間に姿を消していった。

「結界の中だと動きにくいんですよ。あなたが鐘をつきに来るのは分かっているから、今朝早くからここに来たかったんですけど、なかなか先に進めなくて。そうこうしてたら鐘が鳴り始めたからね、だからアパートに戻って、ギルに連れて行ってくれるように頼んだんです。思ったとおりこの結界の中を移動できる生き物の付属物になってしまえば、問題なく動けたな。それにしてもあなたはいつも楽々動いててすごいよね」

 つるつると語りながら、両手をさかんに振り回したり、足をぱたぱたさせるので、鶏頭はつい中将の落下に備えてしまう。

 結界。

 鶏頭は漏刻博士からこの神社の結界内でも楽に動けるように「通行手形」をもらっていた。いつも身に着けている楕円形の薄い板だ。水晶のような半透明の美しい板で、そのままだと当たる箇所がそれこそカマイタチの仕業のように切れそうな板だ。漏刻博士はそれを入れる小さな袋もつけてくれた。刀のこしらえにも使う白い鮫皮で出来たもので、鶏頭はその袋をいつも首からさげて衣服の内側に隠している。

 この八坂神社の境内は山を含んで広大で、垣や塀や壁を使ってここから結界であることを示している区間はわずかな部分だけだった。神域も広大ならば神威も強大で、なるほど、一介の妖がこの境内を動けるはずもなかった。

 ならばギルは一種の神獣のようなものか、と愉快に思うが、肩口で飄々としている中将にとっては自分は神獣どころか都合のいいただの運び屋になってしまっているわけだ。それにしても。

「あなたは融の部屋に住んでいるのでは。わざわざここに来なくとも」

 聞きながら、先ほど『アパートに戻って』と言っていたことを思い出す。

「成程、どこかへお出かけでしたか」

「そう、漏刻博士の館にね。ぜひとも龍狩りに参加したかったので、捜索隊に入れてもらうように頼みに。結局漏刻博士とは会えなかったのだけれど、館に集まってた奴らにいいことを聞いたよ。まあそれは道行にお話ししよう。さあ奥社へ急がねば、橋が消えてしまう」

 勝手な言い草で、足をばたばたさせる。

 そもそも龍狩りに参加するとは一言も言っていない鶏頭だ。確かに先日やってきた黒衣男には龍狩りに来るように誘われたが、返事はまだしていないし、二宮の混乱は一介の時守の自分からも想像できて、部外者の自分が面白半分に参加していいのかどうかも判断がつきかねていた。

 それがこの急展開だ。信用以前の関係しかない中将の言葉だけで動いていいものか。

 鶏頭はため息を一つついて、それでも中将の言うとおり、奥社へ向かうことにした。

 奥社に行くだけならいいだろう。この八坂神社の中なら安全だ。




 八坂神社の境内周辺には摂社せっしゃ末社まっしゃが数多く存在するが、奥社おくしゃと呼ばれるのは通常ただひとつ、氷雨神社だけ《ひさめ》だ。

 神楽殿と蔵殿を横目に、拝殿と本殿の裏に回ると、透塀の間に作られた小さな神門から石垣が奥に続いている。しばらくはゆるやかな上りだが、途中から急勾配になり、山の頂上にある氷雨神社へとたどり着く。少し体力のいる散策だが、参道の両脇には四季折々の木の花が配置されているし頂上からの景色も爽快なので、鶏頭が時々通う道でもあった。

 この朝はそういえば境内に人影がない日で、中将を肩に乗せた鶏頭が奥社への石段を登り始めた時もあたりには誰もいなかった。早朝の森は秋の気配がした。頭上の木立の切れ間から見える青空も高くなってきた。レンズ雲や羊雲のような優しく細かな雲も見える。

 しかしそうやって気分よく進んでいたのはものの数分で、石段の勾配がきつくなってきたころから、あたりに朝靄あさもやが立ち始めた。一気に視界が悪くなる。森の匂いがきつくなった。

 しかもなかなか氷雨神社にたどりつかない。

 思わず石段の途中で立ち止まる。見上げる先の石段はまだまだ続き、靄に消えている。来し方を振り返ると、遥か下界にうっすら登り口の神門が見えた。

「なに立ち止まってるんだ。早く上がらないと」

 肩に乗った中将はのんきなものだ。

「いや、こんなに奥社までは遠かったかなと思って」

「そうだったか。忘れたなあ。ここまで来たのは何百年ぶりかだからな」

 と、やはりのんきなものだ。立ち止まっていても仕様がないのは事実なので鶏頭はまた石段を登りはじめた。

 しばらく無言だった中将が退屈になったのか話し掛けてくる。この山にいる獣や昆虫の話をしていていたようだが、鶏頭には半分も分からなかった。そのうち鶏頭の名前の話になった。中将が「ケイトウの花の名前からとったのか」などというので、鶏頭はすっかり嬉しくなり、機嫌よく石段を上っていたが、さすがに汗が顎からしたたり落ちるようになっても、氷雨神社の流造の屋根が石段の向こうに見えてこない事に、何かが起こっているらしいと気づいた。

「どうした鶏頭」

「…いや、だっておかしいだろ、ちっとも奥社にたどりつかないんだぞ」

「何言ってるんだ、ほら見えてきた。もうすぐだよ」

 小さな指が石段の上を指し示す。なるほど、屋根が見えてきていた。残りの石段を一気に上ると、そこは氷雨神社だ。この山の頂上のひとつを切りひらいて作られた境内に流造の本殿ひとつがちんまりと建っている。鶏頭もここに上ってくるのは一週間ぶりだったが、朝靄の中の境内は見たこともないほど美しかった。

 敷き詰められた石板や砂利が薄紫色の水晶のように光り、本殿は形こそそのままだが柱も床も階もなにもかもが新しい木材で作られた建造物になっていて、更に正面には白い門帳もんちょうが紫紺の神紋入りでしつらえられていた。なにより境内の入口に鳥居があった。白木の鳥居だ。

 鳥居。鳥居などここにはなかったぞ。

 ここはどこだ。

 鶏頭は元来た参道の石段を振り返った。駆け下りていこうと思ったのだ。しかしそこには何もなかった。断崖絶壁の際に鶏頭は立っており、眼下には雲海が広がっていたのだった。

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