第9話

 絃葉の病室を訪れたのは、ばあちゃんが亡くなって1週間が経った日のことだ。

 お正月が終わり、そろそろ3学期が始まろうとしていた。我が家は粛々と正月を迎え、そこかしこに残るばあちゃんの気配を感じながら、俺はぼうっとしながら正月の特番を見ていた。


「紡、またあの友達のところへ行くんやろ?」


 出かける前に、職場に出ようとしていた母さんが、俺に紙袋を渡した。絃葉のことは、「入院中の友達」とだけ伝えてあった。


「それ、持って行きぃ」


 紙袋の中に入っていたのは、着物の生地で作られたクッションだった。色は山吹色と橙色を混ざっており、紅葉の模様があしらわれている。機織で絹糸から編んだ布を、母さんがミシンでクッションにしてくれたのだ。


「病院生活で疲れとるやろうし、見舞い品。それ使うてもらい」


「……ありがとう」


 俺は世界で一つだけのクッションを手に、絃葉のいる京丹後総合病院へと向かったのだった。



 いつも訪ねている絃葉の病室へと向かうと、看護師さんがドタドタと絃葉の部屋を行ったり来たりしていた。


「絃葉!」


 直感で彼女の身に何か起こったのだと悟った俺は、咄嗟にそう叫んで部屋の中に転がり込んだ。

 そこには、頭を押さえて呻く絃葉の背中をさする看護師さんがいて、絃葉はずっと「うう」「おぇ」と戻していた。


「あなた、ちょっとだけ外にいてくれるかしら」


 看護師さんが俺に声をかけた。その声で、絃葉が俺に気づいて目を丸くする。ウィッグがずれて、片目が隠れている。苦しそうな表情がくしゃりと歪んで、涙がこぼれ落ちた。


「は、はい……」


 もし俺が彼女の立場だったら、自分が苦しんでいる姿を絃葉に見せたくない。そう思うのは自然だった。

 俺は部屋を出て、自販機でコーヒーを買って、ロビーの椅子に腰掛けて飲んだ。苦い。絃葉の苦しむ姿が頭の中に何度もフラッシュバックする。これまで彼女が、あんなふうに辛そうにしているところを見たことがなかった。でもよく考えてみれば、ここは重病患者が入院しているところなのだ。俺の前では見せなかっただけで、もう何度も同じようなことが起きていることは明白だった。


「なんで俺は……」


 絃葉と友達になれたことを、ただ純粋に喜んでいたんだろう。

 まして、絃葉のことを友達以上の存在だと思っている。

 彼女が明るく笑う顔を見るたびに、絃葉を愛しいと思う気持ちが、どんどん膨れ上がって破裂寸前になっていた。

 どれぐらいの時間、絃葉のことを考え、やるせない気持ちにさせられただろうか。時計を見ると、1時間が経っていた。コーヒーがなくなり、缶をゴミ箱まで捨てに行く。ちょうどその時、先ほど絃葉の病室で会った看護師さんが、俺を見つけて「あ」と片手を上げた。


「さっきは申し訳なかったですね。向井さん、もう落ち着いたので、会いにいっても大丈夫です」


「分かりました。ありがとうございます」


 俺は彼女にぺこりと頭を下げて、絃葉の病室へと再び向かった。


「失礼します……」


 しんと静まり返った病室で、絃葉は身体を起こして俺を出迎えてくれた。いつものように笑顔で「紡くん」と俺の名前を呼ぶのだけれど、その声に力が入っていない。


「さっきはごめんね。見苦しいところを見せちゃって」


「いや……こっちこそ、ごめん。タイミングが悪かった」


 俺は反省しながら椅子に腰掛ける。絃葉があまりにもいつも明るいから、日々の生活の中でああいったことが起きていることを、想像していなかったのだ。


「放射線治療の副作用で、頭痛と吐き気がよく起こるの。でももう、薬で治ったから大丈夫」


「放射線……」


 彼女の口から出てきたおどろおどろしい単語に、俺は身震いした。


「そう。ごめんね。病気のこと、紡くんに全然話してなかったよね。話したら、普通の友達でいられなくなると、思って」


 絃葉が寂しそうに口元を震わせた。


「……教えてくれ。絃葉はどんな病気なんや。たとえどんな話を聞いても、俺は絃葉と友達じゃなくなったりせえへんよ」


 むしろ、俺は……俺はな。きみのこと、友達以上の存在だと思っているんだから。

 俺の言葉にほっとしたのか、絃葉はふぅ、と息を吐いてこう言った。


「脳腫瘍なの」


 ぽつり、と蚊の鳴くような声でつぶやいた彼女の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。

 その病名を、俺も聞いたことがない訳ではなかった。腫瘍、という恐ろしい単語に、目の前が真っ暗に塗り潰されていくような心地がした。


「脳腫瘍……」


「そう。悪性の、一番悪いやつ。だから手術しても完全に取り除くことはできなくて、放射線で治療するの。……それでも、私の場合、

延命治療にしかならないんだって。私は、余命1年半って言われてる」


「1年、半……」


 辿々しい口調で、そのあまりにも短い期間を唱えた。

 どういうわけか、彼女は半分笑っているように見える。俺は、自分の心臓がバクバクと音を立てて、胸がぎゅっと締め付けられるように痛かった。


「笑っちゃうよね。お父さんの転勤で京丹後にやってきたかと思えば、錦山高校に入学して、文化祭が終わった直後に倒れてしまって。毎日、毎日、この病室から外の景色を見るの。季節が移り変わるのは、庭の木の枝についている葉っぱを眺めていると感じることができる。ずっと病院にいるとね、暑さも寒さも分からない。時々庭に出て過ごしているけど、思ってたよりも気温が高かったり低かったりしてびっくりしたこともある」


