第5話 魔王と国民 #4
「魔王様、少し思うのですが」
「ん?」
「人間は勇者に遠征させ、少数精鋭で我々と敵対しました。ならばこちらも少数人で編成を組み、人間の国へ遠征してみるのはどうでしょうか?」
噛みほぐしたパイを飲み込みながら、シャズアの提案について考える。しかしカノンの回答は、
「やめておこう。売られた喧嘩は買うが、喧嘩を売るのは好きじゃない。可能な限り平和な時間を過ごしたいんだよ、俺は」
「それは儂も同感じゃ。別に儂等は、人間を滅ぼしたい訳でも、人間を奴隷にしたい訳でもない。儂等の最終目標を忘れたのか?」
シャズアの提案を却下したカノン。メレもその判断には賛成らしい。人狼の姿をしているが故に、シャズアの表情は読み取れない。しかし、カノンの判断には若干不服な様子で、腹の前でふてぶてしく腕を組んだ。
「不服か、シャズア」
「……いえ」
「不服ならそれでいい。人間の国へ向けて遠征したいなら、俺の見ていないところでやればいい。ただし、万が一にもお前が不覚を取り、人間に1本取られた場合……」
刹那、空気が瞬時に凍てついたような、酷く恐ろしく、酷く息苦しい感覚が、カノン以外の全員に走った。
普段は冷静で、比較的温厚なカノン。カノンが苛ついたり、或いは怒ったりと、不機嫌さを纏う場面に遭遇することは無い。それ故に幹部も他の国民も、カノンを不機嫌にさせた場合に起こる異変を殆ど知らなかった。
カノン本人は意識していない。しかし少しでも機嫌が悪くなった時、無意識に発する威圧がある。その威圧に当てられた者は、どんな猛者でも冷や汗を流し、正常なはずだった鼓動を急激に加速させる。
「仇討ちは考えない。お前の墓標も立てない。仮にその屍が帰還しても、
シーヴァは、姿勢を崩しはしないものの、額に汗を浮かべる。
プラナは、額だけでなく手中にも汗を溢れさせ、何かを抑えるためか唇を軽く噛む。
メラは、カノンから目を逸らし、震えてしまう手を強く握る。
ベイルズは、比較的涼しい顔をしているが、吐き気を促す程に心臓が速く脈打っている。
ガノードは、緊張感に顔を引き攣らせるが、奥歯を強く噛み締めどうにか恐れに抗う。
ノクトーは、ただ1人カノンの発した恐怖に対抗しており、汗もかかず、脈打つ心臓も平常だった。
そしてシャズアは、組んだ両腕を咄嗟に解き、気付けば椅子から立ち上がっていた。
「何故椅子から立つ? 何か言いたいことでも?」
恐怖。極めて純粋な恐怖が、シャズアの体を動かした。それを理解してか否か、カノンは更なる圧力を与える。
「あ、いえ……」
「何も無いのに紅茶の水面を揺らすのか? シャズア、完璧な礼儀作法を実行できる者などこの世には存在しないが、今のお前の行動は無礼だと思うぞ? ああ……そうか、体調不良だな? 体調が優れないんだな?」
それはさながら、誘導尋問。恐怖と緊張で体が勝手に動いたシャズアを、体調不良が原因である無礼だと判断し、カノンは自らの判断を半ば強引に押し付けた。
「メレさん、転移魔法を。シャズアを自宅まで送り届けてやって下さい」
「っ! いえ、1人で、帰れます」
「……そうか。ならばすぐに帰れ。体調次第では暫く仕事も休め」
「……失礼します」
転移魔法による自宅への強制送還を拒み、シャズアは自力での帰宅を選んだ。そもそもシャズアは体調不良ではないため、帰宅などは本来容易。
しかし、閉じられた出入口のドアが遠く、また、ドアが重石のように重く感じられた。魔王直々の呼び出しにより始まった会議を中座する現状が、シャズアの心に幾つもの切り傷を与え、軽いはずの自重さえ酷く鈍重に思えた。
中座するシャズア。シーヴァもプラナもドアを開けず、シャズアが自力で部屋の外に出ていくのを見届けた。通常ならば、執事のシーヴァかメイドのプラナがドアを開けてくれるのだが、今回ばかりは放置、静観していた。
「カノンよ……お前も意地が悪いな。シャズアの奴、相当怯えておったぞ」
