第3話 白雪王



 瞼を開けたマリアローズは、久方ぶりに思い出した懐かしい記憶に浸りながら《魔法の鏡》を改めて見る。あの頃は、《魔法の鏡》がいう『絶望』の意味を取り違えていたらしい。二十一歳になった現在、マリアローズは、孤独や寂しさから絶望してなどいない。別のことに深く絶望している。


「もう一度聞いていいかしら? 鏡よ、鏡。この国で一番美しいのは誰?」

『それは、ハロルド陛下でございます』

「あの書類を私に押しつける腹黒の、一体どのあたりが美しいというのかしら? 真っ黒よ? 歪みきっていると思うのだけれど」

『だからハロルド陛下だって繰り返し言ってるじゃないか。現実は認めるしかないんだよ。僕は嘘は嫌いだからね。それよりそろそろ、公務の時間なんじゃないの?』

「……そうね」


 《魔法の鏡》の言う通りなので、両手で頬を軽く叩いてから、マリアローズは鏡を見て一度笑顔を浮かべ、気合いを入れ直す。


「行ってくるわ」

『頑張って』


 《魔法の鏡》の応援を背に、マリアローズは正妃の間を出た。己の夫であった先代国王、父代わりの前国王陛下は、一昨年前に崩御した。そのため現在後宮には、皇太后となったマリアローズ以外の妃はいない。皆、降嫁した。だがマリアローズは、正妃であったことを表向きの理由に――実際には受け継いだ《魔法の鏡》を現国王ハロルド陛下の正妃となる相手に引き継ぐまでは、後宮に残ることとなった。その結果、これまでは側妃とも分担して行っていた公務が一挙にのしかかってきた。


 それだけではない。前国王陛下の急な崩御により、王宮は一気に多忙になった。幸い近隣の強国であるソニャンド帝国との関係や、多くの属国とは良好な関係を築いているが、世が世ならば攻め入られていてもおかしくない。国境沿いの警備は勿論厚くすることとなった。


 同時に、王宮内の反乱分子にも、目を光らせる必要があった。だがこちらは、シュテルネン宰相閣下がこれを機とばかりに、一掃した。彼にとっての政敵だったため、ハロルド陛下とがっちりと手を結び、王宮の政敵は駆逐できた次第だ。けれど、その結果、大臣や文官が減ったのは間違いない。王宮における仕事量は、確実に以前よりも増えた。それをマリアローズも理解していたので、皇太后としての仕事のほかに、手伝いをしていた――ら、結果はどうだ。善意で手を貸していた結果が、現在の状態……本来自分のものではない書類まで押しつけられる日々の到来だ。


 マリアローズは、なんとも言えない、腑に落ちないような気持ちで歩みを進める。

 後宮と王宮を繋ぐ吹き抜けの回廊を抜け、外の庭園を見る。


「昔は辛いときには、慰めてくれたのだけれど……」


 きっとハロルド陛下は、当時の事など微塵も覚えていないに違いない。

 そう確信しながら王宮に足を踏み入れたマリアローズは、その後毛足の長い絨毯が敷かれた階段を上って、等間隔に甲冑が並ぶ廊下を進み、二階の奥の部屋へと向かった。そこには、ハロルド陛下の執務室がある。


 扉の前に立ち、マリアローズは大きく深呼吸をした。

 右手を持ち上げた彼女は、不貞腐れたような顔で、二度ほど扉をノックをする。


『どなたですか?』

「私です。皇太后、マリアローズです」

『お入りください』


 その声はとても優しげだ。マリアローズは、しらけた気持ちでドアノブに触れる。そして押し開くと、予想通り中には、他の人間がいた。ハロルド陛下に何かを報告に来たのだろう、宰相府の文官がそこにはいた。宰相府の人間は、宰相閣下も含めて、皆紫色の上着を纏うのが義務づけられている。


「マリアローズ様、よくお越し下さいました。どうぞおかけになってお待ちください」


 流麗な声音を放ったハロルド陛下は、豪奢な長椅子にマリアローズを促した。無愛想な顔で頷き、マリアローズは腰を下ろす。そこにいた文官は、マリアローズの姿に、少し怯えたような顔をした。しかしマリアローズには、笑顔を取り繕う気力がなくて、手ずから紅茶を陶磁器のカップに注ぎつつ、そんな己の手元を見ていた。翡翠色の模様が美しいカップだ。華やかな香りがして、飲み込むと落ち着く。


 それからチラリとマリアローズは、文官を見た。背の低い女性で、彼女は瞳をキラキラさせて、頬を紅潮させながらハロルド陛下を見ている。首から提げている細い銀の鎖がついた花の首飾りは、最近王宮の女性達がよくつけている品だ。


 それにしてもマリアローズが知るかぎり、十人中九人は、ハロルド陛下にこのような眼差しを向ける。マリアローズは残りの一人に含まれている。マリアローズが、ハロルドに恋い焦がれるような熱い視線を向けることはあまりない。いいや、全くない。ゼロだ。


