第14話就任以来初の大役
蜩のうるさい鳴き声もとうに消え、めっきり涼しくなった初秋。
リンリンは楊玲から朝餉の支度前に呼び出された。
「リンリン、あなたに任せたい仕事があります」
朝から算術の稽古が始まるのではと怯えていたリンリンは、そうでなかったことに胸をなでおろしつつ、新しい仕事について気になりそわそわとし始めた。
「何ですか、足をカタカタ揺らしたりして、きちんと揃えてしっかり立ちなさい!」
「はい、すみません」
一気にしょぼくれたリンリンの前で、楊玲はまたしても巻物をするりするりと解き新たな仕事について説明をし始める。
「えぇ、来たる神無月の十日、天子様の御長男であらせられる皇太子殿下が十四歳になられます。この祝賀の儀の料理を宮中の宴会料理を取り仕切る宮廷総料理長ではなく、是非ともあなたに任せたいとのことです」
「ふぁ」
腑抜けた返事にならない返事をしたリンリンを、楊玲はキッと鋭いまなざしで見つめる。その無言の圧力にタジタジとし「ハイイイ!」と大きすぎる返事で返すと、楊玲は耳を手で塞いで眉をギリギリと吊り上げた。
「鼓膜が破れるかと思いましたよ。全くあなたは、やる気があるのかないのか」
「いっ、いえ、やる気は満々にありますぅ、あまりの大役で気が動転して」
声が裏返りながら必死でやる気をアピールすると、あきれたような薄い微笑みが返ってくる。
「それならいいのですがね、これから皇太子殿下のご要望を伝えますので慌てずきちんと聞くように」
「はい」
過日の明煌皇貴妃の茶会の時のように、面倒な注文ばかりを何やかやと言いつけられるのだろうか。
あの時はまだ点甜だけだから良かったものの、今度はフルコース、きっと面倒なことになるに違いない。
リンリンは身を固くし、静かに楊玲の言葉を待った。
「皇太子殿下は宮中晩餐会のときのような格式ばった料理はお望みではないということです。主菜に海老の卵油和えをご所望ですが、その他はあなたの自由にして良い。できれば気軽に食べられて、かつ新鮮で食べたことのないようなものが良いとのことです」
(海老の卵油和え……普段のお食事では、一度も出したことないはずだけど。)
「あの、皇太子さまは何故海老の卵油和えのことをご存じなのでしょう」
「あぁ、陳流々があれやこれや噂していたのをお聞きになったようですね」
楊玲は、面倒そうに口元を歪めた。
このことはこれ以上聞かない方がよさそうだ。しかし、自由に作っていい気軽にとは言っても色々と制約があるに違いない。
(そうは言っても、どうせ細かい注文があれこれあるんでしょ。はいはい、続きを聞きますよーだ。)
リンリンはじっと待ち耳をそば立てたが、楊玲はくるくると巻きものを元に戻し、続きの要望は出てこなかった。
「あれっ、それだけですか」
拍子抜けしたような気分だった。
延々とあれやこれやわがままな注文を付けられると思っていたのに。
「えぇ、これで終わりですよ」
「えっ、でも巻物はそんなに長いのに。あれやこれやと細かい注文が書かれているのではないのですか?」
「あぁ、これはですね、料理の注文以外には我々宦官や配下の者に対する温かなねぎらいのお言葉が掛かれておりました。しかし、あなたはいちいち余計なことを気にしますね」
楊玲は思わず失笑を漏らし、直ぐに顔を引き締めてリンリンに御前房に戻るように命じた。
「いつものように仕事が終わってから自由に御前房を使って試作して良いですから、きちんと良い料理を考えるように。後宮にいる他の女性料理人に手伝いを頼むことも良しとします。その場合時間外の報酬を帳簿につけますから、私に報告なさい」
「はい、承知いたしました」
(気軽でかつ新鮮な料理……これはやはり町中華がいいんだろうか。)
久しぶりに開く祖父のノート、菅沼飯店の人気メニューがずらりと並ぶ。
にら玉、あんかけの炒飯に野菜炒め、エビチリ、胡椒と葱の唐揚げ、酢豚に天津飯にタンメンにワンタン麺、中華丼にかに玉の天津丼などなど、リンリンの好物ばかりだ。
