第19話赤い月

 あれから何日が過ぎたのだろう。初めは涙で埃を拭いとり壁に線を引いていたが、すき間風で全て吹き飛んでしまった。

 手の届かないほど上部にある小窓からの薄明かりで、今が朝なのか夜なのかだけは感じ取ることが出来る。

 高所のせいかまるで真冬のような厳しい寒さを感じるが、毛布のような体を温めるものなど差し入れてもらえるはずもなく底冷えのする石の床の上でいつからそこにあったのか分からぬような黴臭い襤褸切れにくるまって日がな一日を過ごす。

 夜も昼もないそんな日々でリンリンの心を占めているのは、自分の潔白を晴らしたいなどではなく、小怡の容態がどうなっているのかという心配だけだった。


 食事は早朝に一度、初老の下男が階段を上るのがきついのかぜぇぜぇ肩で息をしながら届けに来るが、口を利いてはいけないと固く命じられているのか無言のまま格子のすき間から饅頭と椀に入った水を押し込むだけで、小怡の容態を聞けるような隙は全く無い。

 ただ、一度だけ去り際に漏らした独り言が耳に入って来た。「はぁ、楊宦官ときたらあんな虫も殺さぬような上品で綺麗な顔してさ、手下の小娘を後宮に引き入れて謀殺を企むなんてね……」

「それはどういうことですか! 楊膳部長が疑われているんですか!」


 リンリンは鉄格子に張り付いて下男に呼びかけたが、幽閉生活ですっかりか細くなった声は遠くなる背中に届かず、真相を知ることは出来なかった。


 はたして小怡の容態は回復したのか、今は無事なのか、楊膳部長も自分と同じように罪を着せられ幽閉されているのだろうか、リンリンの胸は暗い不安の影が渦巻き貼り裂けそうになっていた。

 どうにもならない、自分の力の及ばない大きな出来事に巻き込まれ、身動きもとれない。

 雁字搦めになってただ塔の中でうずくまっているリンリンに近づいてくるのは、壁の穴からちょろちょろと現れる鼠だけだった。


「キュッキュッキュ」


 甲高い鳴き声を上げながら寄ってくる鼠、煤で汚れて茶色の毛に黒のぶち模様がついてしまっているそれは、別にリンリンに会いにここに来るわけではない。

 饅頭の分け前目当てだ。


「また来たね。ほら、お前の取り分だよ」


 半分のまた半分に割った饅頭をがぶりと咥えると、またさっさと穴に戻ってゆく鼠。


「たまには一緒に食べてもいいのにね。家族に持っていってあげてるのかな」


 ポツリと独り言ちながら、ぱさぱさに乾いた饅頭を少し齧り濁った水をすする。

 食欲がわかなくて小さな饅頭ですら食べきれないが、穴の前に置いておくといつの間にか鼠が持ち去っている。

 こんな饅頭でも鼠にとっては日々の糧なのだ。

 料理屋ということで祖父が人一倍気を付けていたため自宅で鼠を見たことはないが、一度レストランの裏にあるゴミ箱から飛び出して街中を猛スピードで駆け抜けて行くドブネズミを見かけたことがある。

 小さかったりんはその飛び出した灰色の弾丸の勢いに恐れおののき、泣いて怯えて、その晩は夢に見てうなされたほどで「ねぇ爺ちゃんうちのお店には鼠出ないよね」と毎晩毎朝確かめていたほどだった。

 そんな忌み嫌っていた鼠が、今のリンリンにとっては唯一の慰めになっていたのだ。

 この塔でがむしゃらに生き抜いている。その貪欲なまでの生への執着が強さに思えてならなかったのだ。


「もういいや」やはり今日も饅頭を残し、小さな窓を見上げて烏が飛び去って行くのをひたすら眺める。

 そうして日は昇り、落ち、暗い闇の中にぽっかりと明るい月が浮かび上がる。

 しかし、その日の月は違っていた。

 段々と光を失い、赤く、赤銅色になってゆく。

 皆既月食、リンリンがこの大陸に連れてこられたあの日と同じ赤い月。


(どうしてこんなことになってしまったんだろう……)


 滲む目で見上げる赤い月の前を、黒い影が横切り大きな風がリンリンの目を覆った。

 思わず瞑った眼を再び開くと、ふわりと目の前に男が降り立った。


(えっ、あんな小さな窓から、どうやって入って来たの!?)