 しかしながら多くの女性は、ハロルド陛下の美貌に目を惹き付けられている。理由は簡単で、《魔法の鏡》も断言する通り、ハロルド陛下が非常に美しいからだ。金色の髪は絹のように艶やかで、白磁の肌はきめ細やか、形の良い唇はつやつやのコーラルレッド。綺麗なアーモンド型の瞳はサファイアのようであり、その目を縁取る睫毛は長い。完璧なる造形美がそこにある。


 マリアローズも自分磨きをして過ごしてきたが、元が違うとしか言いようがない。自分だってそれなりに美しいはずだと、マリアローズは考えている。実際、侍女には『お綺麗ですね』と褒められた事がある。ただ彼女達は『これならハロルド陛下の隣に並んでも……』と言いかけて、首を傾げ、熟考し、たっぷりと間を置いてから、頷いて何も言わない。その反応の意味を、マリアローズは、『並んだ場合は、美しいとはとても言えない』という意味だと判断している。


「――報告は以上となります。ハロルド陛下、ぜひご検討下さい」

「ありがとう、こちらで検討しておくと宰相閣下に伝えてもらえるかな?」

「はい!」

「君のような優秀な部下がいて、宰相閣下も心強いことだろう。俺もこの王宮に優秀な人材がいる事を誇りに思っている。これからも、宜しく頼む」


 誰もが見惚れるような表情を浮かべ、ハロルド陛下が目を細めて笑った。その顔に、不覚にもマリアローズも見とれそうになった。文官の女性は、完全にうっとりしている。しかしマリアローズはカップを持ち上げ、すぐに我に返った。


 顔が良くても、なにもいいことはない。

 マリアローズは、既にそれをよく熟知していた。


「どうかしたか?」


 立ち尽くしている文官に向かい、ハロルド陛下が小首を傾げる。

 白々しいとマリアローズは思った。


「い、いえ……! 失礼致します」


 慌てたように文官の女性は、そう述べると去っていく。それを見送り扉が閉まって数分。マリアローズが扉を見たまま、二口ほど紅茶を飲んだ時の事である。


「遅かったな」

「……」

「仕事をするのに、今日も無駄に華美なドレス姿で、何時間も用意に費やしてから来たのか? そんな暇があるなら、あと二時間は早く来て、書類の山を三つくらい片付けてくれないか? どうせ似合わないのだからな。いつも早く来いと言っているだろうが」


 マリアローズがハロルドを見ると、そこには不愉快そうに目を眇めている姿があった。

 先程までの、文官への笑顔はどこへ失踪してしまったのか。

 行方不明になったものは、他にもある。優しい声音だ。今放たれているのは、非常に冷淡な声である。しかも、酷い。毒舌だ。


「私は本来、貴方の仕事をお手伝いするのは義務ではありません。それに! 王宮の真ん中を歩いてくるのに、皇太后の私がドレスを着ていなかったら、示しがつきません。後宮の財政赤字が公になってしまうでしょう!?」


 マリアローズも黙っている性格ではない。


「大体ハロルド陛下こそ、文官にニコニコしながら優しいお言葉……それこそ、無駄な時間なのでは?」


 ハロルド陛下の毒舌には、いつも嫌味で返す。

 するとハロルド陛下はそれまでの冷徹な無表情に、口角を持ち上げて今度はニヤリと笑った。


「なんだ? 嫉妬か?」

「は? ハロルド陛下、頭でも打ちましたの?」


 マリアローズは本心から聞き返してしまった。するとハロルド陛下が執務机の上に両肘をつき、指を組んだ。


「いいや? 別に? いたって俺は健康だ。体調管理も万全だ。この前風邪を引いたマリアローズ様とは違ってな。俺がどれだけ心配したと……」

「あら? 私の心配をしてくださったのかしら?」

「っ、と、当然だろう。書類をする人出が減るのだからな」

「そんな事だと思いましたわ」


 マリアローズが呆れた顔をする。ハロルド陛下は、それを見ながら抽斗を開け、少しの間その中を見た後、それを閉め、その一つ下の抽斗から書類の束を取り出した。そして羽ペンに手を伸ばしながら続ける。ハロルド陛下は、ちょくちょく一番上の抽斗の中を何故なのか見ている。


「さて、仕事を始めるか。今日はまずは俺は、俺のサインが必要なものから片付ける」

「それ、一番簡単なお仕事ではありませんの?」


 紅茶を飲み終えたので、マリアローズは立ち上がる。

 マリアローズのために用意された執務用の席が、ハロルド陛下の執務机の横にあるからだ。


「これは俺にしか、出来ない仕事だ。それに中身も精査しなければならない。いくら宰相閣下が完璧に仕上げてきた書類だとしても、目を通さないわけにはいかないからな」


 ハロルド陛下の言葉は尤もなので、なげやりな気分で頷きつつ、マリアローズは己の席につく。


「そうですね。それでは私は、仕方ないので、本来私の仕事とは言いがたい、本年度の厨房の予算についての検討書と要望書の確認を致しますわ」


 マリアローズがそう伝えると、サインをはじめていたハロルド陛下は無言で頷いた。

 これは、ここ最近の日常的な光景である。

 その後二人は、書類に励んだ。




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