第4話 正体。

 小夜はどきどきしながら鏡を見て、髪を直す。深呼吸して、勇気を振り絞って喫茶黒猫店の重厚なドアを開けた。からん、とベルが鳴った。

 店の奥の方、書棚の前の席に、彼はいた。

何か紙を広げて、珈琲を片手に、一心に書いていたようだ。ベルの音が届いたのかふと顔を上げて、小夜と目が合い、にこりと微笑んだ。

 ペンを筆箱にしまい、かさかさと、書類を入れた袋を横に除ける。


「坂城さん!」

「どうも、本日はわざわざ来ていただいてありがとうございます」

「いえ、こちらこそ。ありがとうございます」

 小夜は小走りにテーブルに近づいた。

 学生鞄を置き、店員さんが入れてくれたお水をいただく。


 ふう、と一息ついて。合皮の表紙のついたメニューを開いた。この喫茶店の前はよく通っていたけれども、入るのは久しぶりだ。

 ミルクティー、飲みたい。それに、おなかもすいていた。

「ごめんなさい、パフェ食べてもいいですか」

「どうぞ。僕も何か食べようかな」

 坂城は微笑んだ。




 珈琲とミルクティーが運ばれてくる。

 小夜はミルクティーをひとくち味わって飲んだ。ちゃんと茶葉とミルクで入れた、ほんのり甘いミルクティーだ。

「私、ここのミルクティー大好きなんです。ペットボトルのミルクティーは甘すぎてちょっと苦手で」

「へえ。いつも珈琲しか飲んだこと無かったな。また頼んでみよう」

 おすすめですよ、と小夜は笑った。



「…本日の、例の本です」

 坂城が話題に上がっていた本を取り出した。小夜が満面の笑みで受け取る。

「わあ! ありがとうございます!」


 嬉しそうな笑顔だ。坂城は内心、ぐっと拳を握りしめた。勇気を出そう。


「……あと、これもよかったら。いまは絶版になって読めない本なんですが。好きな作家のなかに名前がありましたのでもしかして、と思って」


 もう一冊、読んで欲しい本を差し出す。

 小夜の目が輝いた。


「わあ! 榊圭吾先生の幻のデビュー作! お持ちだったんですか、お目が高いですね。デビューしたての頃は全く注目されていなかったから、幻になっちゃっているとかいう、」


「……僕の本です」

 小夜の話を断ち切るように言った。そうじゃないと言えないと思った。


「……え?」


「僕が書いた、本です。デビュー作で。拙いところも多くて。出し直しはまだちょっとら考えてないので幻とか言われてしまっているのですが、出来はそこそこなので期待しないで読んで欲しいのですが…」



 勢いでそこまで言って、小夜の顔を見た。目が点になっていた。






(……え。)

 小夜は驚きに固まった頭で考えた。

 目の前の青年が書いた本。そこにあるのは、ベストセラー小説家榊圭吾の幻のデビュー作。ということは。


「榊桂吾せんせい、え、え、そういえばおなまえ……漢字違い……? え!」

 え、しか言えない小夜の前で、坂城青年は照れた顔で頭をかく。


「つめらないペンネームです。漢字を変えるとか。……すいません、いつ言おうかと思っていたのですが。なかなか、言いづらくて」

 そしてにこっと笑った。

「僕の作品を、たくさん褒めてくださってありがとうございます」


 そう、小夜は他の作家の話と一緒に小説家榊桂吾の話もたくさん書いていた。

(まさか、知らずにご本人に言ってたなんて……っ!)

 小夜は内心頭を抱えてのたうち回りたいくらいに恥ずかしかった。


 小夜と坂城の頼んだパフェとホットケーキが運ばれてくる。

「食べましょうか」


 小夜は無心にパフェを食べた。

 ちらりと坂城を見やる。


「あの。本当に、榊圭吾先生なんですか?」


「はい。しがない小説家です」


 にっこりと笑った坂城は、手元のタブレットを操作してひとつの記事を差し出した。

「ほら、この号の公報で、市長と対談させていただいた記事があります」

 この小夜の住む市の公報に、確かに市長と榊圭吾との対談が載っていた。何ならこの表紙は親がどこかに置いているのを見た気がする。だけど高校生の小夜は公報など滅多に見ないのだ。


 本当だ、と確信して、小夜は肩の力が抜けた。

「知らなかったです、まさかこんな身近にいらっしゃったなんて」

 ふう、と息をついて、ぬるくなったミルクティーを飲む。

「私、榊先生の小説大好きです。あたたかくて出てくるごはんが美味しそうで、とても優しい気持ちになれる。……これ、ありがとうございます。家に帰って大切に読みます」


 榊圭吾の幻のデビュー作を胸に抱きしめて、小夜は笑った。

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