第10話


「結局このクッション、渡せへんかったな……」


 紙袋の中のクッションが、ずっしりと重たく感じられる。

 絃葉の喜んだ顔、見たかったなあ……。

 こんなんじゃ、天国のばあちゃんからも笑われるわ……。

 後悔を募らせながら家に帰ると、悲壮な面持ちをした俺に、白川さんが声をかけてくれた。


「紡くん、どうしたんだい? その糸、なんか透明に見えるんやけど」


「え?」


 一瞬、白川さんが何を言っているのか、俺には理解できなかった。

 てっきり意気消沈した様子の俺を気遣ってくれたのかと思いきや、「糸」と彼は言った。俺は、自分の右手に糸が握られていることに気がつく。ポケットに入れていたはずなのに、いつの間に——。

 いや、それより今、白川さんはなんて言った?

 確か、「透明に見える」って……。


「透明……? 透明に見えるんですか!?」


「あ、ああ。でもなんでやろ。普通の糸なのに、今一瞬、透き通って」


「おっちゃん、それってどれくらい? どれくらい透き通ってるん!?」


 俺はいつになく頭が熱くなり、白川さんに詰め寄った。


「そうやなあ。結構、見えなくなるぐらいまで、透き通ってるように見える。いやあ、この間紡くんが言ってたこと、ほんまやったんやねえ。俺の目が老眼でそう見えるだけかもしれへんけど」


 不思議、不思議、と笑いながら呟く白川さんとは裏腹に、俺の脳裏にはある言葉がぐるぐると駆け巡っていた。

 透明な糸。

 病気。

 ばあちゃんの死。

 絃葉の余命——。

 まるで一本の糸が繋がっていくように、ある事実が浮かび上がってくる。

 まさか……まさか、そんなこと。

 嫌な想像をしているだけだと頭を振り払っても、どうしても暗い予感がしてならない。

 違う。こんなの俺の勘違いだ。

 第一、そんな現実離れしたことが、起こるはずない——。

 必死に自らの考えを否定しようと思うのに、身体は勝手に、工場の外へと飛び出そうとしていた。


「紡くん、遊びに行くん?」


「違います! 彼女の元に……!」


 白川さんが、瞳を大きく開き、優しそうな微笑みを浮かべて「そおか。行ってらっしゃい」と手を振った。俺は、彼が何か勘違いしていると思ったものの、前に進むことをやめられなかった。



 先ほど帰ってきた道を、再び走ってバス停へと戻る。手にはクッションの入った紙袋を握りしめ、ポケットには糸を入れている。やってきたバスに素早く乗り込んで席に着くと呼吸を整えた。

 絃葉、絃葉、絃葉。

 先ほど彼女が見せた、切ない表情を思い出す。俺は、彼女の気持ちが分かるはずがないと思って、逃げた。

 諦めたんだ。そんな自分が情けなく、歯痒かった。

 もっと彼女と、話がしたい。

 残された時間が少ないのだとしても、彼女と精一杯の恋をしたい。その結果、俺が傷つくことになっても構わない。彼女には、いつもみたいに明るく笑っていてほしい。

 わがままな俺を、どうか許してほしい——。

 バスに揺られること約20分、俺は再び京丹後総合病院にたどり着いた。

 受付を済ませて彼女の病室へと向かう。迷いはなかった。


「絃葉! 一緒に出かけよう!」


「え、紡くん?」


 先ほどあんな別れ方をしたはずなのに、勢いつけて部屋に入ってきた俺の顔を見た彼女の表情に驚きが広がった。



「で、出かけるって、どこに……?」


「二人きりで話せるとこ。なあ、今日だけでも、いいよな?」


「えっ、でも……」


 絃葉の顔に戸惑いの表情が浮かんでいる。絃葉だって、俺ときちんと話したいと思っていることは、俺を見つめるまっすぐなまなざしを見れば明らかだった。

 ちょうどその時、病室の扉が開いて看護師が入ってきた。


「向井さん、調子はどう?」


 絃葉の様子を見にきた看護師が、俺の必死な形相を見て、首を捻る。俺は、ここだ! と思い、看護師に駆け寄った。


「あの、絃葉と外出をさせていただきたいんです。絶対危険な目には遭わせません。ちょっと、外の景色を見ながら2人で話すだけでいいんです。体調が悪くなったら、すぐに帰ります。だから許可してもらえませんか?」


 矢継ぎ早にそう告げる俺を、看護師はまじまじと見つめた。


「……先生を呼んできますので、ちょっと待っててください」


 俺の切実な思いが通じたのか、看護師は頭ごなしに突然の俺の申し出を断ることなく、絃葉の主治医を連れてきてくれた。

 主治医は30代後半くらいの男性で、すらりと背が高かった。この人から絃葉はずっと治療を受けているのかと思うと、ドクンと心臓が一回跳ねた。

 俺は、医者の前で今度は頭を下げる。


「絃葉と外出を、させていただけませんか」


 単刀直入にそう言うと、医者はすぐさま


「だめだ」


 と言った。


「ど、どうしてですか?」


 俺は震える声で尋ねる。


「絃葉ちゃんの体力と病状が心配だからだ」


 絃葉ちゃん、と馴れ馴れしく呼ぶこの医者に、俺はどういうわけが激しい対抗心が芽生えていた。


「そ、そこをなんとか、お願いします……! 俺、絶対に絃葉を守ります。危ないことはしません。ただちょっと、話がしたいだけなんです」


「話ならここでしてくれ。絃葉ちゃんの体調のことを、君は何もわからないだろう?」


 それは医者の言うとおりだ。

 俺は絃葉本人じゃないから、絃葉が今どれだけしんどいのか、辛いのか、分からない。

 でも、絃葉と普通の友達みたいに、外の空気を吸いたいという気持ちは変わらなかった。


「体調のことは絃葉から直接聞きます。お願いです。俺、明日引っ越すから……もう、会えなくなるかもしれなくて……だから今日しかないんです。お願い、します」


 嘘をついた。でも、今すぐ絃葉と話がしたいという気持ちは本心だった。

 医者はそんな俺の泣き落としにも近い頼みを、「はあ」と息を吐いて聞いていた。やっぱりだめなのか——。そう諦めかけていた時、絃葉が口を開いた。


「私、今日なら大丈夫です。今朝は治療の副作用で気分が悪かったけど、もう治りました。痛いところもありません。この人のお願いを聞いて欲しいです。私からも、お願いします」


 はっと頭を上げると、絃葉が恭しく医者に頭を下げている光景が目に映り、俺も再び同じように頭を下げる。

 しばらく沈黙が続いた。

 だが、とうとう医者が、


「……1時間だけにしてくれ」


 と呟いて、病室から出ていった。

 俺は絃葉と顔を見合わせる。


「外出許可証を持ってくるので、ちょっと待っててください」


 看護師が一度病室を出ると、一枚の紙切れを持って戻ってきた。

 先ほどの主治医がすでに記入を施した外出許可証の控えを、絃葉に渡す。


「何かあったらすぐに病院に連絡をして。念のため、あなたたちの連絡先も聞いておいていいかしら」


「はい。分かりました」


 俺は自分のスマホの電話番号を看護師に教えた。絃葉も番号を告げて、俺たちは晴れて外出できることになった。

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