この中で後宮で作っていないものは、天津丼と唐揚げとあんかけ炒飯。温かい麺類も作ったことはないが、これは天子や御子、御妃たちが食す時に既に伸びてしまっている可能性が高いためだ。祝宴でも避けておいた方が良いだろう。
(うーん、おめでたい席だしあんかけ炒飯とかに玉天津丼どっちも作ろうかな。小さいお子様や食の細い御妃さまたちにはハーフサイズとかにして……うーん、考えてるより先ずは作ってみるか)
すっかり暗くなった御前房に戻り竈に火をつけると、ショウが置きっぱなしにしている例の椅子の足に何かが巻き付けられているのが見えた。
近づくと、どうやら文のようだ。
【すまぬが多忙ゆえ、しばしの間試食には付き合えぬ】
リンリンでも難なく読める短く簡単なしかし達筆な文字で書かれたその文は、ショウからリンリンに宛てたものだ。
「あーあ、今回も一緒に考えてもらおうと思ってたのにな。そっか、忙しいのか……」
約束をしていたわけではないが、今までの試作でずっと力を貸してくれたショウのことを此度もふらりと現れて助けてくれるに違いないとすっかり当てにしていたリンリンは、肩を落としふーっと小さなため息をついた。
しかし、すぐさま楊玲に言われていた言葉を思い出すと、パッとある顔が頭に浮かんだ。
(そうだ、残業手当も出るって言われてるし、小怡に頼んでみよう!)
そうと決まればすぐに呼びに行こう、くるりと踵を返し自室を通り過ぎて細い廊下の突き当りにある以前の部屋、女中用の寝所改め女性料理人の部屋へと向かう。
部屋は変わらないが、料理人になったことで彼女たちの待遇も改善され奉公に来る前に支払われていた前払いの給金のほかに料理人手当がつき、五人用だった部屋を今は三人で使っている。
(あっ、でももう寝ちゃってるかもしれないよね。最近忙しくて皆賄いを食べるのもそこそこに働いていて、かなり疲れているだろうし)
扉を叩こうとした手をおずおずと引っ込めて、明日にしようか、仕事の時に頼んだ方がいいかと迷っていると、ガラガラといきなり扉が開いた。
「あれっ、リンリンじゃないの、どうしたの?」
小怡だ。
「あ、あの、小怡こそどこか行くの?」
「うん、ご不浄に行こうかと」
ご不浄とは、いわゆるトイレのことだ。
「やだ、ごめんね。早く行って行って」
「でも、何か用事があったんじゃ?」
「それは終わった後でいいよ」
此処で会ったが百年目だ。どこか間違った使い方の時代劇調の言葉が脳裏に浮かぶ。
早足で進む小怡の後をてこてことついて行って来た廊下をまた元に戻り、つられて用を足したくなったリンリンは終わった後に意を決して口を開いた。
「あのね、私皇太子殿下のお誕生日会の祝賀の料理を頼まれたの。それでね、試作をするから小怡に手伝って、ううん助けてほしいの!」
ご不浄から戻ったばかりの両手でぎゅっと自分の手を握られて、小怡は一瞬目を白黒させたが直ぐにぎゅっと握り返し、小鹿のようなつぶらな目をカッと見開き真剣な顔でうんうんと頷いた。
「すごいじゃないのリンリン。祝賀料理を任せていただけるなんて! 私もうれしいわ。是非とも手伝わせて!」
「わぁ、疲れているのにごめんね。ありがとう」
力強い言葉に、目が思わず潤む。
友情とは、なんと心強いものなのだろうか。
「ほんどにうれじい、小怡私とお友達でいてくれてありがとう」
「ごちらごそ、後宮に来てずっと心細かった私に初めて出来たお友達がリンリンあなたなのよ。友の喜びは私の喜び、友の苦労は私の苦労。何でも分かち合わせて」
目を潤ませ、鼻をズビズビすすりながらご不浄の前の暗い廊下で友情を確かめ合うリンリンと小怡、まるで二人で手に手を取り熱い友情の舞でも踊るかのような雰囲気の中、ふっと同時に真顔になり顔をしかめた。
「なんか、ここちょっと臭いね……早く移動しよ……っか」
「うん……」
ふわふわと廊下まで流れ出てくるツンとする刺激臭に多少の水は差されたが、二人の熱く燃え上がった友情の火はそんなことでは消えやしない。
暗い廊下を手に手を取ってキャッキャウフフと小声でクスクス笑い合いながら、御前房へと先を急いだ。
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