第22話楊玲の長い一日
「楊膳部長、処分が解かれました。やっと潔白が証明されたのです。本当に良うございましたね。私もホッといたしました」
後宮に仕官してから何かにつけ懐いてくる下級宦官の鄭悌が涙ぐみながら知らせに来ても、楊玲の気分は一向に晴れなかった。
「そうか、では料理長、リンリンはどうなったのだ?」
「申し訳ございません。私には分かりかねます。陳茶部長ならご存じかもしれませんが」
「うむ、では陳流々はどこにいる?」
「あの、実は今朝からお姿を見ていなくて……」
「そうか、なら良い。仕事もあるだろう、もう下がれ」
「はい、かしこまりました……」
リンリンの無事を確かめたくて、つい詰め寄ってしまったが鄭悌はまだあどけない幼顔を歪めてほとほと困り果てた顔をするばかり、おそらく実際に何も知らされていないのだろう。
久方ぶりの自由を得たというのに部屋の外へ出る気持ちにもならずぐるぐると居室を歩き回り、手を当てた眉間には険しいしわが刻まれている。
「全く、こんな時に陳流々は何処にいるんだ。呼んでもいない時にはひょっこり顔を出して、あれこれ邪魔をするくせに。肝心な時に役に立たん奴だ。また皇太后さまのご用事であちらこちらに出歩いてでもいるのだろうか」
鄭悌が持ってきた朝餉にも手を付ける気分にならず、粥はすっかり冷めていた。
そして、昼を知らせる鐘の音が鳴るのと時を同じくして、どたどたと慌ただしい足音が廊下から聞こえてくるのを耳にして楊玲の眉間はより一層険しくなった。
「楊玲!リンリンが釈放されたわよっ!」
扉を開けて勢いよく部屋に飛び込んできたのは、陳流々だった。
何時もなら音もたてずにいつの間にやらスッと横に立っているあの陳流々がこんなに音を立てて息せき切ってやってくるのは初めてのことで、楊玲は驚きのあまり何も言葉を発することが出来ず鳩が豆鉄砲を食らったような顔でへなへなと椅子に座り込んだ。
「じゃあ、あたしはまだあれこれとやらなければならないことがあるからこれでお暇するわ!詳しいことは後程、楊玲、アンタ軟禁が終わったからっていきなりあくせく働くんじゃないわよ。今日一日はのんびり過ごしなさいな。じゃっ」
「ちょっと、それだけか」
楊玲が去り行く背中に慌てて掛けた言葉も耳には入っていない様子で、陳流々は早口で言いたいことだけを一方的にまくし立てるとまたどたどたと忙しない足音であっという間に廊下の向こうへ消えてしまった。
「全く騒々しい奴だ。しかしゆっくり過ごせなどと言われても、このように心が波だった状況でいかにしてそのようにすればよいとゆうのだ」
はぁと深いため息を吐き、冷めた粥に手を伸ばす。
口にした粥はどうにも寝ぼけた味で、リンリンの作る塩味は控えめでありながら出汁の効いた風味のある優しい粥とは全く違う。
「全く、料理長一人が休んだだけでこの体たらくか。これは料理人をきちんと仕込んでおかなかった料理長の責任でもあるな」
厳しい言葉を口にしつつも、その口元はほんのりとほころんでいる。
自室で軟禁されてから二週間と少し、その間楊玲の胸はリンリンに対する慚愧の念で埋め尽くされていたのだ。
皇太后の命を受け東北の村へと赴いたとき、こんな小娘の作る総菜が旨いわけがない。
味見をしてすぐに引き返せばよいと思った楊玲の思いは、違う意味で裏切られた。
「これは……親しみを感じさせながら、帝都では口にしたことのない味。この者を連れて帰れば後宮の食は確実に豊かになる」
揉めるようなら上限の金貨の引き上げを申し入れてでも、その価値がある。
しかし、リンリンはこちらの言い値で帝都までついてきた。
ごたごたがあり就任は遅れたが、料理長として期待以上の成果を上げてくれた。
「なのに私は……」
平に何か裏があることは勘づいていた。
だから趙将軍からの申し出があった時は、渡りに船と思い受け入れたというのに。