シャズアの退室で、緊張から解かれる一同。一息ついて真っ先に言葉を発したのは、口元に軽い笑みを浮かべたメレだった。
「魔王という立場は、優しいだけでは成り立たないのです」
「ほう……若造も随分と板に着いたな」
「先代の受け売りですよ」
先代の初代魔王レオンによる教え。それは魔王という地位を継承したカノンの中に根を張り、こうして会話の中にさえ取り込める程に記憶している。
先代の魔王も、カノンと似て優しい人物だった。故に先代の思想も、カノンとはとても相性が良く、2代目という新たな世代もこの国に容易く馴染んだ。
「そんなことだろうと思ったぞ。レオンの言いそうなことじゃ」
「流石は慧眼ですね」
カノンとメレだけが談笑し、その姿を見つめるシーヴァが微笑む。しかし残りの面々は笑顔など作れず、込み上げてくる恐怖と胃酸を腹の底へ押し込むように、カップの中にある紅茶を一気に飲み干した。
「時にカノンよ、あの計画は順調なのか?」
場の空気を和らげるように、ゆったりとした口調でメレが言った。
「ええ。この調子でいけば、あと1年もすれば計画は完了するでしょう。そうすれば俺達も……」
「……まあ尤も、全てが円滑に進めばの話……じゃがな」
メレが持ち出した議題は、次の勇者戦に関する話以上に不安なようで、最年長のメレと魔王のカノン以外、誰も会話には参加しなかった。
「理想に於いて大切なのは、叶えようとする努力と、叶えたいという信念です。そのどちらかが欠ければ、理想はただの夢幻になります」
「それもレオンの受け売りか?」
「いえ、俺自身の言葉です」
きっと、先代も似たようなことを考えていた。だからこそメレは、カノンの発言を「受け売りか」と疑った。
カノンとシャズアが作った険悪な空間を、今度はカノンとメレが和らげる。凍っていた幹部達の表情も徐々にほぐれていき、固まっていた声帯も柔らかくなった。
その後、シャズアだけが居ない幹部の会議は、微妙な進行を経て、いつの間にか終了。紅茶を飲み干し、お茶請けを完食した一同は、会議終了と共に解散した。
◇◇◇
濃紺の空に浮かぶ白い月は、限りなく満月に近い楕円形。昨日よりも強い月明かりが、灯りが消えつつある街を照らす。
「うん、今日も美味しい」
「ありがと」
窓を開け、夜の空気と月明かりを室内に招待する。月の輝く夜には、カノンは自室の照明を落とし、窓の近くで椅子に座る。そしていつも、白い月光だけで室内を照らしながら、少し甘めに作ったミルクティーを飲む。
ミルクティーを作るのは、決まってプラナ。メイド長補佐であるプラナだが、メイド用の寮ではなく、カノンと共に同じ屋敷で暮らしている。故に、メイド達の退勤後も、こうして紅茶を入れる。
勤務中のプラナであれば、指示をされない限り椅子には座らない。しかし今は勤務外。カノンの隣に座り、共に紅茶を飲む。加えて、誰も見ていない、誰も聞いていない状況であることを踏まえ、話し方もかなり砕けている。
そしてプラナと共に居るカノンの話し方も、他の国民には聞かせないような柔らかい口調と声質になっている。
「カノンは知ってる? 外つ国では最近、文学作品っていう本が人気なんだって。作家さんが物語を綴って、読む人を楽しませるの」
王国デュールは壁に囲まれ、人間の住む国も壁に囲まれている。本来この壁は、夜間に現れる野獣や怪物の類から身を守る為の壁であるが、今では領土の証明のような役目を果たしている。
デュールと人間界の間には、どちらの国にも属さない土地が広がっている。が、デュールと人間の国が有る大陸はそこまで広大ではなく、その大陸内に他の国は存在しない。国は無いが、どちらの国にも所属しない集落は複数ある。また、大陸は先の見えぬ海に囲まれており、デュールと人間界の敷地内にも海岸がある。
人間も魔族も、海の向こう側はあまり知らない。特に人間側は完全なる無知で、海の上を進んでみる勇気も抱いていない。
しかし魔族は、少しだけなら知っている。魔族には、海の向こう側を知ろうとする勇気と努力があったのだ。
