第10話勉強、勉強、冷やし中華、でもあれ食べたいっ!

 料理長に就任してから早三か月、季節は春から夏へと移り変わったが後宮の庭園の木々が花を落とし青々と茂る葉を夏の強い日差しが照らしているさまを見ることもなく、リンリンは御前房、そしてその横の膳部長室で忙しい日々を送っていた。

 出世により以前の雑多な五人部屋を出て、小さいながらも個室を与えられた。

 明り取りの小さな窓から差す日差しはか細くて朝でも薄暗く、机と寝台だけでいっぱいになるような狭さであったが、リンリンは満足だった。


(小怡と寝る前のお喋りができなくなったのは少し寂しいけれど、何の気兼ねもなく一人で羽を伸ばせるのはやっぱり嬉しいな。)


 しかし、そんな期待むなしく結局この部屋でリンリンは眠る以外のことはしていない。

 朝餉、昼餉、夕餉の支度の合間には楊玲の元へ出向き漢詩と算盤の手習いをして自由時間など全くないのだ。


「はい、では次の書き取りです。私が読む詩を紙に記していきなさい。【水の如く時は流れ深き山の麓の里にも天子の声轟き民を安堵さす大河のごとき広き御心よ】」

「えっと、梺の……」

「リンリン! ふもとは麓です」

「すびばせぇん……」

「次は算術です。百二十八なり三十三なり引いては百五十、では!」

「えっ、待って待って……」


 木の珠をはじく指がすべり、慌ててしまいうまく動かない。

 簡単な足し算と引き算だ。落ち着いて暗算をすれば良いというのに、気ばかり焦ってそれも思いつかない。


「じゅ、十でしょうか」

「十一です」


 蒸し暑い夏の日中だというのに、冷え冷えとした声と眼差しがリンリンの背筋を凍らせる。新しい下働きの使用人がやって来て仕事は楽になったはずなのに、毎日この調子では部屋で一人のんびり過ごす時間などあろうはずもない。


「おや、もうこんな時間ですね。昼餉の支度をお願いしますよ」

「はぃぃ……」


 くたくたに疲れた頭を抱えて炊事場へ戻ると、「あー料理長さんこんにちはー」明るい笑顔の子供らに出迎えられる。

 この子供達が、新たな下働きの下男と下女だ。

 平達が去って下女中たちが料理人になり、近隣の町人に下働きの募集をかけたところその家の子供らがぞろぞろと後宮の門前に押しかけてきてしまった。

 余りに幼い子らはそのまま家に帰したが、年長の子らは困窮する家の事情も鑑みて採用し、午前と午後に分かれて働き賄いの食事を終えた後は楊玲の部下である若い下級宦官たちから読み書きを教わることとなった。後宮の裏庭の小屋で開かれた私塾である。

 働きに来て勉強なんて嫌がるのではないかと内心思ったリンリンであったが、彼らはお給料や家族への饅頭も配給され、その上読み書きも教えてもらえるとは何たる僥倖とばかりに大喜びした。

 その向上心を煎じて飲みたいと思いつつも、電卓と漢和辞書があれば全部解決するのにと文明の利器への執着が捨てきれないリンリンであった。


「さぁさぁ、今日の昼餉は胡麻涼麺だよねー。麺の準備はおー出来てるねー、では私っと」


 勉強の疲れを吹き飛ばせるのはやはり料理、今日の昼餉の涼麺作りに気持ちを集中させる。

 基本は菅沼飯店の冷やし中華と同じ、茹で上がった麺の上にトッピングをする。

 しかし、この地の人々は冷たい麺を好まぬので麺は冷やさず温かいたれを添えるつけ麺風常温中華だ。

 ここ御前房では生野菜は使用禁止という掟がある。新鮮なものでもそのままは使用できない。けれど、やはりトマトは欲しかったとリンリンは思う。湯引きして散らせば色合いもいいし、酸味が麺や温かい胡麻だれともよく合っただろう。

 その代わりと言ってはなんだが、乾燥唐辛子を卵油に混ぜ込み皿の縁をぐるりと囲み色を足す。そして麺の上には錦糸卵と油通しをした千切りの瓜、と酢漬けの胡瓜をハムの代わりに燻製の猪肉を薄く切ったもので包んだ肉巻きを乗せる。

