部屋着

宙色紅葉(そらいろもみじ) 週2投稿中

部屋着

 突然だが、私は匂いフェチだ。

 洗濯洗剤に野花の香り、柑橘系のアロマオイル。

 この世には多種多様な良い香りというものが存在している。

 だが、そのような様々な良い香りの中でも、私にとって最も素晴らしく感じる匂いは何か、と問われれば、それは彼氏の匂い一択だ。

 香水や洗髪料の匂いではない。

 体臭だ。

 汗はいいぞ。

 夏場、汗をかきながら眠っている彼のうなじや後頭部、脇に顔面を埋めて嗅ぎ回すと、体臭と布団と朝日、それに寝起きの人間が発する、何かよく分からない良い匂いが混ざって……

 へへ……堪らないな。

 早く夏にならないかな。

 よく、「実は恋人は匂いで決められている」だとか、「体臭を好める相手は遺伝子レベルで相性が良い」などという話を耳にすることだろう。

 真偽は不明だが、この説は結構、正しいのではないかと思っている。

 嗅覚は五感の中でも人間の快、不快に関わる重要な感覚だ。

 別に匂いフェチでなくとも大抵の人間は良い匂いが好きだし、嫌な臭いを嗅げば生理的な嫌悪感を催す。

 体臭を好めない、というよりも相手の体臭に対して嫌悪を催すということは、相手に対して生理的な嫌悪を覚えているということだ。

 反対に体臭が好ましく、嗅いだ瞬間に快楽を覚えて心が潤うということは、相手を生理的に好んでいるということになる。

 人間を人間たらしめる特徴は「理性」だろうが、それでも、あくまでも、人間は動物だ。

 動物的な性質というものは人間にとって無視できない。

 そう考えれば、恋人を匂いで判断するというのは、あながち嘘でもないと思うのだ。

 私自身、彼の匂いは好きだが、彼以外の人間の匂いは嫌いだ。

 脳が渇望するレベルで匂いを求めてしまう相手は、現状、彼くらいしかいない。

 牛乳石鹸のような妙に柔らかくて優しい甘い香りと、男性らしいスパイス系の刺激的な香りが混ざり合い、どうしようもなく私の心を惹きつける。

 駄目だ、考えていたら嗅ぎたくなってきた。

 彼が寝転がっているリビングに行こう。

 幸い、彼の方は私が匂いフェチである事を知っているし、髪や胸元、うなじなんかを嫌がらずに嗅がせてくれる。

 たまに、

「そんなに良い匂いする? あんまり良いものじゃないんだけどな」

 と、謙遜しながら照れ笑いを浮かべることはあるが、自宅では心行くまで嗅がせてくれるので、その度に私も言い表せぬ幸せに浸って楽園を感じている。

 同棲して以来、挨拶のように彼を嗅いできたプロの体臭フェチだが、最近どうにも贅沢になってしまったみたいだ。

 彼の部屋着を嗅ぎたくなってしまった。

 それも、少なくとも一ヶ月以上は着続けた彼の部屋着だ。

 いや、欲を言えば三か月くらい、半年いってもいい。

 何せ、今の季節は春で段々と温かくなってきたものの、未だに寒い日が続き、あまり汗をかかないなど新陳代謝が悪い。

 夏場なら二日と来ていられない衣服も、意外としばらく着ていられるほどだ。

 数か月は経たないと部屋着に彼の素晴らしい体臭や汗が染み込まない。

 そのため、最近の私は彼の部屋着を洗ったふりしてタンスに戻すという行為を繰り返していた。

 バレたら確実に怒られる。

 秘密裏に成功させなければ……

 そう思っていた矢先に彼から、

「ねえ、俺の部屋着、ちゃんと洗ってくれてる?」

 と、猜疑心の降り積もる瞳で問われてしまった。

 洗ってない、が、イエスとは言えない。

 目を泳がせていると、ズイッと彼がにじり寄ってきた。

「洗剤の匂いがしない上に、何か臭いんだけど? ほら、ここ、汚れついてるし」

 彼がチョンチョンと指差す袖口には可愛い食べこぼしがくっついていた。

 こんな時に何だが、テンションが上がる。

 未だにちょっと食べこぼしたり、テーブルに落とした醤油を引っ掛けたりするところが、非常に愛らしいと思う。

「あ、えと」

 まごまごとしていたら、彼が部屋着を脱いでポスンと手渡して来た。

 嗅げ、という意味だろう。

