第8話 残るは、鉄道の記憶ばかり?
あの年は、どうも馴染めない1年だった。
子どもの1年って、長いでしょ。
正直あまり思い出したくもない年だったのだけどね。
この年から、男性の児童指導員の方が新卒で就職されたの。近くの私立大学出身の尾沢さんという方でした。
教員免許も持たれているから、幸い、この養護施設に就職できたってわけ。教員採用試験に受からず、かと言って、今さら留年や就職浪人も出来ず、実家もそれ以上の金は出せないっていうわけ。どうしようと思っているときに、わが母校の岡山大学と尾沢さんの大学とに某園が新卒職員の募集を出していてね、それで、彼は運よく見つけて応募してきたってわけ。
彼にとっては、これは実にありがたいものだったと思うよ。
そりゃあんた、そうでしょ。
就職浪人で卒業証書と引換えに世にあふれてしまうところに追い込まれてにっちも察知もいかないことが察知できてしまったところに、この僥倖だ。
実質衣食住、職どころか食も住も保障される職場が得られた、ってわけよ。
しかも、給料ももらえる。
とりあえず一人で住めるくらいの場所は与えられるし、飯は職場で賄ってもらえるときたものだ。ぜいたくさえ言わなければむしろ金もたまろうものよ、仮に世間の相場より手取りが幾分少なくたってね。
さすがに仕事が生活そのものということになって仕事と私生活の区別がつきにくい場所とはいっても、それは裏を返せばいつも労働時間という感覚でなくても、
ま、うまいことやっていけば何とかなる、
ってことでもあるから、そこはもう思い切るしかないわな。それさえできれば、この仕事は何とかなるってものですよ。
今の児童養護施設に就職するうえで必要な資格の中には、運転免許は別として、保育士や社会福祉士などもあるけど、教員免許保持者も同列で認められているからね。学校とはずいぶん違う職場だとは思うが、その資格は確かに福祉にも活かせないわけじゃない。現に当時の園長にしても、元小学校長だったわけだし。
尾沢さんのことは、またぼちぼちお話していきます。
とりあえず、この年の夏の話をしますね。この1979年の夏は、いつからいつまでだったかは正確に覚えていないが、なぜか5泊6日の日程になりました。
案外、長い日程になったのね。なぜかは、わからない。
このとき何をしていたかは、またも例によって記憶が飛んでしまっておりますけど、今回もまた遠出をしたことを覚えています。
今度の行先は、伯備線の井倉駅の近くにある井倉洞でした。今度は、御両親の他に下のお兄さんが同行してくれました。
交通手段は例によって、行きも帰りも普通列車ね。
当時伯備線には特急「やくも」の他に、米子行の急行「伯耆」が2往復設定されていました。こちらは食堂車こそさすがにないが、グリーン車は連結されていました。岡山発は朝の8時台と14時台。「やくも」の手薄になる時間帯に設定されていました。
停車駅は、岡山を出て倉敷、総社、備中高梁、井倉、新見、生山、根雨、伯耆溝口、伯耆大山、それから終着の米子。
急行だけあって特急より多めの停車駅で、井倉にも止まっていましたね。
なんせ当時は井倉洞への観光客の需要もそれなりにあったってことでしょう。電化後の「やくも」で井倉に停車する列車はしばらくありましたが、今は全列車通過になって久しいです。昔ほど観光客がいないのか、クルマで来る人が多いから、もしくは新見からのバスで十分だってことなのか、そんなところでしょう。
先日も、2度にわたって岡山から玉造温泉まで往復しましたけど、進行方向下りで右側の窓から、この井倉洞の入口が見えるのですよ。その入口を見て、あの頃のことを少しばかり思い出しました。
井倉洞の中の光景は、今思い出そうとしてみても思い出せない。井倉洞の中の光景さえ思い出せないのに加えて、何をどんなところで食べたかなんてこともまったく記憶から抜け落ちてしまっているのよ。
だけどね、井倉洞の施設の敷地内に静態保存されているD51の838号機を見たことは、今も覚えています。
