第19話 それぞれの進み方⑧
彼女は、いつから彼女となったのかよくわからなかった。
いや、正確には、彼女となった後も、果たしてそれは自分なのかわからない。
ただ、覚えている最初の風景は、靄がかかっている様でよく見えない視界の中、彼が居たのを覚えている。
こちらに背を向け、皮鎧や衣服、荷物のようなものを見ている様だ。
その品々も風化していて、所々原型を留めていなかった。
彼は「傭兵か、狩人か、それとも冒険者か。いずれにしても、志半ばだったんだろうな。可哀そうに」と呟きながらその品々に向かって両手を合わせて祈っているかのような仕草をしていた。
そして、こちらを向いて言った。
「眠っていたかっただろう。起こしてしまってすまない。勝手を言って申し訳ないが、俺を手伝って欲しい」
そう言って、こちらの頭蓋骨を撫でていた。相変わらず視界は靄がかかっている様で彼の表情は見えなかったが、温かい何かが流れてきたように感じた。
それが、彼から貰った最初の言葉だった。
それから幾日かして、彼は、彼女に植物の世話や雑用の手伝いをさせるようになった。
彼女の中には眠気と倦怠感がすべてを占めており、動きたいと思う事も無かったし、実際自分で動く事は出来なかった。
彼が命令の思念を送ってくる時に、強制的に体が動くのだ。
だけれど、不思議と嫌な気持ちはなかった。彼の思念は心地よく、暖かくて、まるで柔らかい何かに包まれている様だった。そして、靄がかかっていた視界が、鮮明になって全てが見えるのだ。
だからむしろ、常に繋がっていたいとも思っていた。彼の思念が途切れた途端、暖かさも包まれる感じも全て消え失せて、靄がかかった視界の中、暗い孤独感と倦怠感と眠気が全てになってしまうのだから。
彼女はいつしか、彼からの思念を心待ちにするようになった。
彼は思念だけを飛ばしてくる事も多かったが、時に近くで一緒に作業する事もある。
彼は花の世話が好きだった。思念で繋がっている彼の感情は、一喜一憂がこちらに伝わってくるのだ。
逆に、枯れてしまった花を見た時には、悲しみと後悔が伝わってくる。
彼が好きなものは彼女にすぐに伝わってくる。料理が好きな事、意外と裁縫も好きな事。部屋は綺麗にしているけど、実は掃除は疎ましいと思っている事。大雑把なように見えて、夜中に虫の羽音が聞こえると、そこから寝れなくなってしまう神経質な面がある所。彼の全てが知りたかったし、彼の全てを感じていたかった。
不思議な事に、悲しみや後悔というマイナスな思念ですら、彼には暖かさがあった。彼女は彼のそんなマイナスな思念でも、触れている瞬間が好きだった。
だから、もっと一緒に居たいと思った。もっと。出来るならずっと、こうして繋がっていたいと願った。
そんな事を思っていると、元気な声が聞こえてくる。
「お父様ー! お兄様がお腹すいたっていってます!」
元気な、5歳くらいの女の子だ。
「え!? お腹空いたって言ってるのはシモンじゃないか! 父上! これは冤罪です!」
同じく5歳くらいの男の子が反論している。
それを見た彼は、優しい笑みをその子供たちに向けて、言った。
「わかったわかった、今行くから待ってなさい」
「「はーい!」」
そう言うと、彼は彼女に、餌として用意してある岩の上に座るように思念を飛ばしてくる。
嫌だった。
もっと一緒にいたい。
一緒にいなくてもいい、せめて思念を切らないで欲しい。
そう切望する彼女だが、岩の上に座った時に、世界は光を失い、暖かさはなくなってしまった。
暗く、気力の全てが奪われるその時間は、いつまでも、いつまでも続き、彼女は泣くことも出来ずに、ただただ、暗闇を見つめ続けた。
彼女にとって、暗闇の時間は永遠のようであり、彼と繋がった輝きの時間は一瞬でしかないと感じてしまうのだ。
だから、無邪気に笑う彼の子供たちが羨ましかった。
彼は、惜しむことなく子供たちに笑いかける。
だけれど、どうして自分にもその笑顔を向けてくれないのだろう。
彼は子供たちが呼びかけると、必ず時間を作って相手をする。
どうして、自分にも時間を作ってくれないのだろう。
そんな想いを抱えながら、彼女は幾年も過ごしていったのだった。
