第1話 地雷ラインの女の子
エレベーターが会社の一階に到達したことを告げる。私は高校時代にいた自分の意識を引き戻し、次々降りていく人の波に乗る。帰路に就く人々の中にはジャケットを脱ぎ、手で持っている人もおり、春の訪れを感じられる光景だった。
私は綺麗に磨かれた革靴を鳴らしながら会社を出る。最寄りの駅に向かい、家路とは異なる路線を選ぶ。電車に揺られ、数駅通り越し、一度路線を変えてから、数駅先の駅で降りる。大量に降りていく人の波に紛れながら改札を抜け、奥まった位置にある多目的トイレに入る。
トイレ内の大きな鏡に向かう。革靴の音が、静かな空間にやけに響く。鏡に映る私の髪はいまやすっかり短い。サイドや襟足はすっきり刈り上げ、前髪は眉にほんの少しかかる程度。眉毛は太く濃く見えるようにカットしてある。
うん、いい。
心の中で粒く。この容姿を選んでからずいぶん経つが、今でも新鮮な気持ちでそう思える。
一つ息を吐いてから、かばんを床に置く。中から服を取り出し、仕事着から手早く着替えた。お気に入りの黒いサテンのシャツに、白のストレートワイドパンツ。首元にはチェーンネックレスをつけ、両耳にはいくつかのリングピアスをつける。さらにワックスを取り出し、下ろした前髪を軽く上げ、分け目も作る。最後に眉の薄い部分を描き足して、準備は終わりだ。
散らばった諸々の道具を元通りかばんにしまって、トイレを出る。
トイレのある通路から出ると、すぐに人の波に乗った。波に揉まれつつ駅を出て、駅前の大通りから小道に入る。ちらほら灯りの灯っている個人経営の居酒屋通りを抜け、猥雑とも言える通りに踏み出す。
道端でたばこを吸いながら大声で会話をするホスト。しゃがんで涙を流すツインテールの女の子。暇そうにスマホをいじる少女とそれに声をかける男。お姉さま方から見送りを受ける小太りのおじさん。
秩序も何もない雑多な街に寧ろ安堵すら覚えながら、私は街を抜けていく。数分歩いたところで目的のバーにたどり着いた。それと公表されているわけではないものの、レズビアンが多く集まるバーだ。
中に入り、店内に素早く目を走らせる。いつも座っているカウンター席にロングヘアの女の子が座っていた。一つ席を開けて隣に座る。
「キールを」
バーテンダーに短く告げると、やれやれまたかと言いたげな視線を一瞬向けられたが、大人しく従ってくれる。ここはある意味出会いの場なのだから、そんな視線を向けられるいわれはないと思っている。一夜を求めていようと、パートナーを求めていようと、出会いは出会いだ。
隣の隣の女の子を密かに窺う。グラスをずっと見つめている。きっとその目に映っているのは酒ではないのだろう。
私の目の前にキールのグラスが置かれる。女の子はそこで初めて隣の存在に気づいたらしく、顔をこちらに向ける気配がした。私はそれに合わせて隣を見る。ちょうど目があった。地雷ラインに縁どられた大きな目が、どことなく儚げな光を漂わせている。柔く微笑んでみる。薄暗い店内では、はっきり見えたわけではないが、女の子は頬を染めたように見えた。
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