8.隠者無双
隠者とは社会とのつながりを断ち、人里離れた場所で孤独な生活を送る者のことだ。
社会的動物である人間にとって、それは何よりも困難なことだ。
人と話をすることができず、触れ合うこともできず、ずっと1人でいることのさびしさは想像もできない。常人ならば発狂するのではないか。
飢えても病気になっても誰にも頼ることができず、すべてが自己責任。誰にも看取られずに1人で死に、腐乱してウジに喰われる覚悟をして日々を送っている。
そんな隠者には俺も敬意を抱かざるを得ない。
この世界で広く信仰される「ドロン教」の教義においても、隠者は神に近い尊い存在とされている。
ドロンとは、神が地上に遣わした救世主の名前だ。
はるか昔、気候変動によって気温が上昇し、あらゆる生物が滅亡の危機に瀕したことがあった。
そんな時にドロンは降臨し、この世界を特殊な空気の膜で覆い、強すぎる太陽の光を弱めてくれた。
世界を救ったドロンを人々は神に次ぐ存在とみなし、偉大なる指導者として崇めた。ドロン教の誕生だ。
しかしある日、なぜかドロンは人々の前から
人々はドロンがいなくなったことを嘆き、きっとドロンは役目を果たして天に帰ったのだろうと考えた。
それから数百年後、ドロンは天に帰ったのではなく、人里離れた場所で隠遁生活を送っていると考える者が現れた。
ドロンはどこかでひっそりと暮らしており、いつかは再び人々の前に姿を現してくれる。
そう信じる者は、ドロン教の中の「
隠棲派と帰天派は激しく論争し、時には血を流して争った。その結果、隠棲派が正統な教義となった。
隠者はドロンと同じ生き方をしているからこそ、尊敬されるのだ。
彼らが神の啓示を受けて隠術という超常的な力を使えるようになるのも、隠棲こそが神の推奨する生き方であることを証明していると言えよう。
かつて300年以上も隠棲を続けていたエロイは、隠者の中でも別格の存在だ。彼女にとっては玉座の間に大量の水を降らせることも、空中に浮かんでいることも、朝飯前だろう。
「ここは王の権威を示す神聖な場所です。争いごとは許しません」
エロイはそう言うとふわっと地上に降り立ち、靴音をカツカツと鳴らして俺たちの方へ歩いてきた。
足首まで達する水の中を歩いているのに、エロイの足元はまったく濡れない。彼女が歩く先で水が左右に分かれ、道ができているからだ。
隠術のすごさをまざまざと見せつけられ、誰も言葉を発することができないでいた。マクシムまでが泣きやんで静かになっている。
エロイは俺とカーケンの前で立ち止まった。
「カーケン殿、戻ってきたならまずは陛下に会いに来るべきでしょう。父親の容体が心配ではないのですか?」
「それは……もちろん心配ですが……まずは王位簒奪者を罰するのが先決と思いまして……」
カーケンのような傍若無人な女でも、エロイには逆らえないのがおもしろい。
スタイルのよさを誇示するかのようにビキニ姿で肌を露出させているこいつも、エロイの前に立つと貧相な体に見えてしまうな。特に胸のあたりが。
「私の目には、むしろあなたが王位簒奪者に見えます。玉座の間に自分の
エロイがそう言った次の瞬間、2000人の兵士たちが困惑の叫び声をあげた。剣が彼らの手から離れ、空中の1か所に集まっていったのだ。
2000本の剣は空中にぽっかりと空いた穴に吸い込まれ、消えた。
同様にして、俺とカーケンが持っていた武器も奪われた。
「物騒なものは没収しておきます」
俺たちは呆然とするだけで何もできなかった。呪文を唱えることもなく、身振り手振りもなく術を使われるのでは、反応しようがない。
隠術を使うには詠唱のようなものは必要ないらしい。ずっと1人で生活している隠者には、口から発する言葉など不要なのだ。
エロイがその気になれば、俺たちは気付く間もなく殺されるだろう。
親父が三顧の礼をもって彼女をスカウトしてきたのも、その戦闘力に期待してのことだった。
しかし彼女は戦争に協力することは頑として拒んだ。隠術を戦争には使わないと神に誓っているのだそうだ。
エロイが力を貸してくれていれば、今ごろアルゴール王国は世界を支配していただろう。
「力ですべてを支配できると思ったら、大間違いです」
黙り込むカーケンに対し、エロイは続けた。「私は隠術を暴力の道具として使うことはありません。あなたも法と秩序を尊重するように努めなさい」
カーケンは黙って頭を下げた。だが心の中ではエロイを
それにしてもエロイはカーケンの無法な行為に対して、口頭の注意で済ませるつもりだろうか。どうせなら重い罰を与えてくれればいいのに。
と思っていたら、彼女の矛先は俺にも向けられた。
「アクセル殿、子どもを守ろうとしたのは立派ですが、あなたも暴力以外のやり方を覚えなさい」
「はい、申し訳ありません」
素直に謝った。機嫌を損ねてはいけない相手だ。
「姉弟仲良くしろ、などとあなたたちに言っても無駄でしょうから言いません。しかしエルドール陛下が王の務めを果たせない以上、あなたたちの誰かが王位を継がねばなりません。暴力以外のやり方で問題を解決できる人物が、国王になってほしいものです」
なるほど。やはり彼女も、意識がない親父では王は務まらないと思っているのか。
「レイス王子が王都に戻ってきたら、私は国王選挙の実施を宣言するつもりです」
そして彼女の口から国王選挙という言葉が飛び出した。「あなたたちに王位を継ぐ気があるなら、正々堂々と平和的な方法で選挙戦を行ってください」
俺とティコはカースレイド商会を訪れ、ユリーナに事情を説明した。
「エロイ殿の目が光っているところでは、俺もカーケンも無茶なことはできそうにない」
「少なくとも王都にいる間は暴力は控えた方がいいってことかー。カーケンを暗殺できないのは残念だね」
「どのみち暗殺は難しいな。ローレンと違って隙がない。認めるのはしゃくだが、あいつは知力も体力も桁違いだ」
「確かに優秀な人なんでしょうが、性格は最悪です」
ティコが吐き捨てるように言った。「あんなのが女王になったらこの国は地獄になります」
「うーん、でも2000人の不死鳥軍団は厄介だよねー」
「やはりカースレイド商会の戦闘員では対抗できないか」
カースレイド商会の裏の顔は反社会的集団である。だからヤクザな連中を大勢抱えている。
「無理無理」
ユリーナは顔の前で手をひらひらと振った。「あいつらは所詮チンピラだから、正規軍が相手じゃ勝負にならないよ。しかも全員が職業兵士なんでしょ?」
「王家の軍を私物化するなんて許せませんよ。エロイさんがカーケンから不死鳥軍団を取り上げてくれたらいいのになあ」
ティコが不満を口にした。俺も同感だ。
「エロイ殿の心の中はまったく読めないな。何百年も隠遁生活を送っていた人間は、俺たち常人とは思考回路が違うのかもしれない」
「カーケンに比べれば、はるかにまともな人なんですけどね」
「あの狂人と比べるのは、さすがに失礼だぞ」
「カーケンは確かに狂ってるかもしれないけど、言ってることはそれほど間違ってないよね」
ユリーナが真面目な顔で言った。「軍隊を従える者が国を支配するってのは、確かに真実だよ」
「そうだな。だったら、まず俺たちがやるべきことは1つだ」
俺は2人に向かって宣言した。「カーケンに対抗できる軍隊を手に入れよう」
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