そんなある日。彼は月に一回程度隣の村に買い出しや雑用で出ていくのだが、その当日だった。
彼女は屋内農園の片隅で動く事もなく、心の闇が深くなるのを感じて過ごしていたのだった。
彼女は耐えていた。彼は夕方には帰ってくる。彼が帰ってくれば、一緒に植物の世話ができるとそれだけを何度も何度も念じるように胸中で自分に言い聞かせ、待っていた。
ここからでは外の様子は見えないし、外に居たとしても彼女は彼の思念なくては視界すら確保できない。
だから、今が朝なのか夜なのか、どのくらいの時間が経過していて、彼はあとどのくらいで帰ってくるかなど、分かりようもないのである。
どこか遠くから声が聞こえてくる。
『父上遅いな、もう夜なんだけど、何かあったのかな』
『お父様に何かあるわけなくない?』
『いや、でもさあ、それでも不測の事態はあると思うんだ』
『例えば?』
『うーん。それは思いつかないんだけどもさ』
彼女の胸中が、不安と恐怖に包まれた。彼に何かがあったかもしれない。
何かないのだとしたら、何故遅くなってしまうのか。
極端に情報が欠如した状態で、彼女の心は焦燥に乱れてしまう。この声の主たちが全く心配している様子がないのも、少し腹に据えかねる思いも湧いてくる。
あんなに愛されているのに、どうしてと。愛されている訳ではないと感じているからこその嫉妬のような感覚に、彼女は少しの戸惑いも覚える。
こうなったら、自分が動かなくてはという使命感のようなものも感じて、何とか動こうと努力をしてみるが、指の一本も動かせはしない。
『お父様のことだから、その辺の悪党を倒して、後始末に追われているとか?』
『そうかも、もしくは魔王の軍が突如現れて、討伐したのかも』
『お兄様! それ! それだよきっと!』
二人の声は途切れることなく続いている。
本当にそうだろうか。彼女にとって、彼はそんなに強いイメージはなかった。
身体的な能力はわからない。けれど、彼の心は繊細で、誰かが守ってあげなければ折れてしまう弱さがあるように思われた。
だからこそ。
(私が、守ればいいんだ!)
その答えに達したとき、彼女の内側から何かが溢れてくる感覚があった。
それはまるで、今まで彼から受け取っていた原動力が動き出したかのような。
そして、視界がクリアになる。すると、少年と少女がすぐ目の前に座しているのが見えた。
まだ10歳にも満たない少年と少女が、屋内庭園で、骨の人形の前で座って何か言いあっている。
彼女は先ほどまでの自分を責めた。
彼らも、不安なのだ。不安だから、骨の人形とはいえ、誰かの傍に居たくてここにきていて、先ほどから言い合っている夢物語のようなそれは、お互いを安心させようとしての事なのだとわかった。
そして、もう一つ分かったことがある、彼が、そう遠くない場所に居る事。そしてこちらに向かってきている事。これは長年繋がってきていた感覚が、より研ぎ澄まされている今だからこそわかるのだろうと思われた。
だから、彼女は、立ち上がって花に水を与え始めたのだった。
それを見た子供たちが色めき立つ。彼女が動くという事は、彼の思念が届いていると理解したのだろう。
そして、彼は帰ってくるなり目を見開いてこちらを凝視した。
その後「長年思念で繋がってるから、微弱な思念でもうごくようになった、のか?」などとぶつぶつと呟いて、ふと気づいたようにこちらの頭を撫で、こう言った。
「子供たちと家を守ってくれたんだな。ありがとう」
そう言って彼は笑った。
彼女の大好きな思念だった。
だから、彼女は思ったのだ。彼にとって、自分は道具でしかない。
けれど、道具でいいのだ。
この暖かさを与えてくれる存在を守ろう。ずっと傍にいよう。そう彼女は心に決めたのだ。
だけれど──。
「アアアアアアアアアアアアアアァァァ!!」
地下室には彼の絶叫が響いている。もし彼女に耳があったなら、思わず塞いで蹲りたくなるほどの痛々しい叫びだ。
手術台で体ごと痙攣する彼は、最早人間なのかどうかすらわからない。
左の瞼は紫色に変色し、拳に近いほどの大きさまで腫れ、眼球を完全に覆っている。
更にその周囲には、おおよそ人体では考えられない程太く膨張した薄紫色の血管が脈打っているのが見える。
