第二話 鶏頭(けいとう)2/3
夕暮れが濃くなってきた。
八坂神社の西楼門の上を通過したところで背面に一回転して、茜色の海底に降りる心地で鐘楼の傍に
鐘楼は釣鐘の巨大さ故、地面に踏ん張るように単層で建っているが、八坂神社自体が山の中腹に建造されているので、鐘に向かい撞木を構えると、眼下の町とその向こうへ続く丘陵、さらに山々が一望出来る。音を空へ向けて打ち放つ設計だ。
そろそろ時間だ。
鶏頭は基壇に飛び乗って、鐘楼の空間に収まる。
八角形の瓦屋根の内側、黒々とした梁から吊り下げられた釣鐘の表面、そして屋根を支え鐘の重さに耐える四脚の太い柱にも、全体にびっしりと曲線の模様が浮き上がっている。それらは読めない漢字のようにもつる性植物の意匠のようにも見える。その模様たちが鐘をつくべき時を教えてくれるのだ。
鶏頭は撞木に結いつけられた二本の太い縄を手のひらに横巻にし、かかとを支点に体重をかけて撞木を引いた。その姿勢のままその時が来るのを待つ。
しかし、なかなか合図が来ないのだった。
いつもなら、漢字のようなつる性植物のような意匠たちが本体から剥がれ、鐘楼の空間内を踊り始めるのだが。
鶏頭がどうしようもなく撞木を構えた姿勢のままどのくらいたっただろう。見渡す風景のどこかからピピっと電子音がいくつも響いた。風鈴の音のように、電子音は数百メートル先であってもよく走る。そしてそれはどこかの誰かの時計たちが午後六時を知らせたアラーム音なのだった。
暮れ六つの鐘は電波時計のようにぴったりである必要はそもそもないのだが、それにしても今日は合図が遅い。一宮のこの八坂神社の次に鐘をつく二宮に、これから鐘をつくから、そちらも準備するように、と知らせるための捨て鐘三つさえも打っていないのだ。そもそも合図を送ってくるのは、二宮の近くの丘陵に館を構えている漏刻博士なのだが、何かあったのだろうか。
今更ながら、鶏頭は夕空の中にカラスの影を探した。漏刻博士は使いにカラスたちをよく使う。
しかし今は使いのカラスどころか生き物の姿が空にまるでなかった。夕刻巣穴に群れで帰っていく鳥たちや、不規則な軌道で飛ぶ
その遠いジェットエンジンの音が聞こえ、今更ながら気づいたが、蝉が全く鳴いていないのだった。
妙だ。
のろのろと鶏頭は構えを解いた。鐘が鳴らないようにそっと撞木を戻していると、ぱたぱたと乾いた音が近づいてきた。
それが境内に続く長い石段を駆け上がってくる足音だと分かった時には、黒衣男の姿があらわれ、南の神門をくぐって境内に飛び込んできた。いつもの白猫も右肩に両前足をかけて背中におぶさっている。
そのまま基壇のすぐ傍まで滑るように走ってきて止まった。青い目を光らせる。肩から顔を出している白猫の眼も青く光った。黒衣の男は息も乱さず静かに声を掛けてきた。
「早く、鐘をついてください。ちょっと問題が起こって、漏刻博士が合図を送れなくて」
「ああ、はい」
これまでも黒衣男が漏刻博士の伝言を持ってくることはたまにあった。鶏頭は深く考えず、鐘を打つ動作に入った。まず捨て鐘を三回打つ。そのあと、丁寧にいつものように六打したが、その途中で二宮が鐘をつきはじめないのに気付いた。
しかし遅れてすぐに三宮が鐘をつきはじめた。そこから四宮五宮と順々に鐘をつき、夕空に音の網が作られていく。
自分がつく鐘を口切りにして二宮三宮四宮五宮六宮七宮八宮の鐘の音がこの町の空で美しい網となるのが鶏頭の楽しみだ。各宮の鐘の音が皆微妙に違うし、毎回重なりが微細に異なるので、構成する糸は同じでも織られる柄が異なる風な即興曲となるのだった。
しかし今日は二宮の鐘が欠けている。
各宮の鐘をついているのが誰なのか、そういえば鶏頭はほどんど知らなかった。今、二宮の音が欠けている事態となって、いくつか時守の顔が浮かんだが、それは多分もう過去の時守たちばかりだった。
鶏頭はなるべく新しい知り合いを増やしたくなかった。
ひとまず鐘を丁寧に六打し、撞木をそっと元の位置に止める。手のひらにからめた長い綱二本を南東南西の柱にそれぞれひっぱって結び、撞木が風などで鐘をつかないように固定していると、周りの音や匂いや温度が戻ってくる。
蝉の声、町の音、空の音。夏の鷹揚な山の匂い。空を圧する茜に染まり、影の深い夏の積乱雲。
蝙蝠の変則飛行や隊列を組んで遠くを飛ぶ鳥たちの群れも見える。