 戸惑いつつ闇の中で目を凝らすと、その顔には見覚えがあった。

 この月のような瞳、忘れるはずもない。あの日、リンリンを連れて飛んだあの男だ。

 長身痩躯の体を包み込むのは漆黒の夜をまとったような流れるような長い豊かな髪、あの時マントだと思っていたのはこの髪だったのだ。


「あ、あなた一体誰なの、何者なの!? どうして私をここへ連れて来たの」


 やっと絞りだした掠れた声で問いかけると、男はゆっくりと口を開いた。


「我が名はムウ、刻駆稀人、どうしてここに、そのようなことは尋ねてもせんなきことだ」

「でも……」

「どうだ、ここから出たいか」

「出してくれるの」

「あぁ、刻をかけ時空をかけ共に別の世界へ行くか」

「別の世界、どういうことなの?」


 ムウの言っていることが、リンリンにはさっぱり理解できなかった。

 実際にあの日時を駆け、この大陸に、国に連れてこられた。それは分かってはいるのだが、理由を聞けばせんなきことで済まされ説明を拒まれる。


「ここを出られるならそれは嬉しいけど、私だけ急にここからいなくなったら楊膳部長はどうなってしまうの」

「知らぬ」

「知らぬじゃなくて……」


 空虚な押し問答をしているような気分だった。

 この場所についての事柄をいくら聞いても、おそらく答えは返ってこないのだろう。

 それならば別の方向で質問をするしかない。リンリンは違う尺度から何かを引き出そうと試みることにした。


「あの、ここから出て別の世界に行くとしたら、私はどこへ行くの?」

「お前の家族が消えた世界か、はたまた別の場所か」


 思いがけない驚きの返答が返って来た。

 リンリン、当時のりんの記憶からですら消えてしまっている出来事を、何故この男が知っているのだ。


「あなた、私の家族がハイキングで消えてしまったことを何故知っているの」

「刻駆稀人はいつどの場所にも刻にも存在し、全てを見ているからだ」

「じゃあ、あなたが私の家族を助けてどこかに連れて行ってくれたの? 今どこにいるの」

「刻駆稀人にとって全ての時間は繋がり広がっている。どこにいてもここにいると同じだ」


 全てを見ているはずなのに、やはり明確な答えは返ってこなかった。


「同じなら、何故私を別の場所に行かせようとするのよ。ここもそっちもどこも一緒なんでしょ」


 イライラしたリンリンは勢い余ってムウの腕に掴みかかろうとしたが、その手はスッとすり抜けてしまった。

 あの日はしっかりと掴まれたはずなのに。


「それはお前も刻駆稀人の血を引いているからだ。ただの人では我らと共に刻を駆けることは出来ない」

「えっ!」


 衝撃の事実だった。祖父からそんなことは一言も聞いていない。


「一度も聞いたことないわよ。そんなこと」

「それは当然のこと、刻駆稀人の能力は生命の危機にしか発動しない」

「じゃあ、皆何も知らなかったんだ……」


 分からないながらも何となく事情は飲み込めた気はするのだが、やはりこのムウが自分を連れて行こうとすることに疑念が残る。


「ムウは、私を連れて行ってまたどこか別の場所に置いて行くの?」

「そうではない。あの日落下したお前を拾う前に月が戻り時間がかかってしまったが、あの時も共に行くはずだった。お前には刻駆稀人として刻を巡る能力が強く現れる素質がある、共に刻を巡り、他の血をひくものを見つけ出すのだ。さぁ、月が赤いうちに行こう」


 やっと分かった。ムウは共に旅する相棒を探していたのだ。そして、置いて行かれたわけではなくリンリンは落とし者扱いだったのだ。

 ここから出られる。それは魅力的な誘いだ。

 記憶には残っていない家族、それでももし再会できるのならそれもまた魅力的な誘いだ。

 しかし……


「そ、それは……できないわ。私にはここでやるべき事がまだあるもの」

「そうか、では必要な刻、また会うこともあるだろう」

「待って」


 訊きたいことはまだ山ほどあるというのに、赤い月と共にムウは煙のように消えてしまった。


 そしてその三日後、リンリンは塔から釈放された。


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