思い出アンインストール

西影

今ある記憶

 私には忘れられない思い出がある。大学一回生の夏の夜。


 シャワーを浴び終えた私たちはベッドに横たわっていた。一糸まとわぬ姿で寝ている事実にそわそわして、太ももを擦り合わせる。そんな私を包むように彼が腕を回した。


「好きだよ」


 それは初体験の痛みを和らげた。彼の人肌が私の心を落ち着かせる。肌を近づけて、触れ合って、話して、なんでもない時間が私の胸を温かくした。


 それも今では思い出に過ぎない。


 大学生の時にできた初めての彼氏は、もう隣にいなかった。


「見てみてっ! 満月だよ」

「そうだな。今日は団子を酒の肴にするか?」

「さんせーい! コンビニ寄って帰ろ!」


 私の横を大学生らしきカップルが通る。その姿が自分と重なり、思わず空を見上げた。都会の空は星が見えないけど、あの夜と同じような月がぽつんと取り残されていた。社会人になった私を月が見下ろしている。慣れない仕事でクタクタになった私を嗤うように付いてくる。


「私の隣にまだ彼がいる未来はあったのかな」


 彼と別れて一年が経過しようとしていた。別に彼と一緒にいるのが嫌になったわけでも、彼に嫌われたわけでもない。別れ話を提案したのは私からだった。


「元気にやってるかな」


 彼の悲しそうな顔が浮かんでくる。親の跡を継ぐために地元に残った人。私の夢のために上京を後押ししてくれた優しい人。


 ――だから別れた。


 私のような夢のために彼氏を疎かにしてしまう人が、あんなに優しい人を束縛するわけにはいかない。彼には彼の人生がある。会えない人と恋愛をするよりも地元に残っている人と恋愛するほうが幸せに決まってる。


 そう思って行動したことまではよかったんだけど……。


「まだ、寂しいなぁ……」


 ずきりと胸が痛んだ気がした。私の呟きは道路を走る車にかき消される。


 この痛みは夢を追いかけた代償のようなもの。地元にはないゲーム業界の仕事をするために選んだ道。ずっとそう受け入れていたんだけど、そろそろ限界だった。スマホで応募直前まで進めていた予約ページを開く。


 思い出アンインストール。


 近頃話題に上がるようになったサービスだ。簡単に説明すると物の覚えやすさを飛躍的に高める手術である。けれど私がいま求めている機能はそこじゃない。その結果に至るまでの過程で起きるもの。


 それが、記憶の消去。


 物の覚えやすさは脳のキャパシティによって変動するらしく、その空きを増やすために『不必要になった記憶』を消去するのが思い出アンインストールの概要だった。


 彼の記憶は大事な思い出だ。これまでも何度かこの手術にお世話になったが、彼との思い出だけは消さないようにしていた。


 ……それでも、もう、疲れた。


 会えない人を想い続ける日々。彼のせいにはしたくないけど、仕事に支障があるのは逃れられない事実でもあった。幸せな記憶は人に勇気や希望を与えるだけじゃない。


「……はは、やっぱり私みたいな女は彼にふさわしくないよ」


 いつまでも自分を中心に考えてしまう自分に自嘲して、私は予約を完了させた。


 ◇◇◇


「目が覚めましたか?」


 女性の声で目が覚めた。すぐ目に映ったのは病院のベッドと天井。この状況に頭が追い付かないが、不思議と快眠した日のように頭はすっきりしていた。


「……そっか、思い出アンインストール」

「はい。記憶に混乱はありませんか?」

「大丈夫……だと思います」


 自分の名前、住所、職業、これまでの幼少期から今に至るまでの出来事を思い返す。そのどこにも違和感はない。手術は無事に成功したらしい。


「では今日はこれでお帰りいただいて構いません。こちらに消去した思い出は載せております。ご不備があればお申し付けください」


 封筒を一つ渡して女性が部屋を後にした。自分がどういった記憶を消したのか興味が湧き、中から取り出してみる。


 ……どうやら今回は大学生の時に付き合った男性との記憶を消したらしい。他にも以前に消した記憶がずらりと並んでいる。


 小学校でいじめられた記憶。家庭で生まれたトラウマに関する記憶。志望校に落ちた時の記憶。


 読んでみてもいまいち実感が湧かない。こんなことがあったと頭で理解しても思い返すのは不可能だし、どこか他人の人生を見ているように感じられた。だけど、一つ不可解なことがあるとすれば。


「なんでこの人の記憶を消したんだろ」


 しかもどうやら消した記憶は直近の出来事ではなく、大学生時代のもの。どうして今まで消さなかったのだろうか。


 ……まぁ、初めての彼氏だったから少しは大事にしたかったのかもしれない。今回消したということは嫌な記憶で間違いないし、過去の私はこの記憶を『思い出』にする価値がないと判断した。そうに違いない。


 どこか胸にぽっかりと穴が開いたような気はしつつも、身支度を整えて受付に向かった。

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