眼下、茜に染まった川が七色にうねり、田圃の緑のほうが涼やかな一面の川面に見えたりする。その中を横切り、急行列車がのびやかに町を通過する。立方体の建物は東の面が夕日の反射光で桃色に光り町全体が精巧に作られたミニチュアのような風情になる。
今日はこういうふうに一旦空間から放り出され、また揺り戻される日なのだろうか、と積乱雲の濃い灰色の部分を見ながらぼんやり考えていると、東南の雲を背に、何かが超高速で飛行してきた。
近づくにつれ、それが銀色の形代だと分かった。銀の馬の形代だ。
形代は鶏頭と黒衣男の間の空間にひらりと止まった。手のひら大で、どうやら銀箔を貼られた紙のようだった。形代は通常白紙で作られる。鶏頭は銀の形代を見たのは初めてだったが、なにやら威風堂々という風情で、形代としての力が強そうだ。
この形代は、なかなか鐘が鳴らなかったので何事が起ったのか理由を探るため、この八坂神社と、おそらくは二宮にも飛ばされてきたのだろう。
「七宮には決まった時守は確かいなかったから、これを飛ばしたのは禰宜か権禰宜か」
言いながら人差し指で招くと、形代がその手に飛び込んでいく。
左の手のひらに乗せた形の馬の首のあたりを白猫とふたりで匂って、黒衣男はにやりと笑った。
「あの新しい権禰宜だね、花の名前の。レンギョウ…は五宮の宮司か。ええと何だったかな、まあちょうどいい、七宮にも伝えてくれ」
鶏頭は基壇を降り、黒衣男に近づいた。
どの種類の話か見極めるべく黒衣の男と白猫の青い目を見つめてみたが、どのみちいつも悲しそうに見えるので分からないのだった。
そして黒衣の男が告げたのは。
「二宮の鐘楼近くの洞窟で、今朝、龍が見つかったらしい」
「龍」
「そう、龍だ」
そこでまず鶏頭と黒衣の男と白猫と銀の馬はそろって黙り込んだ形となった。
「龍はもういないと思っていたが」
代表して鶏頭は一応口に出してみる。それに。
「それに、らしい、っていうのはどういうことだ。見つかったわけではないのか」
「そう、そこだ」黒衣の男は肩をゆらした。少しずりおちかけていた白猫が背中を少し上る。
「というのも、誰も龍を見ていないからだ。これから捕獲に行く、と今朝社務所のものに言い置いて出かけた権禰宜は出かけたきり、昼間になっても帰ってこなかったので、数名でその権禰宜と龍のいそうな洞窟を捜索したらしいが、どちらも見つからなかったらしい」
「…その権禰宜のでまかせじゃないのか、二宮に単に不満があって出ていきたくて」
「それがね。昼過ぎにもう一人、同じく龍が見つかったと言い出した権禰宜がいたらしくて」
「まさか」
「そう、そのまさかだ。その権禰宜も消えてしまった。それで二宮は騒ぎになってる」
鶏頭は二宮のある山を思い浮かべた。中世に修験者たちの修行の場として有名だったあの山には数えきれないほどの洞窟があった。
龍というのはありえないにしろ、そう見間違うような猛獣が迷い込んだとしたら、捜索するには危険この上ない地形だった。
「まさか今は龍探しの最中なのかい」
「いや、話が漏刻博士のところに届いたのがついさっきで、日も暮れるし明日の日の出を待って探すことになった。ふたり行方不明になっているから、二宮の面々が怖がってしまってるようで、三人一組くらいのチームで捜索したいという希望も出ていて」
「なるほど」
それはそうだろうと安堵する鶏頭に、
「鶏頭も来るかい。七宮の希望者も参加していいよ」
入場無料のイベントにでも誘うような口ぶりで鶏頭と形代に向けて黒衣男が笑い、指先で肩につかまっている白猫の顎の下をなでる。
明らかに楽しそうなその青い目に、鶏頭の記憶が突然よみがえった。
鶏頭がカマイタチをやめたのはこの黒衣の男と白猫がきっかけだった。
標的に定めた黒衣の男を一人目が転ばせ、二人目が切り、三人目の鶏頭がいつものように素早く薬を塗っていたとき、黒衣の男と一緒に転んでしまった白猫の脚からも出血していることに気づいた。それで白猫にも慌てて薬を塗り、傷がみるみる糸になり消えていくのを確認してほっとしたのだが、その間に前のふたりに置いていかれてしまったのだった。急げば追いつけたのかもしれないが、そういう気にもならず呆然と座りこんでいる鶏頭に、その時もこの男は眼を輝かせて言ったのだ。
「よかったら一緒に来るかい」
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