第9話 またもや春のサプライズ・1980

 養護施設のありがたいところは、年度末などの一定のところでそれまでの関係が一度ガラガラポンにして組み替えることの出来るところです。

 家庭ではまずもってできないことが、ここでは日常茶飯事とまでは言わないにしても、合法的にできるわけですよ。確かに、うまく行っているのを変えて問題が発生する可能性もないわけではないが、そうかと言って一概に悪いことばかりではありません。問題がある状況を解消する、絶好のチャンスでもあるのです。


 時は1980年。昭和55年の春。

 某園では毎年恒例の部屋替えが行われました。

 昨年度とは少し毛並みの違う部屋割りになりました。今度は、小学校の1年から6年までの男子はほぼ縦割りでの編成になったのね。

 そのおかげもあって、私にとっては昨年度よりいい形になりました。

 実はこの年の担当は一昨年前と同じ保母さんでしたが、新卒で入って3年目ともなれば慣れたものでして、そんなに悪くはなかったとだけ言っておきましょう。

 この年は、春休みには増本さん宅に行くことは特にありませんでした。そこで終われば、ああ残念、ってことになるかもしれんね。去年のお泊りはこの年限りのサプライズだったのだなってことで、これで普通に戻っただけだな、ってこと。


 しかしながら、何と、昨年以上にもっと大きなサプライズがありました。

 1学期が始まって間もない4月の終り頃、4泊5日で泊り込みに行くことになったのです。そうなると、途中、学校に行く日があるわけですけど、それは増本さん宅から直接学校に行くということになったのです。無論、それまで学校のある期間に増本さん宅に泊り込むなんてことはありませんでしたが、この年はなんとこういう形になったのですよ。これはしかし、増本さん宅が某園と同じ小学校区にあったからこそできたことではあります。

 実はこの翌年も、同じような形で学校に行く日が何日かありました。

 それでまあ、4泊5日、長期休暇や正月のような時期ではない、普通の時期でこのような形で里親さん宅に泊れることになったわけですが、そういうのも新鮮で良かったですね。

 無論、他の子で同じようなことをしてもらっている子がいなかったため、いろいろ思われることはあったかもしれませんが、それはもう、そういうものなのだってことで、誰も何も言っていなかったはずです。

 しかし、今回は学校のある時期ですから、いつものように朝からぼちぼちやって昼ご飯を食べたら夕方くらいまでぼちぼち遊んで、みたいにはいきません。

 何であれ、学校に行かなきゃいけませんからね。それこそ今時のように不登校にでもなっていれば格別、そうでもないのに学校に行かなくていいと称して登校さないとなったあかつきには、それはそれでオオゴトでしょうが。

 いくら短期里親とは言え、ここでは子女に教育を受けさせる義務を負っているってことになる。厳密には家族の中の子女ではないかもしれないが、その期間は保護責任者という立場に置かれるわけですからね。

 通っていた小学校は岡山大学をはじめいくつか大学があって、その影響もあったのだろうか、文教地区として定着しつつありました。

 そんな場所だから保護者の意識も高くてね、普段は特に集団登下校をしていない学校でした。そういうこともあって、何の問題もなく、ただただ時間が来たら学校に向って、終わったらそそくさと帰って来るだけ。某園まで帰るのではなく、増本さんのお宅にね。

 もっともその間、日曜日や祝日を含めて休みの日がいくつかありましたから、そのときは善明寺の境内あたりに行って遊んだかもしれません。ひょっと、どこかで御家族の人と一緒に街中に出かけたかもしれませんが、それで何か食べたとか買ってもらったとか、そういう記憶はありません。


 だけど今思い出してみるほどに、これはこれで、すごくいい経験をさせてもらえたのではないかって気づいた。

 いつもは養護施設から出向いているのに、この増本さん宅にいるときはなんと、一般家庭から学校に行くという、この時点ではできないはずの経験をさせてもらったわけよ。あの不思議な感覚が、肌身によみがえってきた感じさえしますね。

 そういえば、養護施設に入所を余儀なくされる前には、備前市の地元の幼稚園に通っていたわけだけど、あれは当然、父方の祖父母のいる場所ではあるけど、自分の住んでいる家から通っていたわけ。

 その時と同じ経験を、こういう形で意識してさせてもらえたってわけだ。

 よもやできなくなっていたはずの経験を、形を変えてさせていただいたってことは、実にありがたかった。このときばかりは、公務員宿舎に住んでいる同級生のK君より学校が近いときたものですよ。

 学校が近いって、いいものだぜ。こういう経験も大事だわな、マジで。

 なるほど、こういう手法もあったのかって、今さらながら思うところです。


 かくして某園から前回同様夕方の19時頃に迎えが来て、それで戻って、また日常の生活に戻っていきました。前回のことがあったから、某園の側もそのへんは気を使って、あえてそうしてくれたってわけよ。

 次のお楽しみは、この夏ってことで、ね。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


「ところで、4年生の時の保母さんは、どうされたの?」

「その年度末で退職された。確か、短大を出て3年間務められたはず。彼女は悪い人じゃなかったけど、どうも、子どもらしさのようなものをやたら押し付けてくる傾向があったね。人をひたすら群れさせるような」

「じゃあ、4月から担当になった保母さんはどうだったのよ?」

「そこまでひどい感覚は、なかった。1年目だった小3のときのことはあまり覚えがないけど、この年の接触はある程度覚えている。この年は増本さん宅以外にも、夏休みに宿泊させていただいたご家庭があったのよ。それが、今住んでいる場所のそれこそ歩いて何分もかからない、同じ町内にある当時の担任の先生のご自宅だったのよ。なんか、すごく回りに気遣われていたのだなって、今となっても思うところがあるねぇ。何か私に後ろめたさのようなものでもあるのか、って」

「うしろめたさのようなものって、どういうこと?」

「これは後に母の兄になる伯父に聞いた話だが、その頃、私がどの養護施設にいるのか探していたみたいだ。某園にも来たようだが、園長以下職員側は、ここにいるという回答はしなかった。連れ帰るとして、それが当時のぼくの福祉にかなうのかという話も発生するからね。それがよかったのかどうかはわからない。ただ、そういうことも、あのような措置には少なからず影響を与えていたのではないかという気もするのよ。示し合わせたかどうかは別として、ね」


 ここで、少し間があいた。目の前の何かを飲んで、二人は間を持たせる。

 次に口を開いたのは、女性のほうだった。

「じゃあ、せーくん、いいかな。他にも何か、その年で覚えていること、ある?」

「あるよ。鉄道研究会の話は別としても、この年は、ぼくにとって人生を大きく変えてくれる土壌がしっかりと形作られたような、そんな年だった。2年生のときとそれから前年もそうだったけど、その先生のクラスでもある少年と一緒になった。彼は今、映画監督をしている。名前は言わないでおくけど」

「あの方ね」

「せやせや。進める前に、もう一杯、ビール」

 作家氏はまたも、350ミリのビール缶を開けてグラスに注いで飲む。今度は全部飲み干したりはしないが、コップ一杯分は一気に飲み干し、追加のビールをグラスに移した。


「ほな、ぼちぼち始めるわ」

 チェイサーの水を少し含み、作家氏自ら動画のスタートボタンをクリックした。


・・・・・・・ ・・・・・ ・

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