「う~ん、凄くいい匂いだけど、これじゃ、まだまだ浅漬けかな。やっぱり、最低でも一ヶ月は寝かせたいよね、あ……」

 なんてこった。

 ソムリエの血が騒いで、ごく自然に彼の部屋着をレビューしてしまった。

 完全に墓穴を掘った。

 まさか、こんな自らトラバサミに足を突っ込むみたいな真似をしてしまうだなんて……

「やっぱり! 洗ってないでしょ。なんでこんな手の込んだ嫌がらせを……不満があるなら直接言ってよね。流石に陰湿だと思うんだけど」

 どうやら、部屋着を堪能するために着続けていただいているという事実には思い至らなかったらしい。

 彼はムッと口をとがらせて不機嫌な声を出している。

 事態が事態だけに誤魔化しようがないし、誤解も解くべきだろう。

 ここは、もう、素直に話して謝るしかない!

「ごめんなさい! 汗が染み込んで、きったなくなった部屋着を!! 嗅ぎたくて!!」

 誠心誠意、心を込めて謝罪したつもりだったが、

「座って」

 と叱られ、フローリングの上に正座をさせられた。

 はい。

 お説教タイムです。

 床がちょっと冷たい。

 部屋着も没収されて彼の足元に転がされてしまった。

 ああ、グシャグシャにされちゃって、おいたわしい。

 いや、脱ぎ捨て感が可愛らしい。

 えっちですね。

 眼鏡をクイクイしちゃう!

「全く、洗濯が意味をなさないほど俺の体臭が強くなったかと思ったんだよ。結構びっくりしたんだから」

 洗濯が意味をなさないほどの体臭!?

 興味があります。

「興味を持たない!」

 口から零れていないはずの思考が読まれてしまった。

 彼はエスパーなのか。

 いや、私が分かりやすいだけか。

 というか、上裸のまま腕を組んで私を見下ろす彼!?

 スケベだな。

 スケベすぎる!

 えっち!!

「ほんと、変だと思ってたんだよ。なんか薄汚いからさ。何日洗ってないの?」

「二週間半ほど。いや、でも、まだ小汚さが足りないというか、全く染みていない段階でして。全体的にくすんだ色になって、そろそろ洗わなきゃ! という姿になってからが本番でして……」

「思ったよりも洗ってない! というか、反省してないでしょ!」

「うぅ……」

 しょぼん。

 とにかくしょぼん。

 がっくりと項垂れ、しょんぼりとした瞳で彼を見つめた。

「そんな目で見ないでよ。俺が悪いことしてるみたいじゃん……む、むぐぅ……分かったよ。今回だけだよ。今回だけ、許してあげるから、ほら」

 根負けした彼が部屋着を解放してくれる。

 私はギュウッと彼の部屋着を抱き締めた。

 お帰り、マイスイートハニー。

 さて、二週間半分の体臭を溜め込んだ部屋着が手元にやって来たわけだが、まだ交渉の余地がある気がする。

 というか、バレてしまったのだから大人しく諦めるか交渉するかしかない。

 私は簡単には諦めない女。

 体臭の為なら人間の尊厳を捨てられる。

 私は重ねた両手を前方にスライドさせ、土下座をした。

「一ヶ月! どうか、一ヶ月のご容赦を!!」

「駄目」

「では、三か月ではいかがでしょうか!?」

「なんで増えたの!? 絶対に駄目!」

 ふむ、取り付く島もない。

 だが、それでもあきらめない。

 まだいける、まだだ!

「三か月後、私の誕生日がございます!!」

「誕生日プレゼントとして要求してる!? だ、駄目! うまく言えないけど、なんか駄目! 何かやだ!!」

「私は良いと思います!」

「駄目。誕プレには真っ当な物を買います」

「プレゼントとは本人が欲しいものを送るのがベストではないかと!!」

「駄目なものは駄目!!」

 両手を合わせて粘ること半日。

 私は勝利を勝ち取った。

 三か月後が待ち遠しい。

 ちなみに、誕生日プレゼントは別途、貰えることになった。

 プレゼントをダブルで貰ってしまうことに関しては、なんだか申し訳がない。

 でも、ああ、尊い。

 彼が尊い。

 ありがとう、日本。

 ありがとう、地球。

 ありがとう、宇宙よりも広い彼の心。

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