 絃葉が、入院中に唯一時間潰しでやっていたことが、庭を眺めることかもしれないと思って、俺は身体が震えた。

 俺と病院でぶつかった日も、彼女は外を眺めていたと言っていた。それしか、楽しみがなかったんだ。


「紡くんに出会うまでは、看護師さんとお母さんが話し相手だったの。看護師さんはあんまり気を遣ったりしないけど、向こうは仕事

の一貫なんだと思うと、なんか本音では話しづらくて。お母さんは……めちゃくちゃ気を遣う。だからお母さんとも話しにくかった。悲しい顔を見せたら、お母さんがもっと悲しくなっちゃうから、笑っていなきゃって思ってたの」


 大晦日の日に病室で鉢合わせた絃葉のお母さんのことを思い出す。とても気さくで、優しそうなお母さんだった。絃葉と似ていて美人でもあった。絃葉は、あのお母さんと、本音で話せなくて寂しかったのかもしれない。


「そんなとき、紡くんと出会って、私の世界が変わったの。あの文化祭で見た時から、あなたのことがとっても気になってた。あんなに素敵な着物を作る人が、どんな心の持ち主なのか、気になって仕方がなかったわ。紡くんとは対等の関係でいたいから、できるだけ病気のことは話さないようにしてた。そしたらやっぱり、紡くんとの日々はとっても楽しかった。不思議な糸の話だって、まだ気になってるんだから……」


 絃葉の声が、だんだんと震えていくのに気がついた。


「私……紡くんのこともっと知りたい。もっと、もっと、話したいよ。もっとあなたと一緒にいたい。病気で頭痛がするたびに、副作用の発作が起きるたびに、あなたの顔が浮かんでくるの。苦しくて負けそうになる私は、あなたに会いたい一心で、なんとか持ち堪えるんだよ」


 絃葉が、これまでに聞いたことないような切実な声で本音をぶちまける。

 俺は、素手で心臓を鷲掴みにされたかのように、切なさが込み上げてきた。気がつけば、「絃葉」と彼女の名前を呼んでいた。彼女がふっと顔をこちらに向ける。何かを請い求めるかのような必死さに、俺はとうとう自分の中で一番大きな感情が膨れ上がる。


「俺は絃葉のことが、好きや。だから俺も、もっと絃葉と一緒にいたいよ」


 弾けた。

 糸が、パチンとはさみで切り取られた時みたいに、俺は絃葉を愛しく思う気持ちを彼女に伝えた。

 絃葉の瞳がふるりと揺れる。瞳の奥に、彼女の答えを待っている俺の必死な顔が映り込んでいた。


「嬉しい……。紡くん、私も好き、だよ。紡くんが私を好きになる前から、好きだよ。大好きだよ。……でも私は、恋なんかしちゃい

けないって、思う。この恋はあなたを傷つける刃だから……」


  絃葉から好きだと言われて嬉しいはずなのに、彼女の言葉が、俺の胸にグサグサと刺さっていく。

 恋をしちゃいけないなんて、そんなこと。

 そんな悲しいこと……言わないでくれ。


「病気だから恋しちゃいけないなんてことないよ。俺は絃葉と恋がしたい。だから俺と、付き合おう」


 俺の心に迷いはなかった。

 たとえ彼女の命が病気に攫われてしまうのだとしても、俺はできる限り長い時間、彼女と一緒にいたい。その一心で、絃葉の返事を待った。

 絃葉は瞳を何度も瞬かせて、たっぷり間を置いた。ベッドの上で結ばれた両手がふるふると小刻みに震えている。

 やがて、病室の中が静寂で溶けてしまうのではないかというぐらい張り詰めた空気が漂ってきた頃、ようやく彼女が口を開いた。


「分からないよ。無理だよ。紡くんは、分かってないよ。この恋がどんなに辛い結果を招くのか……。紡くんに、私の気持ちは、分からないよっ」


 初めて聞く、彼女の叫び声だった。

 俺は驚いて、瞠目したまま固まってしまう。


「……今日はもう、出て行ってくれない?」


 はっきりとした拒絶の声だった。

 俺は、これ以上彼女に何を伝えても無駄なのだと悟る。彼女の苦しみを、俺が本当に理解できているのかと言われたら多分そうじゃない。いや、全然できていない。悔しくて、情けなくて、その場でうずくまりたかった。


「……分かった。ごめん」


 ああ、どうして。

 俺はどうして、彼女を抱きしめてやれないのだろうか。

 俺を拒絶しようとする彼女の心がいっぱい震えていることに気がついているはずなのに。

 結局のところ俺はまだほんのちっぽけな子供で、好きな人の一人も幸せにしてやれないのかもしれない。そんなやるせなさに、唇を噛み締めていた。

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