その二十三 返却されない本

 週明け初日、バロー様より早く出勤したくて、いつもより早めに起きて書庫へ行ったけど、眼鏡の彼はすでに椅子に座って本を読んでいた。


「おはようございます、バロー様」

「おはようございます、シュバリエ様」


 しかも私が丁寧な挨拶をすると、立ち上がってさらに丁寧な挨拶を返されてしまった。


「あの、バロー様。私は下位貴族の出ですので……」

「殿下の特別な人に失礼があってはなりませんから」


 先週と同じやり取りになってしまった。


 スザンヌ様の情報通りなら、バロー様は上司に楯突いて閑職である司書官に飛ばされた訳だ。

 ならば苦い経験を糧に、私への接し方を気にしていると思える。

 貴族位でも職責でも私よりずっと上の立場なのに、気を遣わせるのが申し訳ない。


「あの! 私にできることがあればやりますから!」


 彼の力になりたいと思ったら、つい口にしていた。

 自分にできることは仕事くらいなので、何か手伝おうとしたのだ。


「まさか。殿下の特別な人に何かさせられませんよ」

「その特別な人ってやめませんか? 私の名前はマリーです。まずそこからです」


 思い切って彼との距離を詰めようと名前呼びを迫ってみる。

 多少慣れ慣れしくてもしょうがない。

 だって、スザンヌ様は疑り深いから。

 こうでもしてバロー様と仲良くなっておかないと、本当に彼からロラン様の情報を聞き出したのかと、スザンヌ様に疑われてしまう。


「ですが、シュバリエ様――」

「マリーです! ジルベール様!」


「いえ、それではあまりにも……」

「じゃあ、私を下位貴族の孫娘として扱うか、マリーと名前で呼ぶか、どちらか選んでいただけます?」


 らちが明かないので強引に迫ってみると、あごに手を当てて悩んだ彼は「それではマリー様で」と受け入れてくれた。


「ですが、マリー様。お手伝いしたいとおっしゃいましても、ご覧のありさまで……。私も忙しくはないんですよ」

「でも、困りごとのひとつくらいあるものですよ?」


「まあ、ないこともないのですが……。ほぼ無理というか……」

「あるんですね? どんなことですか?」


 消極的なジルベール様に食い気味で質問すると、立ち上がった彼は貸し出しカウンターの引き出しからカードの束を取り出した。


「このカード一枚が本一冊に付随していて、本を貸し出す際に抜き取ってここで管理します。つまり、この束の分だけ本を貸し出しています」

「たくさん貸し出し中なのですね」


「問題は長期返却されない本があることです。返却期限はとうに過ぎているのに、返されない本がたくさんあるのです」

「それなら、いまから返してもらいに行きましょう!」


 私が胸の前でパンと両手を合わせて提案すると、ジルベール様が困った顔をした。


 ◇


「マリー様がグイグイいき過ぎで心が休まりません」

「うふふ。主張の正当性はこちらにあります。平気ですよ」


 王城書庫へ戻った私たちは、残った貸し出しカードの束を数える。

 二時間でいくつもの部署を回って、かなりの貸し出し本を回収できた。


「マリー様。残るは、この本棚ごと全部を同時に借りて返されない分です」

「次もがんばりましょう!」


「この部署……人事部署は多分無理ですよ」

「どうしてです?」


 ジルベール様はうつむいて目を閉じるとしばらく黙っていたが、観念したのかぼそりとつぶやく。


「そこは、私が司書官になる前にいた部署です。手に負えない元上司がいるんですよ」

「大丈夫。私も一緒ですから!」


 勢いに任せて人事部署に行こうとするが、彼は動かない。

 いや、動かないのではなく動けないのだ。

 ジルベール様の手や足が震えている。


 きっとその元上司の存在が彼のトラウマになっているのだ。


 心の傷を負った人に無理をさせてはいけない。

 そうやって無理して、心が壊れて辞めていった同僚を、私は何人も知っている。

 だけど後押ししてあげることで、一歩を踏み出せる場合もある。


「無理は言いません。でも、ジルベール様がもし一歩を踏み出したいのなら、私は全力でサポートします」

「一歩を……踏み出す」


 私はジルベール様の横にかがむと、震える彼の手を両手で包んだ。

 ジルベール様の不安が少しでも収まるように。


「大丈夫、私がついています」

「……。私は……私は一歩を踏み出したい」


「では、参りましょう!」


 私がジルベール様の手を取って立ち上がらせると、彼がぼそりとつぶやく。


「仕事に一生懸命なあなたはまるで、女神トラヴァイエ様のようだ」

「まだ何も成し遂げていませんよ」


 仕事を頑張る私としては、仕事の女神トラヴァイエ様のようだと言われて悪い気はしない。

 だけど、これから行くのは容易に攻略できない場所。

 ジルベール様の心を折った元上司がいる部署だ。


 浮かれるのは仕事が上手くいってからだと、私は余計に気を引き締めた。

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