「文学作品……伝記とは違うの?」
「伝記は多少の誇張を加えた実話だけど、文学作品は実話とは違う創作物……作り話だよ」
魔族の冒険家達が集結し、知恵を絞り、決死の覚悟で海の上を進んだ。
冒険家達が発ち1年が経過した頃、デュールの海岸に、髭が伸びた冒険家達が帰還した。冒険家達は進行の末、魔族と人間の住む大陸とは別の、もっと広大な大陸を発見していた。
その大陸では、種族の違いによる争いなどは勃発しておらず、極めて平和的で、極めて神秘的で、極めて夢幻的だった。
自分達の国には存在しないもの。自分達には無い思想。そして、自分達とは違い魔法を必要としない文明を発展させていた。
帰還した冒険家達は、その国を理想郷と例え、外つ国と呼んだ。それ以降、冒険家達は外つ国へ何度か旅立ち、その度に外つ国の情報を入手している。
「前に貰った文学作品の中に、こんな文章があったの。"月が霞む程に美しく、砂糖が苦く感じる程に甘い。彼女は悪魔だ。私の心を狂わせ、雄としての本能を刺激する。しかし私は、心から彼女を欲している"……読んだ時に思ったことがあるんだけど、言ってもいい?」
月の光に邪魔をされ、プラナの耳と頬が紅く染まっていることが、カノンの目には捉えられなかった。
「カノンから見て、私は月より綺麗? 砂糖よりも甘い? 他の人より特別に見える?」
少し首を傾げ、上目遣いになる角度で言う。いつもより僅かに瞼を下ろし、眠たげな猫のような顔を見せる。
「……特別じゃないと、こうして一緒に紅茶を飲んだりしてない」
カノンは、プラナから目を逸らしながら言った。
プラナは知っている。カノンは羞恥心を抱くと、不意に視線を動かす癖がある。即ちたった今、カノンはプラナとの会話で照れている。
自分で話を振っておきながら、プラナは心臓が潰されるような辱めを受けた気分を抱いた。しかし、特別視されているという事実を確認できたことも確かで、プラナは無言のまま狂喜した。
……が、プラナは必死に本音を抑え、緩みかけた唇をぐっと閉じた。
「実は今日、羨ましかったんだよね」
「……何が?」
「カノンの言葉責め……私じゃなくてシャズアが貰ってた。不機嫌なカノンの喋り方と雰囲気……今思い出しただけでも疼くよ」
シャズアと他の幹部達は、カノンの発するプレッシャーに押され、体調不良を訴えるレベルまで身の危険を感じていた。しかしただ1人、プラナだけは、プレッシャーをダイレクトに浴びているシャズアの境遇を羨ましいと感じてしまった。
同時に、確かに伝わってきたプレッシャーを感じ、心臓や灰ではなく、性欲を詰め込んだ肝袋を刺激されたような快楽と苦痛が織り交ざった感覚に、思わず手に汗を握り、唇を軽く噛んでしまった。
カノンは知っている……否、カノンだけが知っていることがある。
「私にも分けて欲しかったな、あの圧力……」
プラナはカノン相手に限り、マゾな一面を覗かせる。
他の相手には割と淡白で、メイド特有のビジネススマイルを見せる程度に留まる。しかしカノンが相手になれば、ビジネススマイルなど出来ないほどに体が過敏になり、淡白とは言えぬ感情的人物へ変貌する。
「分けたりはしないよ。けど、もしも与えるなら、それはプラナにだけ…………言葉は苦手だから行動で示すよ」
カノンはまだ温かいミルクティーを飲み干し、今度は真っ直ぐな目でプラナを見つめた。冷たいようで柔らかく、優しいようで切れ味のあるその目で見られた為に、辛うじて冷静さを維持していたプラナの理性は崩壊した。
「じゃあ……今日も、首……締めてくれる?」
「分かった。死なない程度に、だけどね」
「できるだけ強く、ね?」
カノンとプラナ。2人が昼と夜で関係性を切り替えることは、他の誰も、シーヴァでさえも知らない秘密である。
これから始まる2人の甘く熱い時間を知るのは、夜空を彩る銀色の月と、濃紺の空を裂く一筋の流星のみである。
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