第12話 枕営業

 朝早く目が覚めた。


 昨日は縁日の後、舞奈さんと駅で別れ、家路に着いた。身体が浮くように軽やかだった。縁日でのデートを思い出しながら、ベートーヴェンの《熱情》をバックハウスの奏でる音に身を任せて聴いた。とても心が踊った。そのまま家に着き、すぐに眠りに落ちる。


 僕は早すぎる清々しい朝を迎えて昨日はチェックしなかったSNSを覗いた。


 政府の裏金問題と宗教との繋がり、他国の戦争、近隣国のミサイル発射に猫の動画、自称フェミニストの重箱の隅をつつくような呟き、親が子に虐待するニュースが載っていた。そして最も注目を集めていたのが、暴露系のインフルエンサーによって暴露された椎名町45の小雪ちゃんが事務所に命令されて枕営業をしているというスキャンダルが発表されていた。


 僕の推しだった人が金を持った性欲の化け物達の餌食になっている。それだけ聞くととても不快な気持ちになるのだが、今や僕は椎名町はおろか小雪ちゃんにすら全く興味が湧かなかった。寧ろ、表現の才能のない女が、自らの若さと美貌を武器にして男を篭絡させる醜く汚い者としてしか見れなかった。それが事務所の意向によって無理矢理やらされていようがなんだろうが、それに見合う対価、つまり金と名誉を得ているような気もする。暴露系インフルエンサーの言うには、小雪ちゃんの所属する事務所は業界でもそこそこ有名なヤクザ事務所らしいので、専らデマってわけでもなさそうだった。


 確かに可哀想ではあるが、僕にはもう関係のないことだ。いや、初めから僕と小雪ちゃんの間には何もないのだから、今まで関係があったなんて言い方はそもそもおかしい。


 僕はそう割りきる。それよりも早すぎる朝を満喫しよう。僕はそう思い立つと出勤するにはまだまだ早い時間帯だが仕事の準備をして家を出た。こんなにも清々しい朝を自室で過ごすのは何だか勿体ない気がしたのだ。


 いつもの道が、いつもの出勤風景が全く違って見える。ポータブルCDプレーヤーでベートーヴェンのピアノソナタ第1番、第1楽章をBGMに僕は街を闊歩していた。コロコロと響くピアノの音色は僕の歩調と脈打つ鼓動の早さと同調し、とても気分が良い。


 まだ工場は開いていないけれど、朝の工場を僕は見たくなった。


 少し遠目から工場を見据えながら、そこに向かって歩いたが、僕は足を止める。昇ったばかりの日の光がいつもと違った明度で、いつもと違った角度で工場を照らしていて、何だか幻想的だった。


 僕はその光景にみいっていると、工場の前に黒い車が止まっていることに気が付いた。ピカピカでこの車も朝陽あさひによって黒く輝くように照らされていた。社長が新しい車を購入したのかと思った。ということはもう社長は出勤しており、工場で働く僕達の為に、こんなにも朝早くから働いているということだ。


 僕は仕事へのモチベーションが朝陽あさひと共に上昇するのを感じる。すると工場からスーツを着た短髪の若い男の人が出てくるのが見えた。その人は僕に気が付くことなく車へと乗り込み、排気ガスを散らして走り去っていった。


 社長の車ではなかったみたいだ。


 ──それにしてもあの男の人どっかで……


 最近、多くの人と関わりを持った。その内の誰かだと僕は当たりをつける。僕は1人ではないとここでも強く感じることができた。そして思い出した。昨日酒田さんが部屋へと案内していた幹部の人達の中にいた人だ。しかし僕はその幹部の人をもっと前から知っている気がした。昨日は酒田さんに元衆議院議員の人もいると言われたので、ネットでその人の顔を見たのかと思ったが、違う気がする。


 ──今度、舞奈さんに会った時に、訊いてみよう!


 短髪の若い男性が僕の勤める工場の商談相手なのだろうか。仮に商談相手だとしても社長はこんなにも朝早くに仕事をしているのは事実だ。僕はウキウキしながら工場を通り過ぎ、周辺を散歩した。


 清々しい朝も時が過ぎ、いつもの通勤で行き交う人達が徐々に現れ始める。僕は工場に──それでもいつもより早く──到着した。


 今日の工場長はなんだかイライラしていた。そして1日のノルマがいつも以上に追加され、みんなが困惑していた。


 それでも僕には全く問題なかった。なんせ、今日は気分がとても良いし、バックハウスのCDもあるのだから。これを聴きながら作業できるなら休憩なんていらなかった。


 まるで背中に羽が生えたかのような軽やかさで僕は、仕事に取り掛かった。


 ガチャンバツン、ガチャンバツンとメトロノームのようにプレス機がリズミカルに音を立てる。この速度はアンダンテかそれともラルゴだろうか、僕はすっかり音楽家気取りになっていた。


 この足踏み式のプレス機が違法なモノだとしても全く気にならなかった。寧ろピアノの足元にあるペダルみたいでなんだか楽しかった。ピアニストになったみたいだ。


 どうして僕は幼い頃にピアノを習わなかったのだろうか?どうして今までベートーヴェンを聴いていなかったのだろうか?ピアノソナタだけじゃなくて今度は交響曲も聴いてみよう。レナード・バーンスタインのCDを僕はまだ聴いていなかった。


 バツン、バツンと僕は今流れているピアノソナタに合わせながらプレス機を操作していた。そしてあっという間に昼休憩に入る。


 僕はスマホを見た。舞奈さんから連絡が入っていないか確認したのだ。一件のメッセージが確認できたが、舞奈さんからではなかった。


 そのメッセージは母さんからだった。僕はほぼ無感情でメッセージを開いた。


 おじいちゃんが事故にあい、危篤状態とのことだった。

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