第2話 継母の契機
元々マリアローズは、エルバ王国の末の王女だった。姉妹は七人いる。結婚適齢期の姉達は、既に皆嫁いでいた。
そんなおり、大陸で存在感のあるパラセレネ王国が、いくつもの小国と条約を締結し、実質それらの国々を属国とするようになった。エルバ王国も例に漏れず、パラセレネ王国の属国となることが決まったのである。
ただパラセレネ王国は、属国と貿易をすることで、各国に足りない品々を援助するなどの、好ましい側面も持っていた。
だが一つだけ、属国に求めることがあり、それが非常にエルバ国王を悩ませていた。
パラセレネ王国は、自国の後宮に、必ず各国を治める王族の姫君を輿入れさせろという通達を出していたのである。そこには、人質という意味合いが込められている。万が一属国が裏切った場合は、嫁いだという形式で、後宮内でかごの中の鳥のような生活をさせている王女を殺害する。そうして報復する。その用意のために、姫君を差し出せという命令だ。
さて、マリアローズの父であるエルバ王国の国王は、非常に困った。既に娘達は、マリアローズを除いて、全員結婚していたわけであり、これでは、マリアローズを嫁がせるしかない。だが、マリアローズはまだ九歳だった。このような幼子が、後宮に召し上げられた例は、ほとんどない。だが人質を差し出さなければ、エルバ王国は裏切ったと捉えられるだろう。
悩みに悩んだエルバ国王は、パラセレネ王国にお伺いを立てた。
すると、九歳の少女でも問題は無いという返答があった。何故ならば、正妃を愛しているので、これまでに一度も側妃に手を出したことがないからだと、パラセレネ王国の国王は手紙で答えたのである。それに安堵し、エルバ国王はマリアローズを嫁がせると決めた。
幼いマリアローズは、いつもよりも華美でお洒落な子供用のドレスを着せられ、馬車に乗せられた時、自分がこれから何処へ行くのかを知らなかった。何故なのか、両親と姉達が涙を流しながら手を振っているので、手を振り返しながら不安に駆られたものである。特に一つ上の姉のミーナは号泣していた。
そのようにして馬車での旅路を終え、マリアローズはパラセレネ王国へとやってきた。その時点においては、自分はまた今後はエルバ王国へやがて帰り、父や母、姉達と再会すると信じきっていた。
「ええ? 帰れないの?」
そう知ったのは、マリアローズの世話をすることになった侍女が、事実を教えてくれた時だった。マリアローズは、人質として、この後宮で側妃になったのだと、しっかりと聞かされて、呆然とした。子供らしく愛らしい桃色の唇を尖らせ、涙ぐむ。
「お母様に会いたい……」
当初はそのように述べ、涙を零すこともあった。
そんな時は、後宮の庭園の片隅で、膝を抱いて芝の上に座っていた。
ぽたりぽたりと膝の上に涙が落ちる。
「また泣いてるの?」
すると声がかかった。マリアローズが顔を上げると、そこには困ったように笑っているハロルドの姿があった。唇に力を込め引き結び、涙で潤んだ瞳をハロルドへと向ける。
「ハロルド様はいいわね! お父様もお母様もいるんだもの」
「マリアローズ、ぼくがついてるから、ね? 泣かないで」
「……」
「マリアローズには、ぼくがいるだろう?」
「……」
「ぼくが守ってあげるから。たくさん鍛錬して、強くなって、剣でも、なんでも頑張って、強くなって守るから。だから、マリアローズは心配しなくて大丈夫だよ」
屈んだハロルドは、マリアローズの頭を撫でた。優しい感触にマリアローズはさらに涙が溢れてきそうになった。優しくされると、より辛くなる。
「子供扱いしないで」
「ごめん」
するとまた、困ったようにハロルドが笑った。困らせているのは自分だと分かっていたから、マリアローズは涙を手の甲で拭う。そして立ち上がると、スカートの左右をつまんで、優雅に礼をした。
「ありがとう、ハロルド様」
笑顔を浮かべて、マリアローズは歩き出す。
頑張ろうと決意を固めたのもこの頃だ。
その後マリアローズは、持ち前の明るさで、すぐに前向きになった。
「そうね、泣いていても仕方がないわ。側妃として、頑張らなくちゃ」
気合いを入れ直したマリアローズは、ひまわりのような笑顔を浮かべていた。
なお、パラセレネ王国の国王は、四十九歳であった。
これが、この国の国王陛下と九歳のマリアローズは、年の差四十歳で婚姻を結んだ記憶である。マリアローズは、十三番目の側妃となった。
国王陛下は、非常に優しかった。マリアローズにたびたび玩具を与えてくれた。周囲は、国王陛下がまるで保護者のようにマリアローズを可愛がるのを見ていた。それは正妃様も同様で、よく国王陛下夫妻は、二人でマリアローズの元を訪れた。そしてお菓子を与えたり、ドレスを与えたりと、実の子供のように可愛がった。
だが、流れた月日の後、残酷な時が訪れた。
数年後、元々体の弱かった正妃様が、肺の病を患った。マリアローズがお見舞いに行くと、回廊で囁きあっていた医官の声が耳に入った。
「もって一ヵ月だな」
「ああ、せめて痛みだけでも緩和してさしあげたいな」
その言葉に、マリアローズは愕然とした。何度も瞬きをして、今聞いた事柄が夢では無かったかと確認してしまう。医官達はそれからすぐに、マリアローズの姿には気がつかないまま歩き去った。マリアローズはその背を見送ってから、正妃の部屋の扉の前に立つ。静かに二度ノックをすると、正妃様専属の侍女が扉を開け、中から顔を出した。マリアローズは、手にしていた花束を見せ、お見舞いに来たのだと告げる。マリアローズのことを、その侍女もよく知っていたので、すぐに室内に通してもらえた。
