第12話

「さっき……紡くんがお見舞いに来た時も言ったけれど、私、恋をしちゃいけないんだって思ってた。だってさ、恋って誰かを恋しく思う気持ちでしょ? 私は1年半後に死ぬってわかってるのに、誰かと心を通わせてしまったらきっと、失うのが怖くなるよ。いずれ近い将来に訪れる別れに怯えながら恋をするなんて、そんなの寂しい。私がいなくなったあと、私が好きになった人は——紡くんは、心に傷を負うことになる。そんなの……そんなの、あんまり残酷でかわいそうだって思う」


 絃葉の想いの一つ一つを聞き逃さないように、俺はじっと側で耳を傾けていた。とてもゆっくりとした歩みで、俺たちは進んでいく。海から遠ざかり、目の前に広がるのは山の奥へと続く道だ。


「だから私は恋をしないって決めたの。この気持ちは死ぬまで胸に抱えて生きていこうって。ほんとはね、文化祭の時から、紡くんのことが気になってた。でも、もうきっと会わないから大丈夫だろうって、この恋を封印してたの」


 カタカタと、歩道の横を生い茂る竹林が風に揺られて音を立てる。絃葉の声が、木々のざわめきや鳥のさえずりと混ざり合っても、俺にはくっきりと響いて聞こえていた。


「でもさあ……出逢っちゃったんだもん。どうしてなんだろう。あの日、あなたが病院に現れて、私はこの恋が止められなくなった。まさか、憧れの先輩と言葉を交わす日が来るなんて思ってもみなかった。それと同時に思ったの。神様、どうして私を病気にしたの。どうして病気になってから出会わせたのって……」


 グサリと心臓を鋭利な刃物で突かれたように、彼女の言葉が痛い。


「病気になんてならなければ、私はあなたを素直に好きでいられるはずなのにっ……。ねえ紡くん。私はあなたを好きだけど、私を好きでいないで。だってやっぱりこの恋は刃だもん……! いつかあなたに抉るような痛みを、押し付けてしまう。だから、私のことは、もう忘れて……」


 嘘だ。

 忘れてほしくない。

 好きでいてほしい。

 彼女の心がそう叫んでいるのが聞こえた。

 絃葉の瞳が涙で濡れている。絃葉の心が泣いている。

 俺は、隣を歩く絃葉の手をぎゅっと握りしめた。もう片方の手でポケットをまさぐり、いつも彼女に見せていたものを、泣きじゃくる彼女の前に差し出した。


「違う。俺たちの恋は刃になんかならない。恋は、この糸と同じ。いろんな色に煌めいて、想いをつないでくれる糸や。だから俺は絃葉のことを離さない。絶対好きでいる」


 絃葉の顔に驚きの表情が広がる。俺の顔と、俺の手に握られた糸に視線を行ったり来たりさせている。そして、「この糸——」とつぶやいて、俺の目を再び見た。

 分かってる。分かってるんだ。

 絃葉の言いたいことが、俺にはすべて分かっている。

 この糸が、透明に見えていること。

 俺にはそんなふうには見えないけれど、絃葉の目には透き通って見えていること。

 白川さんが教えてくれた。

 俺が持っている糸が、透明に見えるのだと。

 それを聞いたとき、気づいたのだ。

 この糸は、とある条件を揃えた人が持つと、他人から透明に見える。それも、ある程度関わりの深い人からしか透明には見えないらしい。糸を持っている本人には、普通の糸に見える。俺がこの糸が透明になるのを見たのは、絃葉とばあちゃんが糸を手にした時だ。ばあちゃんは亡くなった。絃葉は余命宣告されている。ばあちゃんが持った時の方が、糸はより透き通って見えた。

 そして、俺が持っている糸は、きっと、もっと——。

 絃葉も同じ事実に気づいたのか、彼女の顔がみるみるうちに青ざめていくのが分かった。


「紡くん——」


 絃葉が何かを言いかけた、その時だ。

 キキーーッッ!

 けたたましいクラクションの音と、タイヤが地面を擦れるつんざくような音が耳に響いた。俺はさっと絃葉の身体に覆い被さろうとしたが、遅かった。

 絃葉の方が先に、俺を歩道の奥へと突き飛ばしたのだ。


「え——?」


 何が起こったのか、俺は瞬時に理解できなかった。突き飛ばされた衝撃で受けた身体の痛みに眉を潜めながら見たものは、絃葉の身体が宙に投げ出され、スローモーションのように地面に叩きつけられる光景だ。彼女の頭からウィッグが外れ、ポトンと少し先に落下する。彼女に渡したクッションは紙袋から投げ出され、遠くの地面に散った。

 アスファルトの上に、赤黒い血がじわじわと広がっていく。絃葉のむき出しの頭から流れる血は、救いようがないほどの勢いで俺の足元まで血溜りをつくっていく。


「絃葉……!」


 俺が身体を起こして彼女の元に駆け寄るとの、車の運転手が降りてきたのは同時だった。車は普通乗用車ではない。トラックだ。あんなのに突き飛ばされたんだと思うと、心臓が鷲掴みにされそうな痛みに襲われた。


「つむぐ、くん……」


 かろうじて意識があるようで、彼女はか細い声で俺の名をつぶやく。


「き、きみ、大丈夫か!? きゅ、救急車!」


 動転した運転手がそう叫びながらスマホを操作しているが、慌てているせいで、手からスマホを滑り落としてしまう。軽い音を立てて地面に落ちるスマホを、俺は奪い取って119番を押した。

 でも、ずっと身体は震えていた。

 なんとなくだが、分かってしまうのだ。

 絃葉はもう、助からない。

 俺の糸が透明に見えたことで、俺の命が残りわずかだと悟った絃葉が、咄嗟の判断で俺を突き飛ばしてくれたのだ。


「絃葉、な、なんで……ごめん! 俺のせいでっ」


 絃葉は力無く首を横に振った。


「この命……尽きるまえに、あなたを救えてよかった……。糸が、すきとおったから、あなたを助けられた……。紡くん、だいすき」


 一筋の涙が、絃葉の瞳からこぼれ落ちて、彼女はすっとまぶたを閉じた。


「待って……待ってよ……! 逝かんといてくれっ。俺はまだ何もできてないのに……っ」


 俺の言葉に、絃葉はもう言葉では反応してくれなかったけれど、ほんの少しだけ口元が微笑んでいるように見える。


「絃葉……俺も、好きや。一生、好きやから」


 遠くからサイレンの音が聞こえる。

 木々のざわめきも、鳥のさえずりも、何もかももう俺には聞こえない。

 絃葉の美しい顔を、俺はただ眺めて、身体を抱きすくめていた。


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