この機関車は昭和天皇のお召列車も引っ張った機関車でね、その時機関士をされていた方が岡山大学の近くで喫茶店をされていたのよ。大学生の頃、そんなわけでよくその方のお店にお邪魔していましたね。それで、いろいろ鉄道の話を聞かせていただいたことを覚えています。
それもあってあのD51の838号って機関車、実物はあのとき一度見たきりではあるのだけど、今もって印象に残っているのですよ。
今こうして話していても、おぼろげながら当時の記憶が蘇ってきている。
だけどその周辺のことは、まったくと言っていいほど思い出せません。
それから、帰りの井倉駅での記憶も鮮明に覚えていましてね。
ちょうどこれから帰ろうとする列車、最初に乗込んだのは、キハ26とはいえ元は一等車、今でいうグリーン車だった車両でね、リクライニングはないけど転換クロスの車両でした。無論、冷房はありませんでした。
それで、買ってもらっていたパンを開けて食べようとしたのよ。
そうしたら、急に向いに止まっていた急行列車がタイフォンを鳴らして出発しようとしていたわけ。思わず持っていたパンを落としそうになった。
なんせあの頃は、列車のタイフォン、結構大きな音を鳴らしていたからね。今は余程のことがない限り、大きな音は鳴らさないよ。騒音扱いでしかないからね。
それで、向い側の急行伯耆を見たらちょうどグリーン車で、白い制服を着た車掌さんが検札に回っておられたのが見えました。
あのパンも、覚えています。パンの上の切込みにクリームが入っていて、その真ん中に赤いゼリーのようなものが乗っていてね、確かあれは山崎パンで発売されていたものだったかな。確か、スペシャルサンドって名前のパンだったよ。
後年何度も見たけど、それを見るたびに、あのときのことを思い出したものよ。
なんか恐怖を感じたのか、折角の格下げ車両で今なら喜んで乗っていくところだけど、隣の元から普通車のキハ26に乗って岡山に戻りました。
今思えば、もったいないことをしたものだなって思うことしきりです。
でも、ひょっとしてそのキハ26、後にうちの鉄研が10周年のときに走らせた記念列車のキハ26の238だったかもしれない。じゃあないにしても、これもこれである意味すごい出会いだったのかな。
その年の夏の思い出としては、それがあまりに鮮明だったこともあってか、ほとんど記憶にないのよ。何を食べたとか、どこで誰とどんなことをして遊んだとか、そういうことはほとんど記憶から抜け落ちてしまっているね。
でも、鉄道絡みの記憶だけは、あの夏のこと、鮮明に覚えています。
あ、今、もうひとつ思い出した。
確か長崎屋の出していたお菓子のおまけで、真鍮の特急車をかたどったおもちゃが入っていたのを3つほど買っていただいた。それを3日にわたって食べたと思うが、そのおもちゃは今も覚えているよ。
金色のキハ181、銀色のクハ381、それと、銅色のクハ481。
忘れもしないよ。だけどあの3両、移転先まで持ってきたのはいいが、その後、どこかに行ってしまったのよ。それがわかった時は、辛かったね。
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「このところ、せーくんの記憶って鉄道絡みのものばかりね。その周辺のことがなぜ見事なほどに欠落していて、鉄道のことばかりが出てくるのかしら?」
いささか呆れがちなメルさんに、作家氏が答える。
「メル姉、わしもここまで鉄道絡みの記憶しか出てこないのが、不思議でたまらないのよ。なぜなのかなぁ? 余程、他の記憶が飛び散ってしまうほどの何かがあったのだろうか。そうとしか思えないけど、こうして話しているうちに、他に何か思い出すことも、あるかもしれない」
そう言って、作家氏は目の前の水を再び口に含んだ。
言われてみれば確かに、鉄道絡みの話ばかり。それもこれも、そういう記憶ばかりあまりに鮮明で、他のことを忘れてしまっているのだろうか。ここはとにかく話を続けていくしかあるまい。答えが、そのうちに見つかるかもしれない。
少し休みを入れて、また録画を再開することに。
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