「よく来てくれたわね」
「お加減はいかがですか?」
「――そうね。それは、神様だけが知っているのではないかしら」
この国には、聖ヴェリタ教という宗教があり、多くの神様がいるとされている。
「元気を出して下さいね!」
マリアローズは必死に、廊下で聞いた言葉を忘れようと心がけた。
信じたくなかったという思いもある。
そして少しでも、病気の正妃様を元気づけたいと考えていた。
「ねぇ、マリアローズ」
「はい!」
「私のお願いを聞いてくれない?」
「勿論です、正妃様。私に出来ることならば、なんでもお申し付け下さい!」
「私が死んだら、国王陛下の後添え――次の正妃になってもらえないかしら?」
「えっ?」
「安心して。あの人が、貴女に手を出すことはないわ」
正妃が冗談めかして笑う。それから優しい声音で続けた。
「正妃になったら、正妃が代々受け継ぐ《魔法の鏡》を、貴女に受け継いで欲しいのよ。私は貴女を実の娘のように思っているの。だから、貴女に渡すのが、相応しいと私は思っているのよ」
マリアローズは迷った末、笑顔を浮かべた。
「死ぬだなんて……その……正妃様は、面白い冗談を言うのですね。では、お約束します。国王陛下もまた、それを望むのならば、私は正妃になりましょう。そして、《魔法の鏡》とやらを、引き継ぎます」
「冗談ではないのだけれど、そう、引き継いでくれるのね。ありがとう、マリアローズ」
クスクスと正妃様が笑った。その瞳はとても穏やかで、優しいものだった。
――正妃様が亡くなったのは、その三日後のことである。
呆然としていたマリアローズに、国王陛下が声をかけた。
「正妃の最後の望みを、私は叶えたい。マリアローズ、私の二人目の正妃となってほしい」
「……はい」
小さな声で、マリアローズは頷いた。このようにして、マリアローズは第十三側妃ではなく、正妃となったのである。正妃の部屋は決まっており、後宮の一番上にある百合と月の紋章が扉に描かれている、正妃の間だ。マリアローズは、そちらへと部屋を移ることになった。その部屋には、亡くなった正妃様が使っていたものが、そのままあった。
「あ……《魔法の鏡》」
ふとマリアローズは、最後に顔を合わせた時の、正妃の言葉を思い出した。
だからそう呟いた、その時だった。
『僕が《魔法の鏡》だよ』
どこからともなく声が響いてきたものだから、マリアローズは硬直した。
それからキョロキョロと見回すと、再び声がした。
『この布を、取って。なんにも見えない』
その言葉で、マリアローズは壁際にある布がかけられたイーゼルのようなものから、声が聞こえるのだと気がついた。戸惑いつつ、白い布を取り去る。ばさりと音がした。
『ありがとう。君の名前は?』
そこにあった鏡が、明るい声を発した。
――鏡が喋るなんて。
一番最初に、マリアローズが思ったのは、それだった。だが、前正妃様の頼みを思い出したので、《魔法の鏡》に問いかけることにした。
「私は、マリアローズよ。貴方は本当に、《魔法の鏡》なの?」
信じられない気持ちで問いかける。
『そうだよ。僕は、歴代の正妃様の悩みを聞いたり、相談にのったりしてきた存在なんだ。マリアローズも、僕の声が聞こえると言うことは、この国の正妃なんでしょう?』
「え、ええ……一応そうだけれど。それと、《魔法の鏡》を引き継ぐように言われたの。
そのためには、どうすればいいのかしら?」
『簡単だよ。僕に聞きたいことがあるときは、「鏡よ、鏡」と言ってから、質問の内容を続ければいいんだ。そうやって僕と話すことが、僕を引き継ぐということなんだよ。王家の人間、特に外部から嫁いできた人間は、とても孤独であることが多いから、時には絶望に身を苛まれることもある。僕はそれを癒やし、相談にのるために作られた存在なんだよ。王家の秘宝と呼ばれることもあるんだ』
明るい声音でつらつらと語った《魔法の鏡》を、マリアローズはまじまじと見た。
そして《魔法の鏡》の言った通りにしようと決める。
「か、鏡よ鏡。ええと……ええと……うーん……あ、そうだ! この国で一番美しいのは誰?」
今後は己が正妃として、国王陛下の隣に並ぶのだから、前正妃様のようになるべく美しくいたい。心も、立ち居振る舞いも――外見も。なので、見本となるような美姫の名前が返ってくることを、マリアローズは期待した。
「それはハロルド殿下でございます」
マリアローズは、驚いた。幼少時によく遊んだ、二歳年上の殿下のことを思い出す。
今の様子は知らないが、十六歳の姿を最後に見た時、確かに彼は端整な顔立ちをしていたと、マリアローズも考えた。だが、女性の名前を期待していたので、少しがっかりした。
どうやら自分磨きは、自分で自分なりに行うしかないようだと判断する。
その後マリアローズは、この時の決意の通りに、自分磨きをして過ごした。
たびたび《魔法の鏡》に問いかけ、相談するうちに、《魔法の鏡》は、今ではとても親しい友人のような存在となっていって今に至る。本当に、懐かしい記憶だ。この頃はまだ、ハロルド陛下と再会し、毎日顔を合わせるだなんて、考えてもいなかった。
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