第5話 月光

「搾取されてます!!」


 舞奈さんは僕にそう告げた。告白されると思っていた僕は面食らい、その場しのぎにどういうことかと質問した。


 すると僕の労働環境は劣悪であり違法とのことだ。僕の使用しているプレス機は本来ならば手を挟まないよう安全装置や安全カバーの取り付けが義務付けられているそうだ。またストローク長さや毎分ストローク数も定まっており、その範囲から逸脱すれば違法であるとのことだ。


 僕は言った。


「でも早く作業できれば効率がいいですよ?」


 しかし舞奈さんは言った。


「その操作でしか1日の生産ノルマが達成されないことがそもそも良くないんですよ!それに効率化って……それだけでは人は幸せになれません」


 僕は舞奈さんの最後の言葉に何故だか急に吐き気をもよおした。急にどうして、こんな吐き気が?


「ト、トイレに!!?」


 僕は口元を押さえてトイレに駆け込んだ。困惑する舞奈さんを置いて。


 トイレに入り、ドアを閉め、鍵をかける。便器を前にしてひざまずき、祈るようにして嘔吐した。


 一度吐き出したとて、まだまだ僕を形作ろうとする内容物が食道を逆流して、口元に押し寄せる。先程のサンドイッチもだ。吐き出したいのだけれど吐き出したくない葛藤と闘っていた僕は、不意に耳からピアノの旋律が聴こえてきた。


 優しい響き、心のどこかで感じたことのあるような調べは僕の吐き気をかき消した。僕は便器に土下座するようなポーズから立ち上がり、ズボンを下ろさず便器に腰かけた。そしてこのトイレのスピーカーから流れるピアノの旋律に身を委ねる。


 一体どのくらいの時間が経っただろうか、僕がなかなか帰ってこないことを心配して舞奈さんが男子便所のドアを慎ましく叩いてくる。


「朝日さん?大丈夫ですかぁ?」


 僕はデート中だったことを思い出し、扉を開けた。急に扉が開いた為か舞奈さんは驚いていた。そしてそんな驚く舞奈さんに僕は尋ねた。


「このッ、この曲はなんという曲ですか!?」


 舞奈さんは首を傾げると、耳を澄ます。トイレのスピーカーから聴こえる曲を聞き取った彼女は答えた。


「ベートーヴェンのピアノソナタの月光ですね……誰が弾いてるんだろう……」


 彼女はそう言ってスマホを操作しながら、スピーカーに向ける。


 ──ベートーヴェンの……


 僕は舞奈さんの発した名前に聞き覚えがあった。勿論、作曲家であることは知っている。しかしごく最近、ベートーヴェンの名前を聞いた気がしていた。僕は直ぐに思い出す。吾妻さんが好きな作曲家だ。


「これが……」


 僕はそう呟くと、舞奈さんは言った。


「ヴィルヘルム・バックハウスという人の演奏するベートーヴェンの月光だそうです」


 スマホ画面を僕に見せてきた。スマホアプリでトイレのスピーカーから流れる曲をスマホに聴かせて検索してくれたのだ。僕は直ぐに自分のスマホを操作してメモを残していると、舞奈さんが言った。


「すみません。今日はこのくらいにして、また今度、詳しくお話しできませんか?」


「え…は、はい……」


 僕は流れに身を任せながらカフェを出て、舞奈さんとも別れた。そしてその時に思い出した。お会計をするのを忘れていた。きっと僕がトイレで吐いていた時に彼女が済ませてしまったのだろう。僕がやろうとしていたことを逆にやられてしまった。


 ──これで嫌われてしまっただろうか……


 僕は帰り道を1人でとぼとぼ歩いていると、舞奈さんから連絡が来た。


『今日はありがとうございました。お話を聞かせて頂いて大変勉強になりました。お具合はその後いかがでしょうか?朝日さんが元気になられた際に、もう一度お会いしたいと思います。お具合の経過とそれに見合った日程について、また明日ご連絡をしても宜しいでしょうか?』


 お会いしたいと思います。の一文を僕は何度も読み返した。舞奈さんの優しい表情と声が頭を過る。


 僕は直ぐに返事をした。


『はい。宜しくお願いします』 


 最後に句読点をつけようとしたが、最近SNSで句読点を最後につけるのは高圧的だと言われていた為、僕は何もつけなかった。それよりも返事を直ぐにしないほうが、相手に自分のことを意識させられるテクニックを使った方が良かったのかもしれない。


 そんなことを考えながら僕は自分の住む安アパートに到着した。


 通勤用のパーカーを脱いで、部屋着に着替え、いつものようにSNSに没入する。


 高齢者の運転による交通事故や国会議員がハニートラップに引っ掛かり機密を漏洩させたり、大企業によるリコール隠し、外国人移民の問題、元国営企業の株を海外に売却する計画、少子化に対しての議員による不適切な発言。


 今日もたくさんの事件が起きていた。どうしてこんな事件ばかり起こるのだろうか僕は不思議だった。


 僕はこの世を憂い、SNSのトレンドを閉じよとしたその時、一番下にあるトレンドワードに目がいった。


『ヤクザの抗争』


 これは吾妻さんの事件についてじゃないかと思い、そのトレンドワードをタップした。


 個人の呟きとニュースを発信するアカウントがあり、僕は後者のアカウントを探し、見つける。内容は、発砲事件があり、3名が死亡したということしか詳しくはわかっていないとのことだ。ある人のアカウントは山名系暴力団による内部抗争だ、と主張している。3人の顔写真が載っていた。その内の1人が吾妻さんだった。


 僕は吾妻さんを思い出しながら、動画投稿サイトをタップしてヴィルヘルム・バックハウスという人の演奏するベートーヴェンの月光の第1楽章を聴いた。


 とても心の安らかな気持ちになった。この曲は時空を越え、空間すらも越え、僕の手を引いて別の世界へと誘ってくれる。


 暗雲立ち込めるようなピアノの響きは、次第に鮮明となり光をもたらした。


 それは夜に瞬く星々の煌めきであった。その星はやがて美しい蝶へと変化し、暗い闇を光の羽で優雅に舞いながら、迷える子羊を安寧へと導く。


 僕は久し振りに深い眠りについた。

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