 この主食にふわふわ卵と玉蜀黍、そしてモロヘイヤの汁、軽い昼用点甜の胡麻団子を添えて、さぁ出来上がり、なかなか美味しそうだ。やはり夏は冷やし中華に限ると思いつつも、リンリンの頭の中は別の料理のことでいっぱいになっていた。

 それは、カレーだ。

 菅沼飯店の裏人気一番はカレー丼だった。何故裏なのかというとメニューに載ってないからだ。

 厨房の奥にある家庭用の小さな台所から漏れ出るカレーに匂いに気付いた常連客だけが、注文しありつけるカレー丼。中華スープでことこと季節の野菜を煮込み、脂身で炒めたごろごろの豚の角切り、カレー粉と片栗粉でとろみをつけグリンピースを散らしたカレー丼はりんの大好物でもあった。


(あぁ、カレーカレーカレーが食べたいよぉぉ。ううう……)


 何故こんなことになったかというと、どこからかカレーのような匂いが漂ってくるからだ。

 カレー、カレー、カレー粉みたいなこの匂い。ふらふらとその匂いを捜し足を向けると、そこにはまたいつの間にか仕事をさぼってつまみ食いをする陳流々の姿があった。


「あ、あの」「何ヨ、子羊ちゃん、もう食べちゃったものは返せないわよ」


(あー、カレーの匂いって言っても通じないよね。スパイス、じゃなくて)


「あの、香辛料の匂いが気になって」

「あらっ、臭かったかしら」


 口の端から錦糸卵の切れ端を垂らした陳流々が、帽子からごそごそと薄茶色のくしゃくしゃになったズタ袋を二つ取り出した。


「これねー、南方の妹が送って来たのよー。あたしはこんなの要らないんだけどねー羊の餌にでも混ぜちゃおうかしら、うーん捨てちゃう?」


 勿体ない、これを使えばカレーが出来るかもしれないのに。

 ひゅっと屑籠に捨てる真似をした手元のズタ袋に思わず縋りつき、リンリンは陳流々に懇願する。


「す、捨てるなら私に譲ってくださぁぁい!」

「あらー、そんなに欲しいの?」

「はいっ! 欲しいですー」


 揉み手で頼むいつになく低姿勢のリンリンに、陳流々は意地悪な何か含みのある目線を向け、スッと錦糸卵を吸い込みながら右の口の端だけでニィっと笑った。


「そうねー、でも妹が折角わざわざ送ってくれたのにただで上げるのはねぇ。香辛料って、市場で買うと随分値が張るのよねぇ」


 さっきまで要らないと言っていたのに、対価を要求するような口ぶりだ。



「あ、あの……だったら、この中から必要な分を取ってください」


 リンリンが懐に隠していた小袋を差し出すと、陳流々はその中から銀貨三枚を抜き出した。


「そうね、これくらいでいいわ。全くー大出血の大安売りよー子羊ちゃんだからと・く・べ・つ」

「はいっ、ありがとうございます」


 銀貨三枚、決して安い金額ではない。それはリンリンの料理長としての給金三か月分に就任特別報酬を加えたもの。ほぼ全財産だ。

 他には下女時代の給金の銅銭数枚しか残っていない。後宮入りする前に貰った金貨三枚がここでの任期中すべての報酬だとばかり思っていたが、あれは支度金というものであったらしい。料理長就任の際に楊玲から下女で働いた分の給金を貰ったときにそのことを知らされたが、金の使い道がないリンリンはすべてを小袋に入れて持ち歩いていた。

 自分の部屋には鍵はなく、なんとなくしていた行動であったが今日のこの日のためだったのかもしれない。

 無一文に近い状態となってしまったが、リンリンは満足だ。

 そして、思いがけず銀貨三枚という臨時収入を得た陳流々も実に満足そうにそれを帽子にしまい込むと、胡麻団子をぽいぽいっと数個口に入れてホクホク顔で踊るような軽やかな足取りで御前房を後にした。

 香辛料がいかに高価とはいえ、陳流々のそれは貰い物。終始見守っていた料理人仲間たちは足元を見られたリンリンをペテン師の口車にまんまと乗せられてしまって気の毒にとでもいうような憐憫の眼差しで見つめている。

 しかし、リンリン本人は騙されたなどとは微塵も思わず、ただウキウキと沸き立つ心でいっぱいだった。

 これで夢にまで見た(実際は陳流々の振りまく匂いで思い出しただけだが)カレーを食べることが出来るかもしれないのだ。

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