右腕もそうだ。
肘辺りで接合したはずなのに、硬質な黒色の肌が二の腕辺りまで浸食しており、これも同じく膨張した薄紫の血管が肩に向かって伸び、脈打っている。
体だけではない、表情もだ。
あの優しかった笑顔は見る影もない。口唇は痙攣しながら開ききっており、むき出しになって噛みしめられた歯から、唾液が止めどなく流れている。
右目は炯々と光り、まるで野生動物が獲物を狙う時のそれのようにぎらついている。
そして。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
喉から迸る、雄たけびとも絶叫とも言えるそれは、聞く者の心を焦燥させる。
苦痛、焦燥、後悔。様々な感情の中で、彼から感じた事のない感情が伝わってくるのがわかる。
憎悪と、怒りだ。
彼女は怖かった。その憎悪や怒りが誰に向けられているのか、何に向けられているのかという事ではなく、純粋に彼が発するその感情自体に恐怖した。
もうやめて欲しい。こんな彼は見ていたくないと何度も願った。
だが、彼はそうじゃなかった。
獣の唸り声のようなものを上げながら立ち上がった彼は、思わずよろけてしまう。
それを支えようと彼女は手を伸ばしたが。
「触るな!」
そう一喝されて、びくりと手を引っ込めてしまう。
そして、彼は指示を出す。
「2番の左脚を切除しろ」
彼女は震えた。その先の未来を想像して恐怖した。
嫌だ。もう見たくない。こんなことはすぐに止めたい。
そんな思いが、彼女の動きを止めるのだが。
「早くしろ!」
強い思念と言葉に、彼女は従うしかなかった。
〇〇〇
彼女がサンプルの使用部位切除を終えると、いつの間にか彼は大きなギロチンの前にいた。
ギロチンの刃は上まで上がっており、ロープで固定されている。処刑する際にはそのロープを切る仕組みだ。
首を据える場所は、木の枠になっており、人間の頭を据えるには少々大きな気もする代物だった。
彼はぎらぎらとした眼光でギロチンを見ている。
とても嫌な予感がした。彼女は泣きたかった。泣いて叫びたかった。
だけれど、涙を流す眼球もなく、叫ぶ喉もない。だから、ただ見ているしか出来なかった。
そして、彼がゆっくりと首を据える場所に自らの左脚を置こうとしたのをみて、彼女は彼に飛びついて止めた。
「離せ!!」
こればかりは譲れなかった。彼女は必死に彼にしがみついて止める。
彼から送られてくる思念に抗うのは苦痛だったし、彼がこちらを乱暴に力ずくで引きはがそうとするのを感じるのも辛かった。
でも、彼女は諦めなかった。彼女が諦めなければ、彼は思いとどまってくれるかもしれない。そんな淡い希望を捨てきれなかった。
しばらくもみ合った末、彼から膨大な魔力を感じて、一瞬彼の顔を見る。
獣のような表情の彼。苦痛に歪んだ感情で叫ぶ彼。そして、膨大な魔力で振り下ろされる右腕。
彼女は、ここで死ぬのかと感じた。怖くは無かったが、彼のこの先が心配だった。
それに、彼女は彼と一緒にいる時間が本当に好きだったのだ。
だから、彼女は最後の一瞬まで彼の顔を見て、思念を感じようと動きを止め──。
やってきた彼の右腕からは、感じた事もない衝撃に視界が暗転し、体は横っ飛びに飛ばされ薬品とサンプルが置かれた棚を粉砕して壁に体が打ち付けられる。
暗転から、再び視界が戻った時には、彼女は動く事すらできなくなっていた。
視界も、外側から靄が迫ってくるように狭くなっていく。
泣きたかったし、悔しかった。もう一度やり直したいという思いが心に満ちた。もう一度やり直せるのなら、彼にこんな思いをさせない。
いや、違う。
本当は、今度は同じ人間として、ともに歩んでいきたいんだろうな。そんな願望を彼女は自覚していた。
もう、ほとんど見えなくなった彼女の視界に最後に映ったのは、ギロチンの刃が彼の足を切断し、絶叫を上げる彼の横顔だった。
「リリィ!! 2番の足を持ってこい!」
そう叫んだ彼の視線の先には、動かなくなった白骨死体がむなしく転がっていた。
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