配下の者を使ってここまでやるとは思いもよらなかった。
自分が甘かったのだ。そのせいで、リンリンには不憫な思いをさせてしまった。
匙から粥がぬるりと零れ落ちて薄い粥の表面に波紋が浮かぶ。
「あぁ、いくら美味ではないとはいえ、食物を無駄にしてはいかんな」
昼餉の用意は断り、空いているはずなのに一向に空腹感を感じられない腹の中に冷たい粥を少しずつ流し込む。
楊玲は東北の下級役人の長子として生まれ、神童と呼ばれるほど学問に秀で書の才も発揮したが、父が早世し体の弱い母と幼い弟妹を養うためにつてを頼り自ら宦官になることを志願した。
こんな薄い粥ですら、当時の自分たちには手が届かないものだったのだ。
「後宮暮らしですっかり贅沢な舌になってしまったようだ」
ふふっと自嘲しながら、窓の外を眺めると季節外れの鶯がぽつりと枯れた枝に留まっているのが目に入る。
「山に行きそびれたのか?」
そう声を掛けると、鳴きもせずにどこぞへと飛び去って行った。
はぐれた鶯、家族が側にいなければホーホケキョと鳴く意味もないのだろう。
あの日幼かった弟妹は、既に皆それぞれの家庭を築き、母は父の元へと旅立った。
「私と同じだな。あの鶯も」
ぽつりとつぶやき、算術用の紙を出しいくらか問題を考えつつ机に向かっていると、後ろから妙に生暖かい風が首筋にふうっと浴びせられて、楊玲はびくっと背筋をのけぞらせた。
「お待たせー」
そこには何時ものように音もさせずに忍び寄って来た陳流々のにやけ顔があった。
「貴様!何故声もかけずに入って来た」
「えー、だって、楊玲ったら妙に感傷的で艶やかな吐息を吐いて鶯見つめて独り言と言ってるんだもの。声かけそびれちゃったわよ」
「そんな時からいたのか!」
楊玲の青白い顔にみるみる赤みが差し、耳と頬、それに首筋を染めてゆく。
「あはは、真っ赤よ。楊玲ったら」
何の気遣いもなくからかう陳流々、すっかりいつもの調子に戻っている。
その様子にホッとしつつも、腹の虫は治まらない。
「全く、あなたという人は。どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんですか」
「いやだー、これっぽっちも馬鹿になんかしていないわよー。友情の証の触れ合いじゃないのー」
「私とあなたはただの同僚です!友人になった覚えはありません!そう、一度たりともあなたを友と思ったことなどありませんからっ」
「あらーすっかり元気になっちゃって、さっきまでしょげ込んでただでさえ青白い顔から血の気が引いて怨霊みたいになってたのに」
「怨霊とは!どこまで失礼なんですか」
「あらー、あんただってさっきあたしのこと貴様とか言ったじゃないのよ」
「そ、それは……急に息を吹きかけられて驚いて、しかし言葉遣いが荒かったのは認める。申し訳なかった」
規律を重んじる楊玲は人にも厳しいが、自分にはより厳しい。
いかに腹が立っていようとも、自らの過ちを指摘されればこう答えるほかはないのだ。
「うっふっふー、良くできました。許してしんぜよう、あたしの僕にしてあげるわ」
「おい貴様!何を偉そうに」
「あっ、また言った」
「うるさいっ、貴様は私の許容範囲を超えたのだ!いくら何でも許すまじ!私は天子様に仕えるもの、その僕なのだ。いくら冗談でも傲慢すぎるぞ、不敬だ」
「あっはははー真面目ちゃんね。楊玲はー、ちょっとは力を抜きなさいよ」
「貴様が不真面目すぎるのだ!」
怒り心頭の楊玲と笑いながら彼をからかう陳流々、その喧々諤々のやかましい夜は深く深く長く続き、窓の外の数多の星たちががまるでその様子を見て笑っているかのようにゆっくりと揺れた。
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