第二話 鶏頭(けいとう)3/3




 見事な夕焼けと先刻の話で酔ったような気分になりながら、鶏頭は社務所の裏の森の中にあるアパートに足を向けた。融に頼まれた用事があるのが、何やら有難い。

 黒衣男はあの後石段を軽やかにまた降りていったが、どこに行くのかは聞きそびれた。七宮の形代もしばらく境内を飛び回ってから飛んできた方向へ戻っていった。

 鶏頭はいつも皆に置いて行かれる。

 社務所の脇を裏へ回り、関係者以外お断りの看板つきの門を抜けて、アパートに続く森の小径を進む。森の中は暗くなにやらほっとする。虫の声が四方八方から響いている中、アパートに近づくにつれて、ピアノの音が小さく聞こえてきた。

 つづみが弾いている音だ。

 鶏頭には鼓のピアノが上手いのか下手なのかはよく分からなかったが、彼女は鍵盤を強打しないのでそれが気に入っていた。ずっと弾いている時など、あまりに主張のない音なのでピアノが鳴っているのを忘れてしまうほどだった。それが心地よかった。

 鼓のピアノを聞くのは一週間ぶりだった。どこかに出かけていたのだろう。

 兄の融ほどではないが、鼓も出張が多かった。

 夕日に染まった自分の部屋に入ると、建物の壁や床を伝ってくるピアノの音が細く聞こえてくる。夏の熱気がこもったままの部屋は夕方になっても暑く、二か所の窓を全開にした。外の音が熱気と入れ替わりに流れ込んできて、それで融に頼まれていたことを思い出し、部屋の真ん中に立って階上の音に耳を澄ましてみるが、ピアノの曲がショパンの有名な曲だなと分かったくらいで、侵入者の物音はしない。

 天井を何かで突いておこうと部屋を見渡した。

 部屋の隅に立てかけた大きな姿見に自分の姿が映ったので、ちゃんと人間に見えているか素早く見分する。夕焼けに染まった鏡の中で、自分が朝と同じなのかどうかはっきり自身は持てない。

 そのまま部屋をざっと見回したが、結局部屋の中には天井に届くような棒状のものはなかったので、後で融の部屋のドアをノックしにいくことに決める。

 冷蔵庫のよく冷えた水をコップ一杯飲んでから、部屋の真ん中のソファに座り、なんとなく向かいの壁際に置いたテレビをつけた。入れっぱなしのDVDを再生する。この一週間ほどずっと見ている映画だ。部屋が暗いので液晶がぴりぴりと光り、それで少し落ち着いた気分になる。暗い中で映画を見るのが、鶏頭は好きだった。

 鶏頭はいくつもの映画を繰り返し見て、長い時間をかけて自分の容姿を人間に改変していった。最初はこの部屋の前の住人と一緒に、そのあと一人になってからは、置き土産の映画のビデオやDVDやらを見ている。

 その時見る映画によって鶏頭の容姿は少し風貌が変わるらしいが、髪の毛だけは呼び名の通りいつも赤いくせ毛の短髪なので、長いつきあいの人間は鶏頭を見誤ることはほぼなかった。

 画面は主人公の少女が長いブランコに乗っている場面を映していた。消音にしているが何度も見た話しだったので内容はなんとなく分かる。それに内容は鶏頭の目的にあまり関係なかった。自分の容姿をひとがたに保つために、ふるまいが人間らしく保てるように、鶏頭は映画を流し見していた。

 それでもやはり好みの映画というのがいくつかあって、いまの映画もそのうちのひとつだった。主人公の少女の喜怒哀楽が抑えめなのも好ましかったし、ふるまいの色々が豊かで興味深いシーンも多かった。このブランコのシーンもお気に入りのひとつだ。 鶏頭はこの映画を見てからブランコに何度も乗ったが、この主人公ほど大きなブランコに豪快に乗れたことはない。それに昨今はブランコは公園から撤廃されるか、小さくしか揺れないようになっている。先刻いた公園にもブランコはもうなかった。

「なんで音を消して見てるんだい」

 声がする方を見る。開け放った南の窓枠に、水干烏帽子の男がもたれかかっていた。画面の明かりが白い顔にちらちら光っている。

 鶏頭は飛び上がった。ソファから転がるように部屋の隅に逃げる。

 そして窓際に男の姿を探したが、もうそこには誰もいない。

 しかし。

「これ、なんて映画」

 声がして眼を上げると、今自分が転がり落ちたソファにその男が足を組んで深々と腰を掛けているのだった。その眼は相変わらず画面をじっと見つめていて、こちらには横顔をさらしたままだ。

「タイトルは映画の最初に出るんですけど、ちゃんと覚えてなくて…」

 答えながら鶏頭は正座になった。

「もしかして、融の部屋に勝手に住み着いている奴って」

「トオルって」

 こちらを見つめて尋ねられ、鶏頭は天井を指さした。

「そうだったな、あの部屋の主はトオルというのだった、それも縁だな。いやもしやそれもあってここの扉を開けたのだったか。そう、それは『中将ちゅうじょう』と呼ばれているあやかしだ。ちょっと前からこのアパートに住み着いてるが、家主の部屋を使うのは、トオルが留守の時だけにしている」

「そしてそれはあなたですよね」

「そうだ」

 満面の笑みに、鉄漿おはぐろを施した歯が口元からのぞいた。その笑顔のまま、鶏頭の方をのぞきこんだ。

「貴殿は人に見えるが、人ではないのか。白い鳥になって鐘楼に飛んで来たのを見たぞ」

 鶏頭は両手を握りしめた。人に見える、と言われたのが嬉しかったのだった。そのせいで中将の言葉の続きを聞き逃した。

 早口で何やら語った中将は、最後に、「では付いていくぞ」と締めくくり、ベランダに続く掃き出し窓へ、その向こうの夕焼けへと歩いていく。逆光の水干の夏絽が映画の光を反射して、以前見た映画の中の小さな怪獣のように見えた。

「付いていくって、どこに」

 慌てて鶏頭はその背中に尋ねるが、その姿はすぐに消えてしまった。

 夕闇がますます暗くなっていく。わずかな時間空全体が銀色になった。太陽が沈んだのだ。

 その銀色の光の中、幽かに、「龍狩りに付いていく」という言葉が残っていた。

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