第6話 闇と光
ベートーヴェンの月光という曲は、どうやらベートーヴェンが作曲したピアノソナタ、全32曲の14番目の曲のようだ。
14曲目、第14番には第1楽章、第2楽章、第3楽章と3つあり、その全部をピアノソナタ第14番と題しているようだ。ちなみに月光と称したのはベートーヴェン本人ではなく、また別の人らしい。僕が昨日、トイレで初めて聴いた曲はピアノソナタ第14番の第1楽章だった。
今日は工場も休みだ。
ベートーヴェンのおかげで最高の休日を僕は迎えたのだ。
僕は昨日からずっとベートーヴェンの月光を聴いている。
それを聴き終えると僕はつい考えてしまう。交換可能な機械のような人間について。それになるのがとても不安で、吐き気を感じていたんだ。だから皆、何者かになりたい。交換がきかない存在に。僕の場合でいうと不安から来る吐き気をかき消してくれるベートーヴェンのような存在に皆が成りたいのだろう。
しかしどうやってなれば良いんだろうか?僕にはそんな才能なんてない。
その時ふと、舞奈さんの顔が頭に過った。
僕は舞奈さんにとって交換不能な人間なのだろうか?どうしたら交換不能な人間になれるのだろうか?
舞奈さんからの連絡はまだなかった。
自分から送ろうかと思ったが、しつこい男だと思われるのが嫌だったので、待つことにした。
連絡がきていないことに少しだけがっかりした僕は着替えて外へと出る。ベートーヴェンのCDを買いに行く為だ。
スマホで聴くとどうしても動画が始まる前に広告が入ったり、最悪なのは曲の途中でも広告が入ってくることがあるからだ。
僕はイヤホンでヴィルヘルム・バックハウスの演奏する月光を聴きながら、駅ビルの上の階にある黄色背景に赤い文字の看板のCDショップへと赴いた。椎名町45のCDを買う時もいつもこのCDショップに立ち寄る。
いつもはJ-POPの棚目当てに店内を立ち寄るのだが、今回はクラシックだ。行き慣れた店内なのにクラシックの棚をなかなか見付けることができなかった。R&B、hip-hop、ロックの棚を通り過ぎ、最も奥まったところにクラシックの棚があった。
僕はベートーヴェンのピアノソナタのCDを探す。ベートーヴェンは32曲のピアノソナタだけでなくヴァイオリン・ソナタや交響曲も作っており、それを数多くの演奏者や指揮者がカバーしているため、たくさんのCDが並んでいた。
僕はベートーヴェンのピアノソナタの全曲が入っているCDを手に取った。
ヴィルヘルム・バックハウスのCDだった。僕が昨日、夜通し聴いていた人のCDだ。値段を見て僕は驚愕した。
「たっか!!」
1万2000円もした。せいぜい3000円程度だと思っていた僕は面食らう。他にもベートーヴェンのピアノソナタを収録したCDが幾つかあったが、どれも32曲全てのピアノソナタが収録されているわけではなく、有名な第8
そしてピアノソナタと同じくらい多かったのがベートーヴェンの交響曲第9番のCDだった。
──これが吾妻さんが亡くなる寸前に聴いていた曲……
交響曲とは弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器で構成されている曲のようで、演奏者よりも指揮者がジャケット写真を飾っていた。僕が手にしたのは日本のマエストロ
こちらは2000円程度だった為、僕はレナード・バーンスタインの交響曲第9番のCDも手に持ってレジに向かった。
吾妻さんが妙に落ち着くと言っていた曲が興味を誘ったのだ。それと何故レナード・バーンスタインにしたのかというと、名前が格好よかったからだ。
レジでCDを差し出し、黒いエプロンを着た店員さんとやり取りをするために耳につけていたイヤホンを外す──CD捜索中ずっと月光を聴いていた──と、椎名町45の曲が店内に流れていることに気が付いた。
いつも聞き慣れていた筈の曲と声なのに、コンビニの前での出来事同様、耳を犯すような甲高い声と電子音が僕を襲った。身体中をエビやカニの甲殻類達が這い回る心地がした。鋭く固い足がたくさんついた甲殻類達が僕の皮膚をチクチクと突き刺してくる。一瞬にして吐き気をもよおした僕は直ぐにイヤホンを取り付けて耳を塞ぎ、ベートーヴェンの曲を聴いた。
「どうかなさいましたか?」
ベートーヴェンの曲越しに黒いエプロンを着た店員さんが僕を心配してくれた。僕は直ぐに首を横に振り、お会計を済ます。冷や汗をどっとかき、CDショップを後にする。
そしてその足で、今度は家電量販店へと赴き、ポータブルCDプレーヤーを買った。SONY製のCDプレーヤーがなんと5万円もしたため、安価のポータブルCDプレーヤーを購入した。そしてトイレへと入って開けにくいCDを覆う透明のビニールカバーを悪戦苦闘の末、剥がし、ヴィルヘルム・バックハウスのベートーヴェン、ピアノソナタ、第1番、第1楽章を聴いた。
静かで軽快なピアノの音が聴こえる。椎名町45のあの聴くに耐えない曲などすっかりと忘れてしまう美しい響きだった。スマホと違いCDの音源は更に鮮明であり、僕は購入して良かったと思う。
ヴィルヘルム・バックハウスのピアノはまるで闇と光だった。暗く重たい闇を光が照す。闇のようにくもった音もまた美しく、それを照す光は更に美しい。
今まで曲を聴く為に使っていた僕のスマホの画面を見ると、待ちに待った舞奈さんから連絡がきていた。
『お身体の調子はいかがでしょうか?もしご体調が快方に向かっていれば明日の日曜日にお逢いすることは可能でしょうか?』
僕は直ぐに了承の返信をすると、舞奈さんから時間と場所の指定があり、もう一度了承の返事を僕はする。
目当てのCDも購入できたし、舞奈さんともメッセージのやりとりをした。今日は最高の1日だった。
イヤホンから流れる今までよりも鮮明なピアノの旋律もあって、ルンルン気分で駅ビルを下りると、駅の改札付近に人だかりができていた。僕は、何事かと思い、皆が何の為に集まっているのかを探りながら様子を窺う。
そこにはアップライトのピアノが置いてあり、これから誰かがピアノを弾こうとしているようだった。
──これはストリートピアノだ!!
最近、動画投稿サイトでよく見る。流行りのJ-POPを弾いたり、超絶技巧のピアノ曲を行き交う人達にフラッシュモブ的に披露する動画だ。
最近、ベートーヴェンのピアノソナタに目覚めた僕は胸をときめかせた。生でピアノの演奏を聴くなんて高校生の音楽の授業以来だ。その時もピアノの旋律を聴くのではなく、音楽の先生が伴奏を弾くだけだったので、生演奏とは程遠い気がする。
ストリートピアノを弾こうとしている女性が現れた。
「あれ、カスミちゃんじゃない?」
「うわぁ、生でカスミちゃんのピアノ聴けるとか幸せなんだけど」
「可愛い」
ストリートピアノ奏者として名高い人のようだ。僕は直ぐに、スマホで検索して彼女のチャンネルへと飛んだ。
チャンネル登録250万人を超えた超大物のピアノ奏者だ。
──今日は本当に運が良い!!
僕も集まる人達の仲間となり、彼女のこれから奏でる演奏に胸を踊らせる。
そしてカスミちゃんはピアノの鍵盤に指を置き、息を吸い込み、ピアノに吸い込まれるように上半身を傾けながら鍵盤を叩いた。
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